READING LIFE ver.20220208 読書特集号PROTOTYPE版

福澤諭吉の『学問のすゝめ』を現代人が読むべきではない理由〜読書の両輪性〜


 


記事:三浦崇典
   (天狼院読書クラブ/TENRO-IN BOOK CLUB グランドマスター)




 福澤諭吉の『学問のすゝめ』は、言わずとしれた、明治期の大ベストセラーです。

 本当かどうか、人口が今よりかなり少なかった時代に、100万部売れたとも言われています。ただ、他に娯楽が少なかったこと、活字に飢えていた時代のことなので、なくはない話ではないかと思います。
 誰もが、その書名を知っているでしょうが、それでは、実際に『学問のすゝめ』を読んだことがある人はどれくらいいるでしょうか?
 皆さんは読んだことがありますか?
 多くの方は、

「ああ、あの“天は人の上に人を造らず”のやつですよね」

とまでは言い、「で、読んだことありますか?」と聞けば、

「いや、実は、読んだことがないんですよ」

と言うのではないでしょうか。試しに、近くの人に同じ質問をしてみてください。同じような答えがえられるはずです。
 実は、この『学問のすゝめ』、初めて読むと、おそらく、衝撃を受けるはずです。特に、僕は若いときは小説家を目指していた文学青年だったので、これを読んだときの衝撃を忘れることができません。

 読んでいる最中に、何度、

「ウソだろう……」

 と、呟いたことか。
 福澤諭吉に関しては、中学生のときに図書館で『マンガ福澤諭吉』を読んでいて、愛着を覚えていました。学問をすすめる、いい人だろうと思っていました。あるいは、愛着を持ったのは、1万円札になっていたからかもしれませんが。

 ともあれ、当時の僕が衝撃を受けたのは、次の一文に出合ったからでした。

「学問とは、ただむずかしき字を知り、解し難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上に実のなき文学を言うにあらず」(『学問のすゝめ』本文より)

 つまり、福澤諭吉は、なんだか「国語」を目の敵のように、こんなの学問じゃないと言い切っています。そんな学問ばかりやると、「身代を持ち崩す」と心配するとまで書いています。さらに、ここまで言います。

「されば、今は実なき学問はまず次にし」(『学問のすゝめ』本文より)

 なんと、そういった、いわゆる文藝などは「実なき学問」は、優先すべきではないと言い切っているのです。慶應義塾大学文学部の皆さんは、どんな気持ちでこれを読むのか、ちょっと知りたいです。いや、きっと、福澤諭吉が作った大学だから、文学部があるはずがないです。この『学問のすゝめ』を読めば、作ったはずがないと考えられます。
 それでは、福澤諭吉は、何を「学問」と言ってすすめているのでしょうか?

 これも、この本に明確に書いてあります。

「もっぱら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり」(『学問のすゝめ』本文より)

 これをやるべきだ、と解きます。つまり、福沢諭吉がすすめているのは、「実学」ということになります。
 それでは、具体的に「人間普通日用に近き実学」とはどういうものでしょうか?
 これについても、明解に書いてあります。

「譬えば、いろは四十七文字を習い、手紙の文言、帳合いの仕方、算盤の稽古、天秤の扱い等を心得」(『学問のすゝめ』本文より)

 とあります。つまり、ライティングや簿記、算盤、今で言うところのパソコンなどのデバイスの使い方、すぐに役立つことが実学だとしているようです。地理学や物理学、歴史学、経済学も学んだほうがいいとも書いてあります。

 では、なぜ、福沢諭吉はこうしたすぐに役に立つ「実学」に拘ったのでしょうか?

 それは、時代背景にあるのだろうと思います。江戸から明治へと、時代は急転直下に移り変わる中で、江戸時代ののんびりとした寺子屋での風景を継続したのでは、この国は危うい、と福澤諭吉は思ったのでしょう。
 自身も、若い頃には長崎で砲術を学び、緒方洪庵の大阪適塾で、蘭学、つまりはオランダ語を学びました。徹底して実学を極めなければ欧米列強の脅威を跳ね返せないと考えたのでしょう。

 世相として、日本が潰されるかもしれない、と強烈な危機感を国民が抱いていた時代でした。
 となりの中国の清朝は、イギリスにいいようにやられ、挙げ句の果てに、阿片を押し付けられ、国民の多くが阿片中毒にさせられ、アヘン戦争まで仕掛けられて、香港を盗られ、中華帝国の亡国が決定的になります。
 それを隣で見ていた日本の若い人たちは、そうなってたまるかと思っていたのでしょう。もはや、短歌を読んだり、詩を読んだりしている場合ではない。すぐに富国強兵に役立つ学問を修めて、強くなろう、欧米列強の侵食を食い止めようと考えていたのだろうと思います。

 そうなのです、時代背景が今とはまったく違っていたのです。

 極端に言ってしまえば、江戸時代は武士ばかりではなく町人までも、文藝などを中心としたリベラルアーツ的な学問は、よく修められていました。ただし、それはいつ役に立つかわからない、福澤諭吉の言葉で言えば、「実なき学問」だったのでしょう。今は外国と戦争する可能性が高いので、平和になってから「実なき学問」はやりましょう、優先順位は、すぐに役に立つ「実学」です。それをすすめます、というのが『学問のすゝめ』なのです。

 今、令和を生きる我々はどうでしょうか? 逆にすぐに役に立つ「実学」的な情報を得ることに比重を置きすぎてはいないでしょうか?

 僕は、学問とは、両輪性が重要だと思っています。その両輪とは、「実なき学問」と「実学」のことです。「実なき学問」とは、さらに言えば、「リベラルアーツ的な学問」つまりは、大学の教科でいえば、いわゆる“ぱんきょー”つまりは「一般教養」に近く、書店の棚で考えるのなら、岩波文庫や講談社学術文庫、ちくま文庫の棚に並んでいる本に書かれていることで、

「実学」とは語学や資格試験、ビジネス書などの実用書、パソコンやiPadの使い方などのHow to的なものことです。 僕は、「リベラルアーツ的な学問」がなければ、実学の種は育ち難いと考えています。いわば、いつ役に立つかわからない学問を修めるのは、“知の土壌”を耕すためであり、その土壌が肥沃になってはじめて、実学の種が育つのではないかと思っています。

 つまり、その両輪が、人の読書には必要だと僕は思うのです。

 とかく、実学的な本は溢れ、ベストセラーになります。そして、大人になると、土壌を耕すための「リベラルアーツ的な学問」に割く時間がなくなります。それゆえに、令和を生きる人々に言いたいのは、今こそ、まずは「実なき学問」を修めるべきだということです。

 そのあとに、「実学」を学ぶべきではないでしょうか。
 福澤諭吉大先生に、喧嘩を売るようで恐縮ではありますが。




 


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