学習が得意だった私が唯一学習できなかったこと
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
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記事:あおい(ライティング・ゼミ)
もうやめたい……
本気でそう思った。
絶対に、やめられないことはわかっている。
でももうこれ以上無理。
かれこれ3時間以上は経っているだろう。体中が痛い。明らかに疲弊している。
それでもこの3時間の行動に自分自身が大きな進歩を感じていたとしたら、まだ頑張れる。が、なにゆえ初めての体験、進歩しているのかどうかさえもわからない。それがまた自分をより不安にさせるのだ。いったいいつまでこの状態が続くのか?
たぶん、緊張のあまり余計なところに力が入っているのだろう。普段使わないような筋肉が痙攣したようにピクピクしている。
大声で叫びたいような衝動にかられた。
「ああ!! もうやめたい! 頼むから降ろしてくれ! この分娩台から!」
わかってます。わかってますとも。それが無理だということぐらい。
出産が途中でやめられないということぐらい百も承知。
これまで29年間の人生で、やめたいと思ってやめられなかったことがあっただろうか? お腹がいっぱいになれば食べるのをやめる、眠くなれば起きているのをやめる、実際にはやめなかったけど、学校だってやめようと思えばやめられたし、会社にしても、習い事にしても、それをスタートさせた瞬間に、やめるという選択肢が必ずセットでついてきた。
ところが、出産だけは、途中でやめるという選択肢はない。何があっても必ず最後までやり遂げるしかないのだ。
考えてみれば、私は子供が好きではなかった。どちらかというと苦手だった。
というのも、私は末っ子だったし、兄とも年が離れていたから、親戚の中で私より年下のいとこは一人もいなかった。生まれた時から周りは大人ばかり。要は自分より小さい人間と接したことがなかったのである。
それは大人になってからもずっとそうだった。
電車の中で小さい子供が騒いでいるのを見ると、どうして親は黙らせることができないのだろう? と本気でイラついていた。会社の先輩のおうちに遊びに行って、小さい子供がいたりすると、どう接していいかわからなかった。「お姉ちゃんに遊んでもらえるよ」なんて先輩に言われた日にはもう冷や汗もので、とりあえずはニコっと微笑んで「こんにちは」と言ってみるが、すぐ言葉につまる。「お名前は?」とか「いくつ?」とかありきたりの質問をしてみるものの、続かない。沈黙がやって来る。
そうなると子供は、その状況を敏感に察知し、「こいつは使えないやつ」という判定が私に下るのだ。そしてさっさと親の元に逃げていく。ああ、やっぱり子供って難しい。
そういえば、やたら子供にウケがいい同僚がいて、そいつを観察していると、一緒になって、というより子供にいじられながら、それを喜んで受け入れ、すっかり仲間の一員になって遊んでいる。
どう考えても私には無理。子供と遊ぶなんて。だから自分が子供を生んで育てるということは、全く想像できなかったのである。
そこから数年後、私は27歳で結婚をした。そうすると自然の流れとして、子供は? という話になる。女に生まれたからには一度は経験してみたい、とも思う。陣痛の痛みは鼻からスイカを出すぐらい痛いとよく言うけれど、鼻からスイカを出したことがないからなんとも想像はつきにくい。とはいえこれまでの人類史上、子供を産んだ人はみな乗り越えてきたことだから、多分乗り越えられるのだろう。子供を授かるかどうかは神のみぞ知ることだから、自然の流れに任せて、妊娠したらしたで喜ばしいこととして受け取ればいい、とそのときは思っていた。
ところが、その日は思ったより早くやってきた。出産予定日は結婚してからちょうど1年と1ヶ月後。初めての出産に備え情報収集すべく、すでに経験のある友人や先輩たちに出産についての感想や対策などを聞いてみるものの、「ふふっ」と意味深な笑顔を浮かべながら、「そりゃ痛いよ」というだけで、皆一様にあまり多くを語ろうとはしないのだ。
そして最後には「まあ、なんとかなるから大丈夫」という言葉で締めくくられ、結局その全貌はおろか、当日どんなことが起こるのかほぼ何もつかめぬまま、病院からもらった出産に関する冊子と、育児書などの情報から妄想を膨らませるしかなかったのであった。
そして臨んだ最初の出産。
「もうやめたい……」と真剣に思った。
でもやめられない。やるしかないのだ。
こんなことなら、無理にでも友人にもっと詳しく聞きだしておくべきだった。そうすればもう少しココロの準備というものができていたかもしれない。なんとかなる、という友人の言葉と、なんとかなってきたこれまでの自分の人生経験から、なんとかなるだろうとタカをくくっていたことは事実。でもこの痛み、なんともならん。なんともならんじゃないか。
だいたいこんなカエルが上を向いたような格好で、何時間もいるなんて尋常じゃない! そして私にとっては大いに非常事態であるにも関わらず、周りにいる医師や看護師さんにとってみれば、全く日常の風景である、というこのギャップにも耐えられない。
それに加えて、自分では赤ちゃんの様子を全く見ることができない。お腹の赤ちゃんの心拍音だけが、しっかり生きているという証。私にがんばる力を与えてくれているのは、唯一その一点のみ。
ああ、もう限界。これ以上無理。だんだんと意識が遠のきそうになる。
先生の声が聞こえる。「いきんで。いきんで」
いきんでって何? どういう行動? きばる? え? 何?
その瞬間、するっと何かが私の体を通過したような感覚になった。
「無事産まれましたよ、女の子ですよ」
全身の力が抜けた。遠のきそうになる意識の中で、私は声を出して泣いていた。
私の中から出てきた小さな命。
なんだか信じられなかった。
手も足も、何もかもが小さくて、触ると壊れてしまいそうなぐらい小さくて、とても危なっかしい。でも何もかもすべてがちゃんと動いている。
不思議な気持ちだった。
子供が嫌いとか、苦手とか、もう言ってられないな。
私が育てるしかないのだから。
そう心に誓ったけれど、出産だけは二度とごめんだった。
生まれた子供の可愛さのあまり、陣痛の辛さを忘れるというけれど、それはないわ、と思った。子供は確かに宝だけれど、あんな痛みと苦しさは、どんなにお金を積まれても無理だと思った。
ところがあろうことか、私はその後3回、合計4人の子供を出産したのである。
人間には学習するという能力がある。たとえば一度痛い目にあうと、次からは注意して再び同じことを繰り返さないようにするものだ。私はそれまで結構学習するタイプだった。たとえば高校生の時、一度だけ財布をなくしたことがあった。その時は尋常じゃないぐらいショックを受けたけれど、大いに学習してそれっきり財布をなくしたことはない。お酒を飲みすぎて次の日動けなかった時も、学習して二度とそのようなことがないように調整してきた。同じ過ちを繰り返すということはこれまでの人生でほぼない、と自負してきた。
ところが、出産に関しては、学習できなかった。
あの痛みはもう二度とごめんだと思いながら4回の出産。私は学習不能な人間になってしまったのだろうか?
いや、そうではないと思う、いや思いたい。
私は特に信仰心が強いわけではないけれど、こればっかりは本当に「天の計らい」だと思っている。私が人としてまっとうな人生を歩んでいくために、神様が用意してくれた4つの命。私にはそれが必要だった、ということだろう。
子育ては親育てというけれど、4人の子供のおかげで私は、我慢するということを覚え、自分の思い通りにならないことがある、ということを知った。
それだけではない。
「自分の命と同等、いやそれ以上に大切なものがある」ということも。
私は子供たちのおかげで、少しはまともな大人になれたような気がする。
もしあちらの世界に行って、神様にお会いすることがあったら、4人の子供を授けてくださったことに感謝申し上げたいと思う。
そして、もしまた私が女性に生まれ変わるとしたら、厚かましいけれどひとつだけ、神様にお願いしたいことがある。
「陣痛の痛み、なんとかなりませんか?」
神様は「まだまだ学習が足らん」とあきれるだろうか。
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