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READING LIFE ver.20220208 読書特集号PROTOTYPE版

読書は最強の“思考術”である〜読書のメカニズム〜《プライスレス読書体験》



記事:三浦崇典
   (天狼院読書クラブ/TENRO-IN BOOK CLUB グランドマスター)




 こう言うと、あるいは皆さんは混乱するかも知れません。

「あらゆる読書は、インプットであり、アウトプットである」

 もっと正確に言うと、さらに混乱に拍車がかかるかも知れません。

「あらゆる読書は、インプットであり、アウトプットであり、それをインプットする行為である」

 何を言っているんだ? と眉間を寄せて当然です。今は言っている意味がわからなくていいんです。けれども、この記事を読めば、その意味が、すっと腑に落ちるはずです。
 そして、「読書をしたい!」、いや、「読書をしないとまずい!」と思うようになるでしょう。

 それは、いったい、どういうことなのか?

 まずは、読書という行為のメカニズムを考えてみましょう。

 基本的には「①“テキストの列”をインプットする」ところから読書は始まります。
 そして、インプットの方法には、今では様々な手段が用意されています。
 もっともオーソドックスなのは、文字を目で読むこと、つまりは目からのインプットです。そして、オーディオブックなどで読む場合は、耳からインプットしますし、点字で読む場合は、触覚で読みます。
 いずれの手段にしても、テキストの列をインプットする、ということは変わりありません。つまり、ここではあまり手段は問題になりません。
 紙の書籍で読んでも、オーディオブックで聴いても、電子書籍で読んでも、Webの記事で読んでも、今回述べる「読書の効用」は、基本的には変わらないと考えてもらっていいです。

 読書の次の過程は「②インプットした“テキストの列”を脳で処理する」ことです。
 文字列に意味を与え、あるいは、文字列を解釈し、イメージや概念として処理するのは、言うまでもなく、脳です。もっと言えば、基本的には、ホモ・サピエンス、つまりは現生人類にしか、それは上手にできない行為でもあります。大げさに言えば、読書とは、人間が特権的にできる行為、とも言えるかも知れません。

 さて、この「②インプットした“テキストの列”を脳で処理する」では、人によって、大きな差が生じます。差は、2つの要因によって生まれます。


 1.それまで培われてきた「脳の処理能力」
 2.それまで脳に蓄えられた「情報の質と量」


 1のそれまで培われてきた「脳の処理能力」に関しては、単純な“頭がいい、わるい”の問題とは少し違っています。それよりも読書の技術の話で、正しい読書術を訓練と経験で身につけることができれば、この「脳の処理能力」は飛躍的に向上します。
 ただし、いくら読書に関する「脳の処理能力」が高かったとしても、2のそれまで脳に蓄えられた「情報の質と量」が足りなかったとすれば、脳裏にイメージや概念を上手に思い描くことができません。

 たとえば、太宰治の代表作の一つ『人間失格』の冒頭を引用してみましょう。

 私は、その男の写真を三葉、見たことがある。

 一葉は、その男の、幼年時代、とでも言うべきであろうか、十歳前後かと推定される頃の写真であって、その子供が大勢の女のひとに取りかこまれ、(それは、その子供の姉たち、妹たち、それから、従姉妹いとこたちかと想像される)庭園の池のほとりに、荒い縞の袴はかまをはいて立ち、首を三十度ほど左に傾け、醜く笑っている写真である。
(『人間失格』太宰治/本文より)

 多くの人が、イメージできただろうと思います。「写真」も、「大勢の女のひとに取り囲まれ」る様子も、「庭園の池のほとり」も、「荒い縞の袴」も、「首を三十度ほど左に傾け」る様子も、「醜く笑っている」のも、明瞭でないにしても、“なんとなく”、脳裏にイメージを描けるはずです。

 けれども、どうでしょうか。たとえば、縄文時代の人がこの文章を読んだとしたら、どうでしょうか? おそらく、我々現代人ほど上手にイメージできなかったはずです。

 なぜなら、写真という概念も、袴という概念も、庭園の池という概念も、その当時にはなく、脳内にストックされていなかったはずだからです。縄文時代に最も脳の処理能力が高かった人でさえも、現代の一般の中学生よりも、イメージを上手に描けなかったでしょう。当然、蓄積された情報の質と量が違うからです。

 2のそれまで脳に蓄えられた情報が集積された概念を「脳内ストック」と名づけることにしましょう。つまり、ここにストックされた「情報の質と量」こそが、脳の処理という料理の“材料”となるのです。当然、どれくらい腕がいい料理人がいたとしても、材料がなければ料理が作れないのと同様のことです。
 この「脳の処理能力」と「脳内ストック」によって、脳裏に投影されるイメージや概念に対する理解は、大きく異なってきます。
 つまりは、同じ「テキストの列」をインプットしたとしても、たとえば脳裏に描かれるイメージは、1億人いれば、1億通りであって、1人として同じイメージは描かれないということになります。

 今までのことを、もう一度、図を使って整理してみましょう。


①“テキストの列”をインプットする
②インプットした“テキストの列”を脳で処理する
③脳の処理には、「脳の処理能力」と「脳内ストック」が大きく関わる



④脳の処理によって、脳裏にイメージや概念が描かれる


 ④を見てください。脳の処理によって、脳裏にイメージや概念が「描かれる」ということは、もうおわかりですね? そう、実は、インプットした情報を脳で処理をして、我々の脳は、脳裏にイメージや概念を「描いている」、つまりは、「アウトプット」しているということになります。

 冒頭で述べたこと、覚えていますでしょうか?

 「あらゆる読書は、インプットであり、アウトプットである」

 まさにそうしたことが、読書の一連の行為の中で行われていることになります。
 そして、また、同時にこうも言えます。

 我々は、読書の最中、脳に描かれたイメージや概念を、また、見ている、ということです。

 太宰治の『人間失格』の冒頭の文章を、先ほど読んでもらいました。その箇所に戻らなくても大丈夫です。なぜなら、思い起こせば、また、ぼんやりと浮かんできませんか? 冒頭のイメージが。つまり、我々は、今、『人間失格』の冒頭を読んだときのイメージを再び、脳内で見た、ということになります。
 つまり、脳内で、アウトプットしたイメージを、さらにインプットしていることになります。

「あらゆる読書は、インプットであり、アウトプットであり、それをインプットする行為である」

 これが、“読書のメカニズム”です。
 もう一度、振り返ってみましょう。
 まずは、基本的に「テキストの列」を目や耳など、何らかの手段で「インプット」します。それを脳で処理する際には、過去の経験や記憶から成る「脳内ストック」を材料として、脳裏にイメージや概念を思い描きます。そのイメージや概念を人は、もう一度、自己内でインプットするのです。

 インプット→(脳で処理し、脳裏に)アウトプット→(脳内で)インプット

 どうでしょう、かなり複雑な処理をしているのが、読書だということがわかるでしょう。インプットとアウトプットを反復する、つまり、それは脳をフル稼働させて、「思考している」ということです。そうです、読書の最中、我々は、脳というコンピュータのCPUをファンの音が鳴るくらいにフル稼働させて、思考しているのです。

 そして、一人として同じ画のないイメージを脳裏にオリジナリティ高く描いていることになります。

 当然ながら、脳内に描かれたイメージや概念、思考は、その都度、脳内にストックされることになります。そうです。「脳内ストック」とは、コンピュータで言えば、“ハードディスク”の役割であって、処理されたイメージなどが描かれる脳裏は、“ディスプレイ”のようなものだと思ってもらうといいでしょう。
 そうなると、「テキストの列」がなんだか、“プログラム”のように思えませんか?


 そうなのです、書籍に書かれている文字列は、コンピュータのプログラムと同じように作用します。そして、それによって脳は新しい画を描き、描いた画を自らの「脳内ストック」に取り込み、「脳内ストック」の質と量が強化されればされるほど、また、次の読書では、イメージが鮮明になり、概念が明瞭に理解できるようになり、思考の密度が高まるということです。

 そう、読書とは、最高の思考術なのです。そして、豊かな「脳内ストック」は、その人のユニークさを担保するものとなり、人生にとって、財産となります。
 また、読書における「脳の処理能力」は、これを繰り返すことによって、言うまでもなく、強化されることになります。

 料理は、やればやるほど、上達するのと同じことです。
 どうでしょうか、皆さん、読書をしたくなってきませんか? 

 いや、読書をしないと、まずいと思いませんか?




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