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ライティング・ラボ

毎日メールチェックを5回以上する人は知っておいた方がよい、メールの真実《陸奥亭日記》


 

記事:野田 賀一(ライティング・ラボ)

 

 

 

「ブー、ブー、ブー、ブー。」

 

そういえば、とんと使わなくなったが、

スマホには、着信した時に音で鳴らす機能があるらしい。

中学生の頃には、着メロなぞというものが中学生の日常の話題になり、

3和音とか4和音とか、今だと笑ってしまうようなものにこだわっていた

時代が妙に懐かしい。

 

「ブー、ブー、ブー、ブー。」

 

この短い振動は、メール受信を知らせるスマホの機能だ。

もうひっきりなしに鳴るから身に着けるのが嫌になって

台所やら、布団やら、ソファーやら、

そこらじゅうに置いてしまうので大抵スマホは行方不明になる。

 

何より、僕は常日頃から、このメールというものが憎くて憎くてたまらない。

もうこれから逃れたいがために、わざとあっちこっちに置いて

「気づかなかった」という既成事実を作っているようである。

 

最近では、LINEやFACEBOOKメッセンジャーという親戚みたいなものまで出てきて

Aさんはメールで、BさんはLINEで、CさんはFACEBOOKで、、、

あー! ややこしい!!

 

 

嫌気が差したので、自宅の一歩外に出てみたところで、

道行く人は、その道の先ではなく手元のスマホを真剣に見つめている。

電車内を見渡せば、スマホをシュッシュと華麗な指捌きで操っている老若男女。

会社でも隣のデスク同士でメールのやり取り。上司ともメール。取引先ともメール。

彼女とのやり取りもメール。ショップからのお知らせもメール。

メール、メール、メール。

 

ああ、もはやこの世の中はメールに支配されている。

私生活、仕事全てにおいてなくてはならない存在になりつつある。

いや、人によっては空気のように、そばに無くてはならないものになっている場合もあるかもしれない。

いずれにせよ、全てひっくるめて、日を追うごとに憎さ倍増である。

 

 

いつからなんだろうか、このメールなるものが人間界に浸透したのは。

あまりにも自然に、いつとなく空気のような存在でそこにあったような気もする。

皆さんもご自分の1日はどうか? 今一度思い返してもらいたい。

 

朝起きて、携帯のメールをチェックをする。

仕事に出勤すれば、朝から晩までメールの応酬をして、

開封忘れが無いかメールを検索。

昼は、ご飯を食べながらメールのチェック。

または休憩中にメールのチェック。

その後、仕事でもメールの返信に追われ、ふと気づいた時の時間の経過に愕然とする。

夜は仕事帰りに家族にメールを打ち、帰宅中には仕事のメールを携帯でキャッチ。

そこに妻からの文句のメールが届いて、

その内容に悶々として既に頭の中は『どう返信するか』でいっぱい。

 

どうだろう。

僕らがメールを扱っているのか。

メールに操られているのか分かったもんではない。

 

『いつでも、どこでも、誰にでも』

文章をテキパキ作って、エンターを押せばメールロケットの発射である。

この便利さと中毒性に全世界がてんやわんやである。

かくいう私もメールが無くては恐らく生きていけないだろう。

自分だけがメールを拒絶したところで、もはやそれは社会との絶縁宣言突きつけるようなものである。

ああ、なんとはかない運命だろうか。

 

 

「ふぅ。」

とため息を一つついて、手元の文庫本に目を戻す。

ちょうど、『談志の愛した十八番』を読み終えたところであった。

そうだ。

『落語の世界』と『メールの受信音』がリンクして、これまでの妄想に寄り道していたんだと思い出す。

この本は、立川談志が生前に、高座にかけた演目で素晴らしかったものを紹介している。

何度となくDVDで観た演目ばかりなので、眼をつぶれば今でも目の前に容易に想像できる。

熊さんや八っつぁんやご隠居さんが活き活きと、時に独創的にその会話を楽しんでいる。

 

そう、落語は基本的には、『会話』で成り立っている。

江戸時代にはメールや電話なんてものは存在しないので、

大体、話をするために会いにいく所から始まる。

 

落語をやってみて分かったのは、一人二役なので、

そのどちらの喜怒哀楽も表現しなければならないということ。

これが非常に難しい。

 

この微妙な感情や、やり取りの軽快さを出すために

会話の間(ま)や小芝居が必要になる。

そうなると自然と、普段の自分の会話をじっくりと第三者的な目線から

傍観するようになっている。

 

ある時気づいたことがある。

それは、

「落語をやり始めてから、人との会話を楽しむようになっている」

ことだ。

 

その時のお互いの感情によって、

表情や、話の間や、言葉使いまで変わってくる。

そういえば、一度としてまったく同じテンポの会話をしたことはない。

 

落語も同じで、演目は決まったものがあるが、

話の筋はそのままに、やはり演じるごとに若干違いが出てくる。

このライブ感というか、その時の盛り上がり次第で出来が変わってくる。

それが落語の魅力であり、人間の『会話』という行動の魅力ではないか。

 

落語に限らず、皆さんも経験があるだろう。

この内容はメールじゃ伝わらない。とわざわざ出向いていって、

熱心に説明をしたら先方が理解してくれたことや、

誤ったことをしてしまって、お詫びにお伺いをしたら、

思いのほか怒っておらず、許してもらえたこと。

会話は人の心を動かすのだ。

 

だからこそ、

動物たちの中で、人間だけが持ちえたこの『会話』という能力をもっともっと

楽しむべきである。

 

 

メールは確かに便利だ。

『いつでも、どこでも、誰にでも』

文章をテキパキ作って、エンターを押す。

それだけで世界中の人間とコミュニケーションと取れるが、

元来、人間の中には電気ではなく温かい血が通っていることを思い出してほしい。

 

そこで、メールとの共存方法を考えてみた。

メールは『無感情で相手に伝える手段』として扱い、

会話は『感情を相手に伝える手段』として扱う。

という役割分担はどうだろう。

メールは一方通行、会話は相互通行のキャッチボールを楽しむものであるとする。

おお、いいとこ取りではないか。実に、理にかなっている。

 

 

あれ? でも待てよ。

気がついたら、メールをあれほど憎い憎いといいながら、

結局は、使い分けをしているな。

 

と思い、ふと、手元に目を戻すと、

 

「これから池袋から帰るね。ご飯はいりません。」

スマホの送信ボタン(エンター)を押した右手の親指が

いつもよりも大きく見えた。

 

人間の習慣というものは非常に怖いものである。

 

 

***

この記事は、ライティングラボにご参加いただいたお客様に書いていただいております。

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2015-05-25 | Posted in ライティング・ラボ, 記事

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