令和初の年末に亡き両親を想う
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
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記事:安光伸江(ライティング・ゼミ冬休み集中コース)
「今年はわりと安定してたね」
2019年最後の診察日に、私の精神科の主治医はそう言った。「親のストレスがありませんでしたからね」と私は笑って答えた。そう、これまで親との関係でずいぶんストレスがたまっていたのが、今年はなかったのだ。
私は学生時代からうつ病を患っている。最初は失恋が原因だった。その後何度も再発し、だましだましやっていた音大非常勤講師の仕事ができなくなって東京から下関の実家に戻ったのが2008年9月、リーマンショックの1週間前のことだった。
親とはあまり仲がよくなかった。東京からずっと帰らないつもりだったのだけど、母にはよく「こっちに帰ってきなさい」と言われていた。それがいやで7年くらい帰らなかったり、まるまる1年電話すらしなかったりした。病気が悪化して帰ってからは、父の車で病院に連れて行ってもらう以外はひきこもりの日々が続いた。親子喧嘩もよくした。怒った父が私の髪の毛をひっぱり、ぱっと手を離したら柱の角に鼻をぶつけて骨折する、なんて事件もあった。そんなこともあって父のことは嫌いだった。
でも父は、老齢で車の免許を返上するまで、私を病院に連れて行ってくれていた。忍耐強い人だなと今では思う。母が心筋梗塞の既往症があって家の外にでないので、買い物も父の役目だった。車をやめてからは買い物が私の仕事になり、次第に私も外に出られるようになっていった。病院には歩いて通うようになった。
やがて母が圧迫骨折を起こしてほぼ寝た切りになり、父とふたりで家事を分担するようになった。母と私の分の洗濯は私がして、父の分の洗濯は自分でしていた。主治医には「反抗期をやり直している」とよく言われていたっけ。父は病気がなかなかよくならない私を見てわりとよくキレたし、年をとっているからなんとなくぼけたようなことをする。だから私もキレる。そんな繰り返しだった。
そしてある土曜日、父がにこにこしながら「バスカード貸せ」と言いに来た。会社のOB会があるんだそうだ。「この帽子、かぶっていこうかの、どうしようかの」と笑って私に聞く。そんなのどうでもええやん、はよ行っといで。とちょっと邪険に扱っていたら
その飲み会を楽しんだ帰りに、元の会社の部下たちがいるところで、父は階段で転んで頭を打ち、病院に運ばれて次の日に死んだ。あっけなかった。
父の急逝で相続などの手続きに兄がやってきた。兄とも仲はよくなくて「妹の面倒は一切みん」と明言されている。これまたストレスがたまった。そうしたら今度は私の乳がんが発覚し、親戚に見守ってもらって手術を受けた。入院中は母を別の病院に預けた。
私と母が相次いで退院してからは、抗がん剤治療などを受けながら母の介護をする日々が続いた。訪問看護の方にも来ていただいた。十分なことはできなかったけど、母は私のことが大好きで、「おねえちゃん(私のこと)がええ、おねえちゃんだけがええ」と言っていた。下の世話はできない。お風呂にも自分で入る。食事は料理の苦手な私が作る朝の卵焼きと昼のパン、夜の出来合のお惣菜。米をとぐのは二人でやった。介護ベッドを入れ、私は一日に何度か部屋に見に行く以外はごろごろしていた。抗がん剤の副作用はけっこうきつかった。
そうこうするうちに母が吐くようになり、介護の体制を変えることになったのだが、その切り替えの時にショートステイに入れることになった。母が吐いたり粗相をするので私がパニックを起こして限界になったからだ。そしたら血便がみつかり、病院に入れることになった。その時は、私を休ませるため、という名目だったのだけど、母の検査をしたら腫瘍がみつかり、がんであることがわかり、家を出てから6週間で緩和ケア病棟のある病院で亡くなった。2018年1月のことだった。
母には、がんだとわかってから、「産んでくれてありがとう」と言うことができた。ぴく、と反応したのはきっと、「ああもうすぐ死ぬんだな」と悟ったんじゃないかと思う。父の時はあまりに急だったから、最後ににこにこした父と話した思い出しかないけど、母との間は愛情を表現する時間をわりとたくさんとった。母の私への思いに比べたらほんの少しでしかないけど、ずっと離れて暮らしていた時間を少しだけでも埋められたんじゃないかと思う。
母が亡くなってからは、私の乳がんでなぁなぁになっていた相続の話を兄との間で解決し、土地家屋金融資産を相続した。住むところも、当面の生活費も確保された。兄は私の面倒をみないと言っているから、私が死んだらこの家がどうなるのか謎だけど、その心配を除けば「当面は」何も心配はない。
母が死んでしばらくはいろいろ大変だったけれども、毎週歩いて通っていた精神科の先生や、私自身の訪問看護に来てくださる方、乳がんの病院の先生たちに、いろいろ話をしてもらって、こころがずいぶん癒やされたように思う。それと、母が死ぬ前に「家で介護と病気の治療をしながらできる仕事はないかな」と始めた天狼院のライティングゼミ。母が死んだ頃は課題を出すだけで精一杯だったけど、それからも受講を続け、その他のゼミも受けて自己投資をした。あと株式投資なんぞもするようになり、それが昂じて「素人投資家いちねんせい」という連載まで書くようになった。今週は何を書こうかな、とちょっとわくわくするようにもなってきた。
母が家を出てからは母のために食事の用意をすることもなくなったので、ひきこもらないためと称して昼は必ず食べに出るようになった。料理が苦手だからというのもあるけど、外に出ることが大事だと思ったのだ。ゆめシティという近所のショッピングセンターにはフードコートとレストラン街、そしてスタバがある。だいたい食べるところはローテーションで決まってしまうのだけど、どこにいっても常連扱いになり、お店の人に優しくしてもらっている。それも心安らぐ大切な時間である。
そんなこんなで、株がどか~んと下がって落ち込むことがありながらも、2019年はわりとこころ穏やかな年だったように思う。親との関係も、いまはいい。あんな憎まれ口をたたきながらも、私が治療に専念しても大丈夫なだけのお金と家を遺してくれた両親に、感謝する日々だ。天国にいるであろう親の声が聞こえるのだけど、ずっと見守ってくれているのがわかって、ああ、私も両親に愛されていたのかな、なんて今は思う。
まだ、うつ病は完治したわけではなく、薬が切れると落ち込むこともある。だけど、先生も言うように、ほぼ安定している自覚はある。近所の人やお店の人ともにこやかに話ができる。長時間ひとさまと一緒にいるのはまだダメだからたとえば接客の仕事なんてのは無理だけど、来年は少しずつでも仕事ができるようになれたらいいなぁと思う。
お父さんお母さん
こんな私を見守ってくれて、ありがとう
平成は辛いことが多かったけど、令和はわりと幸せだ。まだうつ病と乳がんの治療は続くけど、新しい年も心穏やかに過ごしたいと思う。
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