メディアグランプリ

溺愛したゆえに溺れた本


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事:廣瀬敦子(ライティング・ゼミ平日コース)
 
つるり。私の手から本が滑り落ちた。
 
慌てて拾い上げたが、遅い。
この異国の地で毎晩、夜を共にした本は、見るも無惨な姿になってしまった。
その本に支えられていた。溺愛していた。
溺愛したがゆえに、その一冊は二度と読めない本になってしまった。
 
「チャオ」
「チャーオ」
 
ドイツ人の上司は、別れの際に「チャオ」と言う。
ドイツに出張で来て既に一ヶ月。上司にならい、私はチャオというかわいらしい発音を、照れることなく口にすることができるようになっていた。
ミュンヘンにある、このオフィスは、夕方になれば人影が消えてしまう。
日本での日々の残業に比べたら夢のようだ。
早い人は14時、遅くとも16時ごろ、大半の人は帰宅する。夜はそれぞれのプライベートな時間だ。同僚と呑みに繰り出すということはほとんどなかった。
 
いつものように荷物を背負うと、「チャオ」と上司のオフィスに声をかける。老眼鏡の奥の眼が言っている。なんだ、まだいたのか。上司は「チャーオ」と言って、視線を手元の書類に戻した。
 
最初は慣れなかった異国での暮らしも、1ヶ月も経つと同じような日々が続く。
職場からホテルまで地下鉄に乗る。ホテルは地下鉄の駅の目の前だ。ホテルの隣のスーパーマーケットに寄り、必要なものを買う。ホテルの部屋に戻る。ホテルの中庭に面した窓を開ければ、人々のざわめきや、食事をする音が流れ込んでくる。
 
ドイツの夏は日没が遅い。
緯度が高いために、夜遅くになっても空は明るい。みな、屋外で長い夏の一日を楽しんでいる。
 
街に出かけて外でビールを楽しんだりしてもいい。毎週月曜の夜には教会でパイプオルガンのコンサートもある。そういえば、中庭のレストランは、味も良くてリーズナブルだから一度行ってみるといいと、上司が言っていた。
 
だが、この頃の私は一度ホテルに戻ると、朝になるまで部屋の外に出ることは無かった。
ドイツに来て1ヶ月、私は疲れていた。そして、寂しかった。
 
沈黙が寂しくてテレビをつける。ドイツ語の放送が流れる。チャンネルを変えても変えても聞こえてくるのはドイツ語だ。ドイツ語は挨拶程度で、ほとんどわからない。結局毎日、英語の放送のCNNに落ち着く。CNNをBGMに、買ってきたハムやチーズ、ライ麦パンを食べる。日本の家族や友人に向けて、生存確認のためにブログを更新する。シャワーを浴び、洗濯物を干して寝る。
 
そうしたら、すぐ朝だ。
判で押したような日々が続いていた。
 
街に出て、ビールを飲んだり、コンサートに行ったりしてもいいだろう。片言のドイツ語でもそれくらいは出来るだろう。
しかし、私には、もう気力がなかった。たわいもない話を日本語でできる人が欲しかった。職場はドイツ人が大半で、日本語が話せる駐在員は一人しかいない。皆、英語が話せるからドイツ語が話せなくても仕事は問題ない。片言の英語と、身振り手振りで何とかなる。しかし、たわいのない話をする相手はいなかった。
 
この頃、私は既に読み終わった一冊を毎晩、執拗に読み返していた。
トランクの隅にねじ込んできた文庫本の中の一冊だった。他の本は読み終わると日本人駐在員に手土産代わりに渡していたが、その本だけは手放さなかった。
 
さあ寝るばかりとなった時、私はその本を取り出し、ベッドに寝転がって読み始める。
 
その本の名は、村上春樹の「遠い太鼓」という。
 
この本が、自分に寄り添ってくれている気がしてならなかった。毎晩眠くなるまでこの本を読んでいた。
 
「遠い太鼓」は村上春樹夫妻がヨーロッパ、北欧、アメリカなどを旅した記録である。その土地での出来事、人々とのふれあい、口にした食事などをスケッチのように書いたものをまとめた本である。しかし、ただの旅行記ではない。
 
この本の中の村上春樹は、私と同じように異国の地で孤独だった。
 
冒頭、異国の地に降り立つ夫妻は、どのトランクの中に何が入っているのかわからない、と疲弊しきっていることがわかる。書くことになっている長編は果たして書けるのだろうか。不安の色も強く感じられる。長編のためのリハビリとして書かれたのであろう文章は、旅の始まりの頃、色があまり感じられない。白黒の情景を感じさせる描写が続く。
 
しかし、様々な国に住み、その土地の料理を食べ、人々と触れあううちに、色の鮮やかさを感じる文章が増える。旅に癒され、元気を取り戻していく様が感じられる。
 
私は食べ物や人々の描写を楽しみながらも、本の中の村上春樹に自分を重ね合わせていた。今は疲弊して孤独かもしれない。でもきっとこうやって元気になって、異国での暮らしを楽しめるようになるに違いない。そう思わせてくれることが、この本を溺愛した理由だった。
 
そんな「遠い太鼓」であるが、今、この本は私の本棚には、もう、ない。
 
その後、ドイツでの仕事に余裕が持てた私は、ローテンブルクという街にでかけた。
そのホテルの部屋にはなんとバスタブがあった。ドイツのホテルにはバスタブのないところも多い。ミュンヘンで滞在していたホテルにもなかった。
 
私は歓喜し、長風呂しながら、「遠い太鼓」を読むことにした。
そして、あやまって、バスタブの中に取り落としてしまったのだった。
 
本はびしょびしょになってしまった。元の姿には戻らなかった。
 
それでも、私は、2冊目を買い直し、今も一人旅に連れ歩いている。
そして、まだまだ溺愛する気満々でいる。
 
2代目の「遠い太鼓」は、さあ次はどこに行こうか、と本棚の中で、次の旅を待っている。
 
***

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2017-11-22 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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