狂わされるだけじゃなかった
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記事:中澤一志(ライティング・ゼミ日曜コース)
その子はいつも本を読んでいた。
小学5年で僕がこの学校に転校してきて以来、どうしても気になってしまう女の子がいた。その子はいつも休み時間に本を読んでいた。その子の名前は工藤さんといった。周りの女の子たちと群れたりもせず、休み時間はいつも本を読んでいた。ふつう、女の子たちは休み時間にはいくつかのグループに分かれて、仲良く話をしたりするものだと思う。男子としてはそんなグループで何を話しているのかも気にはなるのだが、グループには目もくれず、一人本を読む工藤さんことを僕はいつも気になっていた。その周りに流されない感じが本当に大人びていて、まぶしかった。同じ学年の同じクラスにいるのに、中学生くらいに感じる、そんな存在だった。
工藤さんは学校の図書室の本の中で読みたいものは、もうほとんど読んでしまったらしい。今では小学生用の本では飽き足らないらしく、文庫本を読んでいる。文庫本。あの小さなサイズの本にびっしり文字で埋め尽くされている文庫本は、その当時の僕にとっては完全に大人の世界だった。あれって小学生が読んでもいいのだろうか? そんな風に思っていた。ちょっとやそこら背伸びしてもまだまだ届かない、憧れともいえる存在だった。
自分が知らない世界を工藤さんは既に足を踏み入れていた。もちろん、僕は工藤さんが何を読んでいるのかに興味があった。本当に直接何を読んでいるのか聞いてみたかったのだが、その時の僕にはどうしてもできなかった。あまりにも自分とレベルの差がありすぎた。話したことのない女の子に話しかけるだけでも大変なのに、僕ら男子と違って何倍も大人びている工藤さんに話しかけることなんて、恥ずかしくてできなかった。ただただ遠くから見つめることしかできなかった。
でも、ある時、チャンスが巡ってきた。
工藤さんが机の上に本を出しっぱなしにして、どこかに行ってしまったのだ。これは絶好のチャンスだった。今なら、工藤さんがどんな本を読んでいるのかがわかる。何か他に用があるようなふりをして、工藤さんの机に僕は近づいた。そして、机の上に置いてある文庫本の題名をどきどきしながら見た。
司馬遼太郎 「燃えよ剣」
文庫本の表紙にはそう書いてあった。どんな内容の本なんだ? 有名な本なのか? そもそも作者は三国志のマンガに出てくるような名字だけど日本人なのか? 頭の中に何個もクエスチョンマークが浮かんだ。それでも、やはり工藤さんに直接聞いてみることはできず、自分とは違う世界にいる、そう思わされただけだった。
その後、工藤さんとは違う中学校になり、一度も会ったことはない。むしろ、この淡い記憶を思い出すことさえなかった。完全に記憶の奥底に眠っていた。ある本を読むまでは。
その本とは、「人生を狂わす名著50」というタイトルの最近手に取った本だ。京都天狼院という書店のスタッフでもある女子大学院生が書いた、これを読んだら人生が狂ってしまうと思う本を紹介してくれる本だ。読んでみると、この本は次に読んでみたいと思ったり、自分が読んだことをある本に対しては、こんな風に紹介できるのかと感心させられたり。本当におすすめの本である。
その本の中で紹介されている本の一つに「燃えよ剣」があった。自分も中学生か、高校生の頃に読んだなと思ったり、「燃えよ剣」が好きな女子なんて珍しいなと思いながらページをめくっていた。すると急に、本当に突然に、この小学生の頃の出来事が頭の中にフラッシュバックしてきたのである。これは不思議な体験だった。子供のころの記憶が突如として蘇る、これまであまり経験したことがない瞬間だった。「人生を狂わす名著50」という本は、今まで手にすることのなかった新たな本との出会いを与えてくれる本だと思っていた。でも、それだけじゃなかった。小学生の時に感じた甘酸っぱい思い出を記憶の彼方から呼び起こしてくれた。そして、なんだかほっこり幸せな気分にさせてくれた。本にはこんな力もあるんだと驚いた。
本とは、まだ見ぬ世界へ自分を連れて行ってくれたり、何か新しいことを得ることができるものだと思っていた。でも、それだけでなく、こんな風に、昔、その本に出会った時に感じていたことや、それにまつわる出来事を思い出させてくれたりもするのだ。一瞬にして時を飛び越え、昔の自分と対話させてくれる、タイムマシンのような存在でもあったのだ。
今度はどんな体験ができるだろうか?
本って、本当に素敵だ。
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