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人生には、何回も買い替えてでも読みたい本がある。


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記事:和辻眞子(リーディング倶楽部)
 
 
「あなたにとって『生涯ベストの本』はありますか?」と問われたら、すぐ思い浮かぶ本が何冊かある。困ったことに、その何冊かは大抵「食」に絡んだものだ。自分でも笑ってしまうのだけど、どうも美味しい食べ物には勝てないらしい。
 
『食卓の情景』(池波正太郎、1980 新潮社)は、その困った生涯ベスト本の中でも、たぶん上位3本の指に入るくらい、全く手放せないものかもしれない。
この本に出会ったのは何時のことだろうと思い出してみる。恐らくだけど、中学生の頃だ。当時父が読んでいたものを何となく横から読み始めて、面白くて止まらなくなった。ずっと自分の本棚に置いたまま読みふけっているので、父には、
「それ、お父さんが買ってきた本なんだけどなあ」
といつも言われ、遂には父が根負けして私にその文庫本を譲ってくれたくらいだ。本の中身は、名作家・池波正太郎が、徒然なるままにご自身の食に関しての思い出を書いているだけなのに、どうにもその描写が忘れられないのだ。
 
今、手元にあるこの文庫本は、実は3代目だ。
初代は父が譲ってくれた文庫本だが、これは紙が劣化してしまったのと、以前の文庫本は文字が小さくて読めなくなった。そこで2冊目を購入したが、これも持ち歩いているうちに水に濡れてしまった。そして3代目を買い求めている。
手にしている3代目の『食卓の情景』を見ると、驚くべきことに63刷だった。初版は昭和55年。そこから63回も増刷され、世代を超えた人々に愛された、何とも幸せな本なのだ。
 
本書に収録されている約50篇のエッセイは、「旅先の食べ物」「日常の食べ物」「池波正太郎の思い出の食べ物」の3つに大きく分けられる。どれもみな、読んでいるだけで頭の中にくっきりとその情景が浮かんでくるものばかりだけど、とりわけたまらなくなってくるのが、氏の小さい頃の思い出の食べ物かもしれない。
 
昭和初期。
あの頃は日本という国が今よりずっと貧しく、つつましやかだった。子どもは早く働き手となるように大人から言われるような時代だった。
池波少年も、小学校を出たら奉公に行くことが決まっていた。そんな彼が子どもの頃に出会った屋台のどんどん焼を見つめる目線が、大人なのだ。単純にどんどん焼を買って、美味しい美味しいとむしゃむしゃ食べるだけではなく、焼いている大人たちの手つきや仕草から、性格まで見通している。更に彼は、新メニューまで考案してしまう好奇心も見せてくれる。
 
実際この本を読んで、当時の私は両親に、
「どんどん焼、やってみたいんだよね」
とせがみ、その結果、我が家は鉄板を購入したということがあった。鉄板というよりもホットプレートと言うべきだけど、そのことが無性に嬉しかった記憶がある。どんどん焼はお好み焼きと同義語なので、小麦粉に水や玉子を混ぜたものに具を入れて焼くのは同じだけど、池波少年が焼いたものに何となく近いことができたような気がして、大変満足したことを覚えている。
 
他にも、氏が書いた思い出の食卓のシーンをいくつも思い出すことができる。何年も、何十年も経っても本の内容を鮮明に思い出せるのは、その食卓の様子だけではなく、そこに携わった人たちとの交流も一緒に描かれているからだろう。交流、すなわち「情を交わす」ことなのだ。食べ物にまつわる思い出と人情がセットになり、忘れられない物語が生まれてくる。その物語たちを読むと、どういうわけか自分の人生のことのように親しみを感じ、思い出の味をずっと大切にしたいという気持ちが芽生えてくる。
 
旅先の室津で小船に乗り、老船頭と酒を酌み交わし、ひなびた旅館で老婆がこしらえた穴子のどんぶりをいただき、昼寝をさせてもらう。その勘定がたったの250円でいいと言われ、それは安すぎる、せめてもっと取ってほしいと頼み込む……。
氏が大事にしたもの、たとえ一時の出会いであってもそれを大切にする、細やかな心遣いに深く共感してしまう。今では人と人との出会いに、こんなに機転の利いた粋なやりとりはめったに見られなくなった。何もかもが人情とは程遠い駆け引きに繋げていってしまう、何かといえばメリットを求める世知辛い現在、こんな温かいやり取りを読むと、そんな人間関係がとても恋しくなってしまう。今ではもう少なくなってしまった、掛け値なしの人の「情」に、触れてみたくなる。
 
人生には、何回も買い替えてでも読みたい本がある。これからも私は、この本をずっと手元に置くことだろう。折に触れて読み返し、そこに描かれている情景を思い浮かべ、自分自身の情景に重ね合わせていくことだろう。胸がいっぱいになるくらいの、温かい思い出に出会うために。
 
 
 
 
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2020-05-22 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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