京大に変人が多いと言われる理由《三宅のはんなり京だより》
京大には変人が多い。
なんて噂を聞いたことがあるだろーか。
実際に京大で日々を過ごしていると、
炬燵で鍋を屋外で囲んでいたり、卒業式にコスプレしたり、構内でマイク持って演説する人がいたりするのにも慣れてくる。
だから「変人?うーん多いかなぁ……?」と思うし、
「変人のフリしたい人が多いだけでしょう」なんて辛辣なご意見も聞く。
でも、三年目を迎えて、変人が多いと言われるだけの理由はある、と私は思う。
というのも、どう考えても京大というのは、
アウトロー気質――言ってしまえば「社会不適合者」に近い人々――の集まりだからだ。
社会不適合者、という上での「社会」とは、「みんな同じでいきましょう」という「社会」だ。
そんな中、私の周りの京大生からは
「中高時代、勉強はできたけど先生の言うこと聞かなかったから先生に嫌われてた」とか、
「仲間はずれにされたことある!周りの子から浮いてたからね」とかそんな声をよく聞く。
みんなと同じとか、無理。みんながやってるからとか、無理。というかなぜそれでやれるのかが分からない。
そんな人たちの掃き溜めのような場所がある意味「京大」なのではないかと思う。
他人の目を全く気にしないってわけではない。
だけど、他人がやってるからやるっていう価値観がない。
京大は「自由の学風」だって言われるけれど、
「みんな同じ」ではない、多様な価値観を受け入れる「自由」というキャパシティがある、ってことなのだろう。
だからこそ単位とか授業とかの自由度が高くて、勉強する人は死ぬほどするし、遊ぶ人は死ぬほど遊ぶ、なんて構造になるんだと思う。どうなるかは、本人の自由と責任だ。
「自由を選ぶ」というのも、その賢さとスペックに基づいた「自信」を持つ人が多いからできることなんだろうと思う。京大生は自信家が多いのだ。
それは自信のなさを隠すための自己顕示なんかじゃなくて、「自分はできる」という単純な自己肯定感に似たもので。
みんなと違う、自分だけの価値観を選ぶだけの、自信がある人ばかりだと思う。
……とか言うと私の周りの自信家たちは「自信とか全然ないよ、別に」って言うのだろうけれど、いーや、ある。本人たちが自分で気づいてないほどの健康的な自信だ。
「みんな同じ」という日本の風潮に逆流しようとする人々が集まって、京大という場所ができているのかもしれない。
さて、私にも、とかとんとん、と「就職活動」なるものの足音が聞こえてきた。
「社会不適合者」京大生も、どうにか自分と社会の適合できる接点を見つけようとしている。
それは、自分が社会に合わせることだったり、むしろ社会を作ろうとすることだったり、社会から乖離しようとすることだったりするけれど、
つい、社会にも京大のよーな場所はないのかなぁ、と思ってしまう。
社会人になるってのは「社会に適合する」ことのほかないんだ、って分かってはいるのだけど。
願わくば、社会はそれでいいにしても、学校現場にもっと京大のような場所が増えたらいいなぁ、と思う。
みんながやってるからやりましょう、って理屈じゃなくて、
あなたが選びたいものは何なのか、責任を持てるなら、それは人と違っててもいいんだよ、って言える「自由さ」がもっとあってもいいのになぁと思う。
京大生は頭がいいから責任を持てるくらいその選択肢について考えられるんでしょ、って言われそうだけど、それを考えるのは訓練であって、いつもいつも自分はどうしたいのか?を考えてたら考える癖というのはつくもんだ、と私は思う。
そしてその癖がつく教育をしてくれる大人がもっと増えたらいいな、そしたらもっと自由になる気がするのに、なんて思うのだ。
みんながみんな、マジョリティ意見で構成された「社会」に合うわけじゃないから。
京大生として就活を始めるにあたって、ぼんやり思うのであった。
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