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『重力ピエロ』が開いた、心の旅路を私は歩いている。


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記事:松浦美穂(ライティング・ゼミ)

 

その道は険し過ぎて、目的地にはたどり着けないかもしれない。

 

 

ふと触れた小説や映画に、思いがけない心の動かされ方をすることがある。作品の出来の良し悪しではなく、自分がどんな過去を背負っているのか、そのときどんな状況におかれているかで、響き方がまったく違う。

落とし穴に落ちたかのように、まさか! というあまりにも意外な揺さぶられ方をして、心の奥底にしまい込んでいた箱の封印がベリベリと音をたてて破られ、「ほら、これだろ」と、隠し通してきたものを目の前に突き出してくる。

そんなときがある。

 

ある日、何気なく観た映画のDVDで、それは起こった。

映画の途中から、もう、こみ上げてくるものを堪えきれなくなった。涙があふれてくるどころか、声をあげて泣くという状態に陥ってしまったのだ。とにかく声を抑えようとしても抑えられない。涙はとめどなく出る。もはや座っていることさえできず、床に這いつくばり、声も涙も出すだけ出した。そうしないと終わらなかった。

 

号泣の理由は、わかっていた。

私が抱えてきたものと、主人公の苦しみがシンクロしたからだ。

 

映画の名は『重力ピエロ』。

 

伊坂幸太郎の小説を映画化したこの作品は、公開当時かなり話題になったと記憶している。映画を観ていなかった私は、遅ればせながら、家でDVDを観たわけだが、思いがけず号泣状態に陥り、映画館で観なくて良かったと、後でつくづく思った。

 

 

物語の主人公は兄弟。二人は父親が違う。弟は母親がレイプ魔に襲われてできた子どもだ。産まれた男の子は春と名付けられる。兄の名は泉水。両親は英語にすると兄弟どちらも「スプリング」と呼べる名を弟に与えた。両親の想いが伝わる切ない名だ。

家族は普通の家族として過ごそうとするが、事情を知る世間の目が、春と家族を傷つける。春は自分の体に中にレイプ魔である男の血が流れている、どうすることもできない事実に苦しみ、そして物語は衝撃的な結末を迎える。

 

「子どもは親を選べない」

 

これはこの物語のテーマではない。しかし、物語を引っ張る春の行動の動機であり、春が背負った宿命であり、私が心の奥底に追いやっていたものだ。

泣いてもわめいても、怒っても怨んでも、何をどう努力しても、血肉は変えることができない。それどころか、分け与えられた血肉は、自分を構成している自分そのものとして、自分がある。

 

乗り越えがたい絶望。この絶望を、いったい、どう乗り越えろというんだ!

 

 

もの心ついたときから、母の暴力に喘いできた私は、大人になってからも、あらゆる場面で母の影に怯え、仕事も恋愛も結婚もつまずき続けてきた。

しかし、母を怨んでも何かが変わることはなかった。何一つ変わらなかった。自分が落ちていく感じがするだけだった。誰かに助けてほしかったが、誰も助けてくれなかった。だから、自分で自分を救おうとした。

 

精神科からスピリチュアル系、果ては霊能者まで、さまざまな施術者に会い、さまざまな療法を試みた。

そのとき、そのときで、楽になったような気がしたり、変化があったような気がしたり、「気がする」を積み重ねて昨日より良いと感じられたなら良くなっているのだろう。そう思って過ごしてきた。

 

しかし、春は私が心の奥底にしまい込み、見てはいけない、認めてはいけないとしていた神への怨みを引きずり出した。

 

「子どもは親を選べない」。

 

私が本当は叫びたかったこの言葉を、春は私に突きつけた。

春が、例えば仕事や恋愛やスポーツや、あるいは修行や冒険や、そんなものを通して健康的に自分の宿命を乗り越えていたなら、私が涙を涸らすことなどなかっただろう。『重力ピエロ』は、凡庸な小説として記憶の彼方に消えていたに違いない。

 

だが、春は、正面きって、きっちり神に抗議した。

自分の血の源を消し去り、そうすることで自分の存在を浄化した。

倫理や道徳など、春はとっくに越えていたのだ。

ここまでやらざるを得なかった春の地獄を、私は狭いマンションの一室の床でのたうち回りながら自分に重ねた。

 

「子どもは親を選べない」とは、偏狭な見方に違いない。

しかし、まず、これを言わなければ、次に歩を進めることはできない。

倫理や道徳に羽交い締めにされていた自分の言葉を解き放ち、「子どもは親を選べない」と言っていい。

そしてその次に、やっと「親とて子どもを選べない」と思える段階に至るのだ。

赤ん坊が一年をかけて歩けるようになるかのごとく、私のような卑小な人間は一度には大きな成長ができない。

 

『重力ピエロ』を観てしばらく後に、霊能者のTさんに会う機会があった。

彼女は目を閉じ、私の魂の年齢を遡る。赤ん坊の頃から5歳、8歳、10歳と幼い頃の私に彼女は寄り添う。そして突然、言った。

「ああ、15歳のあなたが、“今生の私の使命は〈許し〉です”と言っている。15歳でそんなことが言えるなんて、凄いことよ」

 

実際の私は15歳で今生の使命を悟ってなどいない。15歳の頃の私は、ただただ、母に怯えるだけだった。

しかし、そのときTさんの言葉を聞いて、私は「ああ、15歳だったのか」と思った。

今生の指名を受け入れたというより、否定する感情がわかなかったのだ。

8歳なら8歳、10歳なら10歳のそのときに、私は母の暴力に泣きながら、耐えながら、心を整理していた。自覚はなくとも、遠い遠い魂の国で、15歳の私はそれを自覚したのかもしれない。

 

その後も、あるときは「母と繋がっているのなら死を選ぶしかない」と母を否定し、あるときは「仕方がない」と受け入れ、その行ったり来たりを繰り返し、今、私は15歳の私の言葉を受け入れている。

 

私は〈許し〉を学ぶために、あの人を母として選んで産まれてきたのだ。

そう思わざるを得ない人生だった。

 

「許せない」という心の刃は、人に向かっているようで、実は自分を切り裂いている。その裏返しは愛されたいという、どうしようもない渇望だ。

しかし、それはもう得られないと諦めなければいけない。

その「諦める」は、ネガティブな意味での「諦める」ではない。

逆である。ネガティブを捨て去るための「諦める」だ。

あの人を母として選んで産まれてきた、その自分の凄さを思うのだ。

 

「子どもは親を選べない」から「子どもは親を選んで産まれてくる」までは気の遠くなるような道のりだ。血反吐を吐くような思いをすることになる。それどころか、一生かかってもたどり着けない可能性もある。それほどに険しい道のりだ。

 

私はたどり着けたのか、と問われれば、まだ道なかば、としか言えない。

言えないが、私は血の源を消すことなく、背負って生きていく。

春の絶望を知ったからこそ、そう思えたのかもしれない。

 

 

***
この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加いただいたお客様に書いていただいております。
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2016-09-15 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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