体を、ひらがなの「く」の字じゃなく、カタカナの「フ」の字にして実感したこと
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人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
記事:今村真緒(ライティング・ゼミ超通信コース)
「ああ、もう限界!」
プルプルと波打つ両腿と腹筋に、自分の余力があまりないことを知らされた。タイムリミットも迫っていることだろう。一刻も早く済まさなければと思うのに、こういう時に限って、焦ると上手くいかないのがお約束だ。
息を大きく吸ってみる。フーっと、ゆっくり吐きながらも、手は忙しく動かす。どうして私は髪を切ってこなかったのだろう? 自分を恨めしく思うけれど、今それを言ったところで始まらない。ロングの髪に残った泡を残さないように、忙しなく片手を動かす。ああ、もうしんどい。さっきから、ヒクヒク両腿が笑っている。
今私がやっていること。それは何となく想像がつくとは思うけれど、髪を洗っている最中だ。どうして髪を洗うのに、両腿がヒクつくかというと、私が普段とは違う体勢だったからだ。幼い頃、自分の両足首を持って、足の間からさかさまに後ろを覗いたことがないだろうか? 今の私は、椅子に座っているとはいえ、まさしくそんな状態だった。胸と腿をピッタリとつけ、頭を真下に下した状態は、横から見れば、カタカナの「フ」の字だ。
そんな妙な髪の洗い方をしなければならないのには、訳があった。体を濡らすことができなかったのだ。
実は、この日は手術をした2日後だった。手術は、腹腔鏡という、お腹に穴をあけるものだった。ひょっとしたら開腹手術になるかもと聞かされていた私は、そうならならなかったことを術後に聞いて、安心した。開腹手術よりも、体に負担は大きくないはずだ。
そう思って安心したのも束の間、痛み止めの点滴や、別の痛み止めを背中からチューブで差し込んでいるというのに、お腹の痛みは治まらず、お手洗いに行くのもためらうほどに、一歩一歩がお腹に響く。ちょっと弱気になっていた。
やっぱりお腹の手術って、影響が大きいんだ。2月に乳がんの手術をした時も痛みはあったけれど、胸の傷跡が痛いだけで、体のどこかに響くと言う感じはしなかったから、今回のことを甘く考えていた。
気分がどんよりと沈んだ。いくら時間が薬だとはいえ、思うように動けないというのは、じっとしているのが苦手な私にとって苦痛なことだ。通常よりも量が半分の食事も、朝から食べるのが億劫になった。
そんな術後2日目の午前中、看護師さんが朗報を持ってきた。今日点滴が外れてしまうから、お風呂はまだだけれど、髪だけは洗うことができるというのだ。手術日の前日に洗ったきりだったから、嬉しかった。でも、どうやって? そう尋ねると、お風呂の脱衣所に洗髪用のシンクがあると言う。
ちょっとでも、スッキリしたかった。お風呂の時間を予約すると、少し気分が上がった。そこで、看護師さんからもう一つのアドバイスをもらう。
「今まで痛み止めの点滴をしていたので併用できなかったけれど、髪を洗いに行く1時間前に痛み止めを飲んだ方がいいですよ。髪を洗うのに、体を少し折り曲げないといけなくなるので、お腹が痛いままだと辛いと思うんです」
今度は、飲む方の痛み止めだ。確かに、このままではお風呂にたどり着くのにもお腹に響いて辛いだろう。歩くのも辛いのに、お腹に力が入る状態になるのなら、髪を洗うどころではないだろう。
お風呂に行くきっかり1時間前に、痛み止めを服用した。準備を万全にして、自分の番になるまでベッドで待機した。恐る恐る起き上がってみると、それだけで感じていた痛みはほとんど感じない。いい感じ。立ち上がって歩いてみても、痛みは嘘のように引いていた。すごいぞ! 普段は薬嫌いの私だが、背に腹は代えられない。気を良くした私は、意気揚々とお風呂へ向かった。
私に当てがわれた時間は、40分。その時間内で、髪を乾かすまで終わらなければならない。脱衣所にある、洗髪用シンクを確かめると、私はセッティングに取り掛かった。シンクの前に椅子を置き、まだ背中に繋がっているチューブの先の痛み止め入りカプセルの置き場を確保する。手が届きやすいところにシャンプーと、トリートメントを置き、タオルを準備すればOKだ。
美容室にある洗髪台を思い浮かべてほしい。あれは仰向けになってリクライニングシートが倒れ、首のところがフィットするように台がくぼんでいると思う。目の前のシンクもそんな感じだった。ただ体の向きは逆になる。椅子に座って、体をひらがなの「く」の字に頭を下げる状態になる。
ここまでで、約10分が経過していた。早く洗ってしまわなければ。椅子に座っておもむろに「く」の字型になったときに初めて、私はこの方法ではうまく洗えないことに気がついた。まず、思っていたよりもだいぶシンクが狭い。しかも私はロングヘア、容量が足りないのだ。しかも、椅子の高さかシンクの高さかは分からないが、私のサイズとはマッチせず、何だか洗いづらい。
えー、ここまで来たのにー。椅子に腰かけたまま呆然とする。時間がない。焦りながら、ふと風呂場の中を見ると、何だか使えそうなものが目に入った。風呂で介助が必要な人が座る椅子だ。今私が座っているパイプ椅子よりも頑丈で、高さもある。いっそのこと、風呂場であの椅子に座って、濡れないように下を向いて洗えば解決する!
我ながら、良い思いつきだと思った。時計を見るとさらに5分が経過していた。慌てて、風呂場の中に新たにセッティングを始める。椅子に深く座り、思い切り頭を下ろす。
飲んだ薬のおかげで、圧迫しているお腹もそう痛くない。腕や足はびしょ濡れだけど、背中やお腹は死守できた。ただ、普段やらない体勢のせいで、お腹と足が痙攣しだしたのは計算外だった。
急がなければと焦る気持ちと、何でこうまでして洗わなければいけないのかと冷静になった時、「フ」の字で必死になっている自分がとてもおかしかった。情けないやらおかしいやらで、お湯と涙がぐちゃまぜになり、両腿とお腹が限界になりそうになる頃、ようやく私の目的は達成された。
脱衣所に戻って髪を乾かしていると、ようやく落ち着きを取り戻した。何か変なテンションになっていたな。改めて、己の滑稽さに笑えてきた。
当たり前にできると思っていることが、実はそうでなかった。日頃、体を起こしたまま楽な姿勢で髪を洗えるって、本当は有り難いことなんだと気づかされた。
日々、私たちが当たり前のようにやっていることは、実は当たり前じゃない。体を思うように扱えない不自由さを感じたときに、しみじみと感じる真実だ。普段はそんなこと思いながら生活していないし、きっと今日思ったことも日々に埋もれていくかもしれない。しかも、土壇場になると何某かの方法でどうにかしのげるのだ。落ち込んだときに、普段当たり前と思っていることの尊さとあの必死さを思い出せたら、実は自分って、こんなに色んな事ができているんだぞと勇気づけられることもあるかもしれない。
2時間後、そんなことを思いながら、サッパリとした頭で、まだ半分の量の夕食を有り難く全部平らげた。
***
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