信号待ちの女
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記事;服部動生(ライティング・ゼミGW特講)
あの夜、私は家路を急いでいた。時刻は既に午後九時を回り、へとへとになった私は、ふらつく足で必死に歩いている。早く家に帰りたい一心で、体は前に進む。
ただ、急ぐといっても立ち止まらないだけで精いっぱい。これ以上速度を上げたら転んでしまいそうだ。
しかし、こんな状態でも一か所だけ立ち止まらなければいけない場所がある。家の手前100メートルほどにある横断歩道だ。夜間押しボタン式の信号なので、ボタンを押してからでないと渡れない。
いや、別に交通量は少ない道路なので、信号を無視するというのも十分アリだ。でも、そういうところで私は妙に律儀な人間らしい。どうしても正規の手順を踏まなければ気持ち悪い。ボタンを押すことは私にとって決定事項だった。
曲がり角を過ぎると、30メートルほど先に信号が見えてきた。おや? 今日は先客がいる。二人の人影が見える。やった、ならば先にボタンを押してくれているはずだ。思っていたよりも早く渡れるかもしれない。しかし、私は次の瞬間大きな溜息をついた。
なんとボタンの機械には「ボタンをおしてください」と表示されている。その二人はボタンを押していなかったのだ。私もたまにやるが、特に夜間推しボタン式は存在を忘れられがちである。そして、忘れていた時に後から来る人に押される気恥ずかしさと言ったらない。ただ私は疲れから、二人のうっかりを許容することはできなかった。何やら話し込んでいる二人を内心馬鹿にながら、ずいずいとボタンに近づくとあの硬いボタンをグイと押した。
ボタンを押したことで、表示は「しばらくおまちください」に変わった。さ、これで心置きなく渡れる。正しい手順を踏むことはなんと気持ちの良いことか。しかし、私はここでもう一つ変わったことに気が付いた。前からいた二人の声のトーンが変わったのである。
私は失礼にならないようにちらりと横目で二人を見た。遠目からはよくわからなかったが、若い男女であった。男と女は同じくらいの身長で、たぶん成人ではない。せいぜい中学生のカップルといったところか。いや、どこか距離がある。付き合ってさえないだろう。私は視線を前に戻し、いまだに赤く光る信号を見つめて腕を組んだ。早く青にならないか。しかしなんだろうこの違和感。二人とは微妙に距離があり会話の内容はよくわからない。だが、なんとなく悲しそうな雰囲気は伝わってくる。
もしかして、わざとボタンを押さなかったのではないか?
昔、私が本当に若かった頃、これと似たようなことがあった気がする。
中学生の頃、何がきっかけかは思い出せないが一緒に帰る女子がいた。彼女がバスで登下校していたため、バス停が私たち二人のゴールだった。そこから先は私一人で帰らなければいけない。
学校から出たばかりの時は、二人で楽しく話していた。けれどバス停が近づくたびに、なんだかとても寂しい気持ちが募っていく。足が重くなる。当時はそれがどうしてだかよくわからなかった。
バス停についたとき、あと数分でバスが来てしまうという事実が、中学生の私には残酷だった。
でもその時彼女はこう言ってくれた。「もう一つ先まで歩こうよ」
どうしてこの言葉が嬉しかったのか、今なら言える。
大人になった後で振り返ればなんてことはない。好きな人とはできるだけ時間を共にしたいものだ。なんやかんや言って理由をつけては、二人の時間を伸ばしたい。あるいは、有限だとわかっていても、この時間がずっと続けばと願うものだ。
帰り道一緒にいる時間はもちろん、学校行事で踊る時も、どこかに遊びに行った時も、この時間が永遠であればいいと、心のどこかで思っていた。
私はもう一度ボタンを見やる。やはり表示には「しばらくおまちください」とある。この信号はほんの数十秒で青になってしまう。私は気になって、もう一度二人を横目で見た。二人とも楽し気に話している。でも、私には二人の笑顔がどこかぎこちなく見えてしまってならない。多分思い過ごしなんだろう。かつての青春を今の若い世代に重ねるなど馬鹿のすることだ。そうは思っても、少しだけボタンを押した右手がこわばる。
今日だけは信号無視をすればよかった。私は潔癖症の完璧人間じゃない。ただ何故かこの信号のボタンにはちょっとこだわってしまうというだけなんだ。こうして立っている間も、車なんて一台も通らなかったじゃないか。私はつい空を見上げて星を見ようとした。だが、都会の空でも見える星は、力強く、自信満々に輝くものばかり。私を慰めてはくれない。
諦めて顔を落とすと同時に、信号が青になった。私は足早に信号を渡る。そして、やや遅れて少年が私の後ろをついてくる。少女はどうやら、信号の向こうにとどまっているようだ。
信号を渡り切ったあと、私は立ち止まり不意に振り返りたくなった。あの時もよくやったことだ。別れた後、実は相手がまだそこにいるのではないかと思って、何度も振り返りながら帰った。二人のその後が気になっているのか、あるいは、自分の過去に酔っているだけなのか。
私は振り切るように早足で家に向かった。しかし、今日の二人からは離れられても、思い出はずっと私の背中をついてくる。二人には悪いことをしたが、大人になって、久しく忘れていた感情。本当に若い頃しか感じえない純粋な思い。たまには思い出してみてもいいかもしれない。
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