それじゃあ、悪魔の証明じゃないか《プロフェッショナル・ゼミ》
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山田THX将治(天狼院ライティング・ゼミ プロフェッショナルコース)
“悪魔の証明”という文言に出会ったのは、学生時代だったと思うので、既に40年近く前のことになる。
「白いカラスが居る」という証明は、その‘白いカラス’自体を公にすることによって証明される。しかし、「白いカラスは居ない」という証明は、世界中のカラスを検体として収集しなければ証明出来ないので、その証明自体が不可能に近い証明と化するということだ。
この“悪魔の証明”をよく使うのが、‘超常現象’を肯定する面々だ。無謀に近い事を定義し、‘これを否定するなら全ての超常現象を定義し否定せよ’と言わんばかりに“悪魔の証明”を吹っ掛けてくる。
何故突然、“悪魔の証明”が頭を過ったのかというと、今年の年初に起こった全日本カヌー選手団における“パラドーピング事件”があったからだ。
“パラドーピング”とは、禁止薬物を自らが使う通常のドーピングではなく、他者によって禁止薬物を摂取させられてしまう事をいう。自分が知らぬ間に、飲食物に禁止薬物を混入されてしまうことによって起こるドーピングの事を、そう呼び分けするそうだ。
この“パラドーピング”は、自分が故意に摂取したものでは無いと証明せねばならない。‘誰が’禁止薬物を入れたのかが判明しない限り、“悪魔の証明”となって、証明すること自体が無理になってくる。
そして今回、耳を疑う様な発言が、‘被害者’のカヌー選手から出た。
禁止薬物を混入した容疑者は、ライバルで先輩の同僚選手だった。その同僚に向かって
「容疑を認めてくれたことに感謝する」
と言っていたのだ。被害者は窮地に在り、多分一生に一度の自国開催オリンピックに出られない恐れがあったのにだ。そこを救ったのだから、感謝したい気持ちは理解出来る。しかし、とても容疑者に‘感謝’という、似つかわしく無い言葉を使うとは、“悪魔の証明”がいかに困難な事なのかを、序実に表していると思った。
被害者選手に、明るい未来が開けたことは、救いに他ならないが。
これと同じ様な事が、ネットの書き込み等でもいえると思った。
いわゆる、ネガティヴな書き込みである。これは先ず、‘エゴサーチ’をしなければ発見出来ず、先ずは‘自ら’ネガ書き込みの存在を探さねばならない。
その上、そういった書き込みをする側、いわば‘加害者’は、故意にやったことには間違いはないが、意図は‘被害者’側からでは不明のままである。
多分、何らかの‘陥れよう’とする意図は感じられるが、その書き込みによって加害者が何らかの利得が有るとは考え難いのが殆どだからだ。言わば、“愉快犯”に近いものなのだろうか。
よく、偉人伝等に
「批判が無ければ一流とは認められない」
という趣旨の意見・発言を目にする。客観的に見れば、うなずける。しかし、批判(ネガ書き込みをされた)を受けたのが、偉人ではなく我々一般人だと話が違ってくる。一般人が、偉人より下に位置するというのではなく、受け取る側の‘生身度’が、偉人・有名人と事情が違うと思うのだ。生身の人間は傷付き易く、その傷の治癒力も、偉人・有名人よりも劣って来るものだからだ。
加害者側に利得が無くとも、我々一般人だと受けるショックもより大きくなる。しかも、そのショックを吐き出したり、ネガ書き込みに対する対抗手段も限られてくるからだ。発言の手段が限定されるし、その効果も計ることが難しいからだ。
ネガな発言という“非生産的行為”の相手をする程、それを受けた側は‘ヒマ’ではないという事情もある。慰め程度かもしれないが、せめても、“非生産的行為”をする様なヒマ人を相手にしても、こちらには何の利得も無い。そう考えることで、気持ちを落ち着けるしか方法はないと考える。
また、そう考えるより、仕方が無いと思ってしまうのだ。
年頭に『否定と肯定』という映画を観た。昨年末に公開され、話題となった法廷を舞台にした作品だ。実話に基づいている作品でもある。
ナチスによるユダヤ人虐殺を研究している、ユダヤ系アメリカ人で歴史学者の女性大学教授が居た。その彼女の思想・学説を、自らの著作で批判し、それだけで足りずに、彼女の講演会にまで乗り込み、批判の発言をした、イギリス人の学者も登場する。そのイギリス人学者は、いわば“ナチ親派”で、ホロコーストすら否定する持論を持っていた。
この映画では、学説の正否を問うていない。元々、“ホロコースト”に対する世界的コンセンサスは、すでに出来上がっていると思う。現に、‘アウシュビッツ収容所’は、広島の原爆ドームと同じく、世界文化遺産の‘負の遺産’として登録されている位だからだ。
では何故に『否定と肯定』が、興味を引くのか。
これは、映画の舞台が法廷に移った途端、全く別の展開を見せるところだ。
イギリス人学者は、アメリカ人学者の講演会で、決定的に議論に負けてしまう。そこで、彼女を‘名誉棄損’で法廷に訴え出た。但し、訴えた法廷が、自国イギリスの王立裁判所だった。
訴えられたアメリカ人女性学者は、イギリスの法律を知らなかった。
イギリスでは、‘立証責任’を負うのは、訴える原告ではなく、訴えられた被告なのだ。
例えて言うなら、原告が言い掛かりに近い容疑で被告を訴えたとする。その容疑を、原告が証明する必要はない。それに対し、被告は自らが潔白であることを証明する‘責任’がイギリスの法廷では存在するのだ。
そこの、日本人の我々から観ると一概に納得し辛い事だが、‘法の隙間’の様な部分を原告は巧みに突いて来たのだ。
映画の物語は、同じ英語を話すアメリカ人とイギリス人の、法に対するスタンスの違いを、実に見事に描き出した。
よくアメリカの法廷劇で、弁護人が「異議あり!」と声を出すシーンが有る。
『否定と肯定』に出てくるイギリスの法廷では、「異議あり!」は出てこない。
何故なら、訴えられた被告(アメリカ人学者)は、自分の無罪を立証しなければならない立場なので、‘異議’を挟み込む側では無いからだ。
そこで、裁判慣れしている筈のアメリカ人インテリであっても、‘勝手の違い’によって戸惑となって表れてくるのだ。被告の女性教授は、論客にもかかわらず言いたいことも言えず、徐々に悶々としてくるところが、観客にも伝わってくる。
まるで、エゴサーチしてしまった一般人が、自分に対するネガ書き込みに対し、文句を言う場が見付からないのと同じ様に。
また、日本人から見ると英語の微細なイントネーションが、十分に理解出来ないこともあり、多分、映画制作陣が意図したアメリカ人とイギリス人のちょっとした意思の疎通を欠いているところが、分からず終いで少々悔しい。
判断出来た範囲内では、イギリスの法廷に於いて、イギリス人弁護士は裁判に勝つことに注力し、片やアメリカ人学者は自らの学説に反駁する説(ホロコースト等の否定)を徹頭徹尾粉砕しようと試みる。
この、同じ方向性を持っているにもかかわらず、時に相反する行動となってしまうアメリカ人とイギリス人の違いが、御互いを反面教師としているとも取れなくもない描き方をされている。
この辺りの表現に対し、観客側の理解度がもう少し高ければ、もっともっと映画自体の評判を持ち上げることが出来たのにと、別の意味で悔しい思いもしたりした。
ネット社会となってこのかた、いわれのない誹謗中傷に曝されることは、誰に起きても珍しくはない。実際に、ネガ書き込みをされた例もよく耳にする。
自らの潔白を証明せんとして、“悪魔の証明”の渦にはまり込むことは賢明では無い。
ここは一つ、真に証明すべきことは何かを、明確なビジョンとして描ける人間だけが、ネガ書き込みの様な‘非生産的行為’に対し、的確な対抗措置がとれるのではと、『否定と肯定』を観ながら考えた。
アメリカとイギリスの合作映画『否定と肯定』。
是非ご覧になって下さい。
観賞後は、色々と考えさせられます。観た方と話したくなります。
よかったら、お喋りに付き合いますよ。
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