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メディアグランプリ

靴という履歴書


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事:(ライティング・ゼミ平日コース) 氏名 門脇伊知郎

これは、私にとって大きな買い物だった。1足5万円の革靴。物の価値観は人それぞれが持っている。様々な人生経験により構築される基準であり、そう簡単に変わるものではない。もし、この靴を特に値段が高いと思わないという人がいるなら、それは価値観の違いだ。仕方ない。職人の手作りが自慢の革靴専門店に入り、シューフィッターと呼ばれる靴の専門家が私の足のサイズを測り、靴に使われている革の種類から製造過程までを説明したお勧めの一足を目の前に持ってきて、丁寧に履かせてくれる。すべて私には未知の体験であり、価値観を変えてまで選択した行為だった。
「靴磨き屋に座ったことあるか?」 そう言ってきたのは、かつての上司だった。先日久々に会う機会があり、その時に聞かれた質問だ。靴磨きなど私には無縁の世界だ。早くに結婚し子供を授かり、俗にいう中流家庭として衣食住には困らないよう家族を養ってきた。しがないサラリーマン生活を20年以上続け、贅沢をする余裕はなかった。仕事で使う靴と言えば、大手スーパーの靴売り場や値段が売りの靴の量販店で革靴を購入していた。価格帯は5千円から1万円の間。時には3千円程度のものも履いていた。革が剥がれたり破損が見つかっても修理などせずに捨てていた。仕事で使う靴をそもそも長く履こうと思ったことはない。そこにお金を掛けるという考えすらなかった。それが私の靴に対する価値観だった。
元上司はすでに定年退職をされているが、ある企業の顧問として再就職している。ふとその足元を見ると、美しいウィングチップが象徴的な黒い革靴があった。その名の通り羽が生えたようなドレッシーな装飾は汚れが目立ちやすいため、こまめな手入れが不可欠な一品だ。しかしピカピカに磨かれている。これが靴磨きの仕事なのか。勝手な想像だが、この靴は相当な高級品だろう。
「若いころはお金を払って、時間まで使って、わざわざ靴を磨いてもらおうなんて思いもしなかった。でも今は彼らと話す時間がすごく心地いいんだ。」 と嬉しそうに話した。
「彼らは靴を見て、話しのネタを選んでる気がする。磨きながら私に合った世間話をしてくれるのさ。時には、とっておきの情報まで話してくれることだってある。儲け話をね。」 そう言って大きな声で笑った。そして続けた。
「私の歩き方の癖、日ごろの靴の手入れ状態、いろんな分析をした上で、私が気分の良くなるような会話をしてくれる。客引きが適当に褒めてくるとはわけが違う。あの時間の贅沢さは自分のこれまでの仕事の経歴によって生まれるんだって。これは誇りだよ。」 少し自慢げに話しているその姿は、昔よく見た、武勇伝を語る時のそれに似ていた。何気なく自分の靴を眺めた。つま先部分には線状に擦れたような跡が複数。それに、歩くと癖が付く足の甲のあたりの折れた皺。光沢はすでに失われている黒い靴に、その皺だけが光の加減で白く見えている。残念ながら、彼と私には靴だけ見れば、人生の厚みに明らかな差があった。
靴磨きは、究極のコミュニケーションビジネスと言っていい。その技術はもちろんだが、短い時間にも関わらず、お客の心を掴んでいる。間違いなく、あの空間に何度も足を向かせ通わせる話術やホスピタリティが備わっている。確かに、駅前でサービスを待っている人の列をよく見たことがある。それが記憶の奥に残っていた。もし、私があの椅子に座り、靴を差し出したら、彼らは何を話すのだろうか、どんな情報を提供してくれるのだろうか。とてつもなく興味が沸いていた。そして私はこの靴屋に来た。見ず知らずの人が靴だけ見て判断する自分の履歴書を確認したい。そんな衝動にかられた結果の選択だった。
革のいい匂いとまろやかでどことなく甘いオイルの香りに包まれた、創業60年になる老舗の靴屋の店内。女性定員の見事な接客で気持ちよく靴選びができた。歳は30代。背は160㎝程度。ショートカットで見鼻立ちのしっかりした顔。笑うと両頬にくっきり出るえくぼと白い歯が印象的だ。細身の体に襟の大きな白いブラウスと黒のジャケット、タイトスカートから見える筋肉質な脹脛は健康的で、黒色のハイヒールが脚全体を美しく見せた。彼女は入店してきた私にこう言った。
「いらっしゃいませ、もしよろしければ、ご一緒に靴を選ばせてもらえませんか?」
少し予想外の声がけに驚いたが、自然に頷いた私がいた。つい30分前の話だ。結局、5足ほど試し履きをさせてもらった。というより、着せ替え人形かのように、女性店員に次々と靴を履かされは脱がされを繰り返された。3足目に履いたデザインに特徴のある、ショートブーツのような形状で、踝までを隠す踵の高い茶褐色の靴に惹かれ、それを購入することにした。彼女は試した靴を全て片付け、私が選んだ靴を両手で大事に子供を抱えるようにして、レジのあるカウンターへ向かっていった。
 
*** この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加いただいたお客様に書いていただいております。 「ライティング・ゼミ」のメンバーになり直近のイベントに参加していただけると、記事を寄稿していただき、WEB天狼院編集部のOKが出ればWEB天狼院の記事として掲載することができます。 http://tenro-in.com/zemi/70172

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2019-03-28 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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