メディアグランプリ

ジョッキ一杯の鼻血


森さん ジョッキ

記事:横手モレル(ライティング・ゼミ)

 

略奪愛の失恋ほど痛いことなどあろうものか、と世界のあらん限りを憎んでいたわたしのもとに、シーシャ仲間のツボニシくんがぬらりとした顔で現れた。ところは池袋、雑な居酒屋の座卓である。生中を頼むとツボニシくんは、いつもの癖であごひげを撫でた。ツイッターでわが失恋のあらましを知るツボニシくんは、特別に痛む顔をするでもなく、いつものように前置きのない話を始めるのであった。

「彼女の腹がこれはおかしい、っていうんでね、深夜の病院に付き添ったんだよ」

霜の降りる寒い夜。郊外の救急指定病院に、一台のタクシーが謎を運んでやってきた。

「診察待ちにも飽きたおれの前を、タクシーから降りた足元のおぼつかないおじいさんがよたよた通り過ぎて行ってね、受付のお兄さんにぐらりと寄りかかってんの。『いや大丈夫なんだけど鼻血がなんだか止まらなくってね、大丈夫なんだけど』っておじいさん。なんだよ鼻血か、それぐらいで深夜救急ってたいしたタマだな、って待合室のみんなが見るじゃん。すると受付のお兄さん、血相変えてんのがわかるのよ。いやいや大丈夫じゃないですよ! って。見るとおじいさん、腕にたぷたぷのジョッキを抱えてて、そこに蛇口ひねったみたいに鼻血がぼたぼた落ち続けてるの。ぼたぼたぼたぼた。大ジョッキに」

大ジョッキ一杯の鼻血。
大丈夫どころの話ではない。

もはやトマトジュース状態だよねぇ、とあごをじょりじょりさすりあげたツボニシくんが、角度によって少しだけリリー・フランキーに見えていた。リリー・フランキーはいい男だよ。だからってわたしの傷が癒えたわけではまったくない。

「おじいさん、『病院だいっきらいなんで我慢してたんだけど、あれ、ちょっと変かなって』。ちょっと変、ってどうだよ、ティッシュじゃ間に合わないからってジョッキ探してる時点でそれは変どころではないだろうと。受付のお兄さんも手慣れたもので、冷静な声で、なにか服薬されていますか、この病院に輸血の設備は、っておじいさんの身体を支えてね……」

なによそれ。わたしはおじいさんについて勝手にムカつき声を荒げた。病院が嫌いだからって我慢してても、その間に血液は失われていく。さぞかし家じゅうひどいことになっただろう。家族の気持ちはどうなるだろう。たかが鼻血。されどもジョッキ。あまりに身勝手すぎるのだ。

「人の気持ちは考えたほうがいいよね。鼻血に濡れた布団は誰が片づけるんだって。我慢の美学で死んじまわれたら、家族はどんな思いするだろうって」

まあおれは膝の上でうんうんうなってる彼女の腹痛が誰より大事だったから、脂汗ぐらいぬぐったけどね。ティッシュじゃなくてハンカチでね。……なんだよモレル、おまえもそんなに怒っちゃって、いいねえ、痛い目見たんだなあ。

にたにた笑ったツボニシくんは、ジーパンのお尻でよれたハイライトに火をつけて、ことさらわたしの顔ちかく、ふうっと煙を吐いていた。わたしはあっと声をあげた。略奪愛の失恋に酔うのはわたしの勝手と決めていい。けれどもこの空の下では、誰かがわたしにムカついているのだ。誰かがわたしのせいで困っていたのだ。小さいため息の自分に気付いたせいで、だからビールのおかわりを頼むことにした。

お姉さん、ビール。大ジョッキ一杯で。

 

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2015-12-22 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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