ありさのスケッチブック

たった六日間で魔法にかけられたようだった《ありさのスケッチブック》


午前0時27分。
力の入らない腕でスーツケースを引っ張っていく。
ぼんやりした頭で鍵を探り当て、家のドアを開ける。
家の中は、暗く、静まり返っていた。

何も変わっていない。
大きなペンギンのぬいぐるみも、
布団のある場所も、
文庫本やマンガだらけの机も。

帰ってきてしまった、と思う。
何もかも思い通りになるこの場所は、
最高に居心地の良い場所なのに、である。

ディズニーランドに行った時のように
ふわふわと落ち着かない気持ちの私は、
そういった優しい現実から目を背けたかった。

ダメだ、これを見てしまって、また慣れてしまっては。
何とも言えない焦燥感が押し寄せ、私は一気に不安になる。

ああ、もう寝てしまおう。
見なかったことにしよう。
私は、素早く着替え、顔を洗い、布団の中に潜りこんだ。

 

 

その一週間後。私は、福岡にいた。
そして、暇つぶしのために軽い気持ちで観た映画に衝撃を受けた。

私が選んだのは「ソードアート・オンライン」。
夜行バスで疲れているから眠くならないもの、という理由で戦闘ものを選んだ。
テレビアニメがあるらしいということはわかっていたが、内容も登場人物も何も知らなかった。

この映画は、AR(拡張現実)が実現している世界が舞台だ。
つまり、現実の事象にコンピュータの情報が付加された世界が実現している、未来の物語なのである。
今までの私は、仮想世界や拡張世界に対してそれって現実じゃないし……と敬遠する傾向にあった。
現実にはかたちとして存在しない世界に価値があるとは思えなかったからだ。
さらに私は、VRとかARとか科学的な話をされると話が難しくて頭がこんがらがってしまう。
チケットを買ってから映画が上映されるまでの間、もしかしたらこの映画もよくわからないまま終わってしまうかもしれないな、と思っていた。

 

しかし、見終わった後。
「めっちゃ面白かったんだけどこの映画!!」
と思わずLINEを送ってしまうほど、私はこの映画が好きになってしまった。
さらには、今すぐあの世界に飛び込みたい、と思ってしまうくらいにはVRやARの素晴らしさに魅了されてしまったのであった。
それに気づいて、いつもは食べないクレープを勢いに任せて買ってしまうくらい、私は動揺していた。

今まではIT技術やVR技術の素晴らしさを説く人の何を聞いても心が揺れることなんてなかったのに。
今まではVRなんて嘘の世界じゃん、とも思っていたくらいなのに。
映画を観た二時間ほどで一気にVRやARが好きになってしまうなんて。
しばらく私は、魔法をかけられたような気分になっていた。
まるで、不思議な夢をみていたうちに何もかも変わってしまったような、そんな感覚だった。

 

 

この日の一週間前もまた、私は不思議な夢を見ていた感覚だった。
私は、大学生が六日間議論して成果物を作成するプロジェクトの運営をしていた。
つくつぐ、と過去の参加者や運営者はこのプロジェクトを呼ぶ。
まるで、見えない糸を手繰り寄せるような、そんな掴みどころのない経験だった。
前に進むためには、どれを引けば正しく作用するかも分からないまま、糸を選び続けることしか私にできることはなかった。
一方で、陸上の試合の前のように高ぶる気持ちを持ち続けた一週間でもあった。
朝起きると今日も一日をどう走り切ろうかと緊張し、試合中は無我夢中で走る。
そんな日々の繰り返しだった。

 

確かに私は、あの場所で初めて会う4人のメンバーと膝を突き合わせて議論をし、六日間かけてチームで想いをかたちにしていった。
確かに私は、30人余りもの人数の人と共に朝から深夜まで同じ空間の中で過ごし、同じ物を食べて生活していた。
確かに私は、自分の不甲斐なさや力不足を何度も感じ、悔しくて涙を流した。

色んな人達の話を聞き、お互いに励まし合いながら、何とか六日間走ってきた。
想いがかたちになった時は、嬉しくてしょうがなかった。

 

この六日間、私は初めて誰かのために怒ることができた。
怒ってもお互いに嫌な気持ちになるだけだからと普段は決して怒らない。
イラッとしても自分の中で処理してしまう。
しかし、あの時だけは違う。
「ねえ待って、今いろんな軸の話を同時にしてるの、わかってる?」
そう言った口調は強く、熱く、鋭かった。
自分でそういったのが、信じられないほどだ。
怒りは必ずしも攻撃的であるわけではなく、
相手への期待が込められていることもあることをこの時に知った。

 

この六日間、私は今までの集中力が嘘かと思うくらい集中していた。
それまでの私は、適当なタイミングで力を抜いてしまっていた。
100メートル走のラスト10メートルで、もう他の人には抜かれないからとスピードを落としてしまう時のように、ふとした瞬間にフッと気を緩めてしまっていた。
それを私は恥ずかしい話、「周りが見える」という長所なのだと思っていた。
周りが見えるから、場が回ると思ったら自分はそこまで頑張らなくていいやと手を抜いた。
空気を読めるから、自分以外の他の人は納得していると感じたらその流れに身を任せていた。
それを、妥協や手抜きであることも気づかずに。
あの時の私は、ひたすら今やっていること一点に集中する術を見に着け、ただひたすらに人の話を聞き、自分も話し、一歩先を読んで行動していた。

 

この六日間、時間を守り続ける姿勢を持ち続けた。
それまでは何となくみんなが集まっている時間に集まっていた。
体内時計! と主張して時計もみず、休憩時間ぎりぎりのタイミングでトイレに駆け込んだりした。
何となく話し合いを始め、話し終わるまでだらだらと時間をかけて話していた。
それが、あの時は、誰も集まっていなくても時間になれば集まって話す準備をしていた。
誰かに相談する時や発言する時は要点をポストイットに書きとめ、滞りなく話せるようにした。

 

どれも、今まではしてこなかったことだ。意識していなかったことだ。
それが、六日間という短い時間の中でガラッと変わってしまった。
たった六日間で、魔法がかけられたようだった。
そう、ソードアート・オンラインを観てARやVRに対する価値観がガラリと変わってしまったかのように。

 

あの六日間は確かに存在した。
しかし、それをあまりよく知らない人に話そうとすると、
まるでシャボン玉のように弾け、余韻すら残らないものになってしまう。
どれだけ熱く語っても、どれだけ情景を説明しても、
「大変だったんだねえ……」
と言われて終わりなのである。どう頑張っても響かない。

 

その瞬間に、私は不安になるのである。
あの六日間は、本当に私が体験したことだったのだろうか……
もしかして、不思議な夢だったのではないだろうか……
あの場所で出来たことが、今は出来なくなっているのではないだろうか……
確かに経験したはずのことが、夢だったかのように感じてしまう。

 

あの六日間という非日常の体験を、今ここにいる日常と接触させようとすると、
いとも簡単に消え去ってしまうのである。
それが、怖い。怖くてしょうがない。
自分が頑張ってきたことが消えてしまいそうで、
自分があの場所で出来るようになったことを忘れてしまいそうで、
危うくて、儚い体験を壊したくなくて、私は日常から目を背けたくなる。
だから私は0時過ぎに帰ってきたあの日も変わっていないいつもの部屋を見ないようにして、
布団に潜り込んだのだ。

 

あの場所でのことが、現実のことだったのだと知らしめてくれるのは、
六日間一緒に過ごした30名あまりのメンバーだけ。
それが、あまりにも心許なくて、不安になる。

 

でも。

ゼロじゃない。

私以外にあの場所での熱を、挑戦を、夢を思い出させてくれるのは

30人「も」いるのである。

 

いいではないか。
あの当時のことを知る人が少なくても、私とあの30人は、きっと忘れない。
あの場所で何があったのか、どんな想いを抱えていたか、どんなことを話したか。
たとえ忘れたとしても、もう一回会ったら思い出せるはずだ。

なぜなら私たちは、大きなパズルの一つのピースのように、
誰が欠けても成り立つことのない共同体のようなものであるはずだから。

 

今までにも、強い衝撃を受けた経験は夢だったかのように感じてしまい、なんとなく現実に起きたことだと思えなくなったことがある。
実は何も起きてはいなかったのではないかと思ってしまったことさえある。

しかし、自分で自分の経験を疑うようなことをしてはいけないのだ。
自分がしたこと、考えたことが本当に起きたことだと信じられなかったら、他の人に信じてもらえるはずがない。

 

もし、自分の身に起きたことを誰かに証明してほしかったら。
本当に起きたことだということを信じられなくなりそうになったら。
まずは、自分がその経験を信じること。
そして、その場にいた人とその経験を共有すること。
それさえできれば、そこにいなかった他の人には伝わらなかったり、信じてもらえなかったりしても十分ではないか。

 

私は、目には見えないけれど大切なものを大切にできる人でありたい。
今までの経験や今まで創り上げてきた価値観は紛れもない真実だったと胸を張って言えるくらい、自分のことは一番に信じられる自分でいたい。

 

今までの経験や価値観があってこそ、「私」という、今の自分がいるのだから。

 

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