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恐竜がヨガインストラクターに進化するまで


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記事:藤井彩(ライティング・ゼミ日曜コース)
 
 

ドンドンドン!
ドアを叩く音が夜の静寂にこだまする。
 
ここは病院。あたりはすっかり暗くなっている。ご夫婦で診療を行っている、小さな病院は当然診療時間外だ。
だが、ご自宅と病院が繋がっているので無理を承知で母が私を連れてきたのだ。
 
この日は朝から喘息の発作で2回病院を訪れていた。朝、昼、晩とこの日はこれで3回目の訪問だった。
 
4歳で喘息を発症してからと言うもの、私の人生はガラリと変わった。
ほとんど外で遊ばせてもらえなくなった。
走りまわることはほぼなくなった。
笑うことさえ細心の注意が必要だった。
冗談のような話だが、笑いすぎても発作が起こるので、テレビがとても面白くて大ウケしていると母から「笑いなさんな!!」と本気で怒られた。
 
小学校に上がり、みんなが楽しみにしている体育の時間は、私にとっては恐怖の時間だった。いつ、何時発作が起きるかわからないからだ。
実際、体育の授業中に発作が起きて病院にかつぎ込まれ、そのまま入院したこともあった。
 
母は自分が喘息を患っていたせいで私に遺伝したのだとずいぶんと自分を責めたようだ。小学生の高学年で自然教室に行った時、サプライズで母からの手紙を各々渡され、読むという時間があった。
みんなの手紙には、生まれて来てくれてありがとう的なことが書かれていたように思うが、私が受け取った手紙には母からの懺悔の言葉が綴られていた。
子供の立場から言わせてもらうと、母のせいで喘息になったなんて微塵も思ったことはなかったのだが、普段気が強い母からの懺悔の言葉は胸に深く突き刺さった。喘息になってしまったことが母に申し訳なくて、気がつくと手紙の文字がにじんでいた。
 
母はとにかく発作を起こさせまいと、肺活量が上がるので喘息にいいといわれる水泳以外は運動をほとんどさせなかった。
 
私は良くも悪くも大変素直だった。4歳からほとんど運動らしい運動をせずに育ったら、それはそれは動くことが嫌いな子供に育った。
小学3年生の時に父の転勤で福岡に引っ越してから、喘息は劇的に改善し、4年生になる頃には、ほぼ完治して通院することもなくなったが、運動嫌いは治らなかった。
 
休み時間は外で遊ぶよりも教室で本を読んでいる方が好きだった。
昼休みならいざ知らず、たった15分そこらしかない中休みにドッチボールをして、汗だくになっているクラスメイトたちが理解できなかった。
 
だが、小学生くらいの時期は勉強ができる子より運動ができる子の方がクラスでは人気があるものだ。しかも私は本好きだったが、勉強がずば抜けてできたわけではなかったし、頭の回転はというと、どちらかというと遅い方だった。
友達と言い合いになってもその時は何も言い返せず家に帰ってから、あの時、ああ言ってやればよかった、こう言ってやればよかったと思いつくという始末。
私がクラスから孤立するのに、そう時間はかからなかった。
私はますます動かなくなった。
 
そしてとどめが、手に職をつけておいた方がいいと母が私に習わせ始めたピアノだ。
かなり厳しい先生で、1日3時間の練習が義務付けられた。突き指をしてはいけないので運動部には入るなと言われた。そもそも1日3時間練習の時点で部活などしている暇はなく、結局一度も部活動を経験せずに学生時代を過ごした。
 
一番動かなければいけない時期に運動するのは体育の授業と通学だけ。
と言っても中学は家から歩いて1分、高校は電車通学だったが、それでもトータル30分強といったところだったので大した運動にはならない。
 
そんな私は中学生ですでに四十肩になり、しもやけになり、加えて高校生では慢性的な肩こり・腰痛・冷えに悩まされるようになった。
人生で一番輝かしいはずの花のJK時代の私は、さながら氷河期の絶滅寸前の恐竜のようであった。
 
さて、その絶滅寸前の恐竜だったが、約20年後の現在、どんな職業についているかというと……なんとヨガインストラクターである。
高校生時代の私を知る友人たちは「あの藤井ちゃんがヨガインストラクターか……」としみじみ語るが、何より本人が一番驚いている。
氷河期の恐竜からは、言ってみれば真逆の立ち位置だ。
不健康極まりなかったJKは20年の時を経て、言わば人様に健康を導く職に就いたわけだ。
 
とはいえ、もちろん初めからインストラクターを目指していたわけではない。
ヨガを始めたのは週2、3回は整骨院に通わなければならないほど、ひどくなっていた肩こり、腰痛、そして冷えを何とかしたいという切実な思いからだった。
体力も根気もないことは自分が一番わかっていたので激しい運動や、ジムは絶対続かない自信があった。体もカチカチで柔軟性のかけらもなかったのだが、どういうわけかヨガだけは私にもできるかもと思ったのだ。
 
インストラクターとなった今では、ヨガをするのに柔軟性は大した問題でないことは、よくわかっているが、その当時はヨガのヨの時も知らなかったのに思い切った決断をしたなと我ながら感心する。何しろレッスンを受けていたインストラクターから「え! それ本気でやってます?」と手抜きを疑われるほどのカチカチっぷりだったから。
 
そんな状態で始めたヨガだったが、ハマるまでそう時間はかからなかった。今まで散々周りと比較し、比較され劣等感を感じてきた私にとって、誰と比べる必要もなく、ただただ自分の体の変化と向き合えばいいヨガはピッタリだったのだ。
週1回のヨガが待ち遠しくて仕方なかった。
 
そんなある日、前屈で、まるで床につかなかった手が床につくようになっていることに気がついた。私でもやればできるんだと生まれて初めて思えた瞬間だった。と同時に劣等感の塊だった私に一つ自信がついた。
 
しかし、その時もまだ、あくまで趣味としてヨガを楽しんでいるだけで、インストラクターになる気などさらさらなかったし、なれるなんて夢にも思っていなかった。
 
きっかけは母が突然亡くなり、精神的に追い込まれてしまったことだった。
両親は離婚していて、父はおらず、弟も家を出ていて、家にいるのは私1人。
しかもグループホームに預けてはいたが、祖母が居た。一気に自分の肩にいろんなものが積み重なってきて、その重さに耐えきれなくなってしまった。
 
その結果、常に理由なき恐怖感に襲われ、心が安らぐことがなくなってしまった。でも、ただ一時、ヨガをやっている時だけは、すべてから解放されることができた。
 
この暗闇から抜け出すにはヨガしかないと、仕事を辞めたのを機にインストラクター養成講座を受けた。自分を救ってくれたヨガをもっと知りたいという理由だけで受けた養成講座だったが、ひょっとしたら私のように、ヨガで救われる人が世の中にはたくさんいるのかもしれない。そういう人たちの手助けをすることが私のこれからの人生なのかもしれない。そう考えるようになって恐竜は、ヨガインストラクターに進化したのだ。
 
とはいえ何しろ始まりが絶滅寸前の恐竜なので、まだまだ課題は多い。
勉強、勉強の日々だ。だがこんなインストラクターもいてもいいのかもなと思っている。落ちこぼれだった分、経験や挫折の数はエリートに負けてはいないだろう。むしろエリートにはわからない落ちこぼれの気持ちがわかることは、私の最大の強みだと思っている。
 
人生何があるかわからない。もしかしたら、また暗闇に落ちることがあるかもしれない。でも光はいつか必ず指す。そして私はそれを知っている。
小さくても一歩一歩前に進んでいこう。今はそんな風に日々を過ごしている。
 
 
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2017-05-18 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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