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「そうだんしつ」の扉を開けて


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事:高橋実帆子(ライティング・ゼミ日曜コース)
 
 
「お母さんは外に出ててくれる? カウンセラーさんと2人で話したいから」
 
「え? そうなんだ……わかった。外で待ってるね」
 
8歳の長男とカウンセラーさんを「そうだんしつ」の中に残し、私は椅子を抱えて外へ出た。扉を閉めて、廊下に椅子を置き、腰を下ろす。部屋の中からぼそぼそと話し声が聞こえてくるが、何を話しているのかまでは分からない。
 
こんなことになるなら、読みかけの本でも持ってくればよかった、と思いながら、暇つぶしに、扉の前に貼られた「そうだんしつ」の説明書きを読んでみる。
 
『そうだんしつは、スクールカウンセラーのいる部屋です。みなさんが、悩んだり困ったりしていることを、一緒に考えるところです。そうだんしつで話したことは、ほかの人には言いません。予約をしてから、気軽にそうだんに来てください』

小学校の「そうだんしつ」に行ってみない? と長男を誘ったのは、私だった。もともと学校が好きで、楽しそうに通っていた長男が、時折「学校、行きたくないなあ」と口にするようになったのだ。担任の先生の話では、クラスの中で少しけんかが増えていて、長男もときどき、感情が抑えられず手を出したり、出されたりすることがあるという。そんなとき、長男が学校からもらってきたプリントの中に「そうだんしつ」の紹介の紙が入っていた。

「気軽に、って書いてあるし、ちょっと行ってみない? スクールカウンセラーさんは子どもの心のことをいっぱい知っているから、何か楽になる方法教えてもらえるかも」
「うん、行ってもいいよ」と長男は言い、どちらかといえば私が主導する形で「そうだんしつ」にやってきた。だから、まさか「お母さんは外に出てて」なんて言われるとは思わなかったのだ。

――まだ8歳と思っていたけれど、もう親に聞かれたくない話があるんだなあ。

20分くらい経ったところで、部屋の中に招き入れられた。長男は、そうだんしつに来る前よりも、少しリラックスした表情になったようだった。

「今、話してくれたこと、少しだけお母さんにも伝えていい?」とカウンセラーのYさんが長男にたずねた。息子は椅子を前後にがたがた揺らしながら「いいよ」と言った。

「算数。折り紙。ベーゴマ。空手。ジャグリング。息子さんは、好きなことがたくさんあるんですね」
Yさんは言った。
あれ、学校に行きたくないことについて話し合ったんじゃなかったのかな……と思いつつ、私は答えた。
「そうですね。好奇心旺盛な方だと思います」
「すごくいろんなことをがんばっているんだよね」
Yさんに言われ、息子は黙って頷いた。
 
「それでも、ときどき、どうしてもイヤなことを言われてムカついてしまうことがあるそうです。深呼吸したり、その場を離れたりしてやり過ごせるときもあるけど、つい手が出てしまうときもあるって」
「そうみたいですね」
私は頷いた。
 
例えば息子は、自分の名前をもじってからかわれるのが嫌いだ。長男を妊娠中、夫と私が何ヶ月も考えて、一文字ずつ漢字を選んで名前をプレゼントしたという話をしてから、自分の名前をとても大切に思っているらしい。
友達は親しみを込めて冗談のつもりで言っているのだろうが、長男にとっては「ばかにされているみたいで、どうしても許せない」のだという。
 
「そういうとき、イライラする感情を抑えるのに何かいい方法がないかと思って、ご相談に伺ったんです」
「なるほど」
私の言葉に、Yさんはほほ笑んだ。
 
「実は私、息子さんがイヤなことを言われて泣いている場面に居合わせたことがあるんです。本当に悲しそうでした。でも、彼がなぜそんなに悔しくて悲しいのか、周りの子たちは理解できなくて、ポカンとしている様子でした」
「ああ、そうだったんですね……」
「息子さんは、たぶん感情がとても豊かなんです。心の成長が速いんだと思います」
 
――感情が豊か? 心の成長が速い?
 
今度は私が、ポカンと口を開けて言葉を失う番だった。だって、数十分前にそうだんしつの扉を開けたとき、私はこう思っていたのだ。
 
「“問題”を解決しなければ」と。
 
教室でトラブルが起こって、同級生や本人が怪我をするような事態を防ぐには、今ここにある問題、つまり、息子の中にあふれてくる「怒りの感情」を取り除くしかない――
 
「あのね、ムカついたときは『意識をずらす』んだって。いっぱい方法があるんだよ」
 
長男が言った。Yさんが教えてくれたらしい。
 
イライラして、どうしても我慢できないときは、とりあえずその場を離れて水で顔を洗ったり、授業中なら手を挙げてトイレに行ったりして、気持ちを切り替える。あるいは、好きなことについて考える。頭の中で、得意な算数の暗算をする。手を動かすことが好きだから、絵を描いたり、折り紙で何か作ったりするのもいい――ああ、そうか。
 
「感情を、無理やり消そうとするから苦しくなるんですね。その対象から、意識をずらせばいいんだ……」
半ば自分に言い聞かせるように、私はつぶやいた。
 
怒りの感情を抱くのは悪いこと。マイナスの気持ちは、白いシャツについたインクの染みのように、きれいさっぱり消してしまわなければならないと、私はどこかで思い込んでいた。だけど――
 
「感情には、もともと、良いも悪いもないんです」
Yさんが言った。
 
怒りや悲しみの感情が豊かだということは、喜びや楽しさも、それだけ大きく感じられるということ。豊かな想像力や創造性を持ちうるということだ。
 
社会の中で生きている以上、感情に流されて人に迷惑をかけないよう折り合いをつけていく努力はもちろん必要。でも、それは感情を押さえつけ、押し殺すこととは違う。感情は、ちゃんと感じきれば、役割を終えて静かに消えていく。
 
息子の人生から、そして私自身の人生から怒りや悲しみを追い出すことに気を取られて、私はいつの間にか、長男が持って生まれた豊かな感情というギフトを見失いかけていたのかもしれない。
 
Yさんと次の面談を約束して学校の外に出たら、1月にもかかわらず春のようなあたたかさだった。
 
「そうだんしつ」の扉を開けるまで足りないものだらけだった世界が、くるりと反転して、贈り物に満ちているように感じられた。子どもたちは、小さい体の中に無限の可能性を秘めた種子で、これからどこへでも伸びていける。そして私自身も、そう信じてくれる大人に見守られて、ここまで歩いてきたのだ。
 
ゆっくり時間をかけて、学んでいけばいい。あふれる感情との付き合い方。感情のエネルギーを創造性に変えていくことだって、いつかきっとできる。
 
暑い暑いと言って長男は上着を脱ぎ、Tシャツ1枚になってしまった。
「そうだんしつ、どうだった?」
「うーん。わかんないけど、なんかすっきりしたから、ちょっと友達と遊んでくるわ」
 
私の手に上着を押し込んで走っていく背中を見送って、ふと北風と太陽の物語を思い出した。自分の力で伸びていこうとする子どもに、親がしてあげられることは、たったひとつしかないのかもしれない。
 
見上げた空は青く、街路樹の葉っぱの先に溜まった光が、いつもよりまぶしく感じられた。
 
 
 
 
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2020-02-07 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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