メディアグランプリ

マリーナベイサンズホテルと顔面骨折事件


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事:近本由美子(ライティング・ゼミ木曜コース)
 
「ううう……」
大理石の床に顔を押し付けてうめき声を上げた。
一瞬気を失っていた後、激痛が襲ってきた。痛すぎて起き上がれない。
ドック、ドック、ドック。心臓の鼓動がカラダの髄まで感じられる。
何が起こった? 思考は停止状態になった。
ここは、シンガポールのマリーナベイサンズホテルの32階のバスルームだ。
 
シンガポールの高層ホテル200mの屋上にプールがあるホテル。
スマップが解散する前、摩天楼が見える天空のホテルのプールでスマホを片手に軽やかに歩く姿のテレビCMが印象深いあのホテルだ。
友人たちがシンガポールのツアーに申し込んだという話を聞いて、いいなあと思った。
「ねえ。今度みんが泊まるホテルあそこなんだって」とCMを見ながら私はつぶやいた。
「行きたかったら、行っていいよ」と夫が言った。
「え! 本当? いいの?」と私。
「だって、行きたいんでしょ?」
思いがけない夫の後押しで、シンガポールの旅に遅れて申し込んだのだ。
 
人数の組み合わせで私はこのゴージャスなホテルで一人部屋だった。
このホテルのロビーは圧巻だった。
吹き抜けというより、天まで続くような広々とした空間が贅沢さをひときわ演出している。
お決まりのシンガポールの街並みツアーもそれなりに楽しかったけれど、このホテルの中で過ごすだけで充分だと思った。
 
私は、友人と夕食のあと最上階のフロアーでワインを少し飲み、夢心地だった。
窓から見える夜景は、煌き別世界へと導かれた気分だった。
そんな気分を満喫したあと、部屋に戻ってゆっくりお風呂に入ることにした。
一人部屋にしては広すぎるパウダールームとバスルーム。そしてシャワールームがついていた。シャワーのお湯を温めたあと、バスタブにお湯を張り始めた。
部屋からは、ライトアップされたガーデンズ・バイ・ザ・ベイの植物園の巨大なツリーが
幻想的な紫色の光に包まれているのが見えしばらく見とれていた。
 
「あ、バスタブのお湯を止めなきゃ!」ほろ酔い気分で私は、今にもあふれそうなお湯を止めに走った。
そう走ったのだ。バスルームの床はツルツルの大理石だった。
その床には、はねたお湯が少し飛び散っていたことに気付かなかた。
その時、私の片方の足のつま先は、はねたお湯の一点に全体重がのったのだ。
次の瞬間、カラダは高速回転をしたようだった。カラダのコントロールを完全に失った。
手を出す間もなく、右ほほから床に激突した。
 
「ううう……」うめき声も絞り出すようにしか出ない。
5分か、10分かうずくまっていた。これは大理石のバスルームで起こった交通事故のような衝撃に違いなかった。
そしてその目撃者はいない。
よろけながらゆっくり立ち上がり、パウダールームの鏡の中に映る自分の顔を恐る恐る見た。
右目の下のほほあたりがすでに大きくはれそれは目の周りにもつながっていた。
目の下のほほにゆっくり手を当ててみると、かすかにジャリっという感触だった。
顔の骨が折れている?
真夜中のマリーナベイサンズのホテルは一気に私を奈落の底に落とした。
普通、こういう時はツアーコンダクターに伝えて病院に連れて行ってもらうか、ホテルのフロントに行って連絡を取ってもらうかだろう。
しかし私がヘタに騒ぐとどうなるだろうか? 自分のせいで楽しい旅行が台無しになることの方が痛みよりつらいことだ。ましてや海外の病院なんか行きたくはない。どうにかして何事もなかったように過ごせないものか……。そんなことを考えながらタオルでくるんだ氷でほほを冷やしながらベッドの上で考えた。
「もしかしたら、打撲だけかもしれない。朝になったら腫れはひいているかもしれない」
一人でベッドの上でうずくまりながら朦朧としていると朝になった。
朝になると腫れは余計にひどくなり、口を大きく開くこともできなくなっていた。
待ち合わせの朝食の場に私は大きなサングラスをして行った。
「どうしたの?」と待ち合わせた年上の友人が聞いてきた。
「ちょっとバスルームで転んで、顔をぶつけちゃったんです」とゆっくり軽めに伝えた。
「あら、大丈夫?」
「私、この後ツアーは控えてホテルでゆっくり過ごします」
大きなサングラスのおかげで、みんなには顔の腫れは見えないらしい。
贅沢な朝食ものどを通るのはスープだけ。咀嚼が出来ないという事実に一人ますます落ち込む私。
ロビーで別の友人が話しかけてきた。事情を話すと「ゆみちゃん、大丈夫。骨折していたらそんな普通にしていられないわよ!」
いや、相当痛いのを我慢しているだけなのだけど。どうやら私はいたく平静らしい。
みんながそれぞれに街へ出かけるのを見送りながら、
「あと1日、我慢して過ごせば日本につく。それまでの辛抱だ!」と心に決めた。
こんな時も人に気を使われることが苦手な自分を自覚する。
どうにかして残りの時間、気を紛らわさなきゃと思った。そうしないと自分が辛い。
そうだ。まだここのホテルの天空のプール、インフィニティ・プールには行っていない。
私は、午後から部屋で水着に着替えプールに向かった。痛むほほをサングラスで隠して天空のプールにカラダを沈めた。
地上200mのプールから見えるシンガポールの街も海も私をときめかせることはできなかった。
それでもせっかくの記念だと思いなおし、写真をホテルのスタッフにとってもらった。
口角が上がらない笑顔で無理してほほ笑んでみた。
 
日本に帰ると、4軒の病院を回ることになった。精密検査の上、形成外科でほほにボルトを4本入れて骨をつなぐ手術をすることになった。
感覚も顔の状態もどれだけ回復するかはわからないと言われた。
奈落の底には、さらに奈落があった。そんな気分になった。
 
手術は無事終わった。しかし、顔の腫れはますますひどくなった。
もし、顔が元通りにならなかったら人前に出なくても出来る仕事ってなんだろう?
もし、顔が元に戻らなかったらどんな気持ちで毎日を送ろう?
でもこの最悪の現実に家族である夫も娘も父も母も誰も私を責めなかった。
傷が治ることを静かに見守ってくれる家族はなんともありがたいことだろう。
最近立て直された高層ホテルのような病棟の部屋から桜の花が咲いているのが見えた。
非日常のキラメキや刺激のある生活にあこがれるけれど、何にもない普通の当たり前の
日常ほど貴重なものはない。
それを私に気づかせるには十分なインパクトがあったマリーナベイサンズのホテルの
バスルーム顔面骨折事件だった。
 
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2018-12-06 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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