失われた人間性をとりもどせ!
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
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記事:ちょこ(ライティング・ゼミ特講)
いや、さすがにこれはないだろう。
3リットルのゼリー液を前にして、わたしは固まっていた。
己の人間性がここまで損なわれていたことに、そのことに気づいていなかったことに、ただただ呆然としていた。
感染症を避けるため、外出自粛の日々が続いている。
かくいうわたしは、先日から急に休業が言い渡されたため、降って湧いた休日にワクワクが止まらない。
もともとインドア派のわたしにとって、読書三昧映画三昧は願ってもいないこと。
目が覚めた時間に起きて近所を散歩し、部屋でストレッチをしてあとはだらだらと好きなことをして過ごしている。
世界中が大変なことになっているとはいえ、ミクロで見れば休日万歳。
ここ1ヶ月の通勤は不安との戦いであったので、ようやくストレスからも解放された。
仕事は、特別忙しくない。
残業は少ないし、胃が痛くなるようなノルマがあるわけでもない。
それでも、通勤やデータのチェック、顧客対応で、じわりじわりとストレスは蓄積していたのだろう。
そのことに、今回の自宅待機で気がつく羽目になった。
わたしはどうも、ストレス解消を食に求める傾向がある。
ここ1年はダイエットをしているので、外出することや運動することでもストレス解消をしていたのだが、さすがに今のこの状態では外での活動はできない。
自然、食欲のほうが刺激されてしまって、しかも映画を見ながら本を読みながらだと、口が動かせてしまうのだ。
それでもはじめはプロテインバーやナッツを食べていたが、それも1日に2本3本食べるようでは体に悪い。
しかたなく、寒天ゼリーを作り始めた。
もともとお菓子作りは好きなので、道具も材料も揃っている。
ただ、ここ5年以上はお菓子作りをしていなかった。
お菓子を作ろうという気にならなくて、買ったものばかりを食べていたし、そのほうが楽だからと満足していた。
していた、つもりだった。
ダイエット食なので、味付けのない水ゼリーだ。
そのへんにあったタッパーに入れて、冷蔵庫で冷やせば出来上がり。
それにほんの少しのメープルシロップをたらして、スプーンで口に運ぶと、それなりの満足感があった。
映画を見ているうちに、タッパー2つ分をぺろりと食べてしまった。
やはり固形物はいい。
ほとんど水とはいっても、ただ水を飲むよりも「食べた!」という気がして気が紛れる。
2日ほどそれを続けて、やっぱり味付きがいいなと思い、コーヒーゼリーに切り替えた。
こちらも甘みはつけずに、食べるときにメープルシロップをほんの少しだけかける。
味がついているというのは偉大で、水ゼリーよりもおいしかった。
これもタッパーに作って、タッパーからそのまま食べた。
さらに次の日は、紅茶ゼリーにした。
コーヒーよりも紅茶党なので、アールグレーの爽やかな香りに癒やされる。
またしてもタッパー2つ分を、本を読みながらつるりとお腹に収めた。
うん、なかなかいいではないか。
どうせ毎日食べるのだから、今度はもっと大量に作ろう。
ちょうどキッチンに、3リットルが入る大きな四角いタッパーがあった。
これでいいじゃん。
鍋に大量のお湯を沸かして寒天を溶かすかたわら、ポットで紅茶を出す。
ちょっと奮発して、おいしいアップルティーを開封した。
溶かした寒天と紅茶を合わせると、大鍋いっぱいのゼリー液の完成である。
さて、と3リットルのタッパーに手を伸ばしかけて、わたしは固まった。
このタッパーを抱えて、食べるのか?
3リットル入りの大きなタッパーを抱えてパソコンの前に座り込み、無心にスプーンでゼリーを口に運ぶアラサー。
自分で想像しておいて、かなりグロテスクだ。
というか、人間として終わっている。
ダメだ。
そのとき、ふと何年もしまいっぱなしのお菓子の型があることを思い出した。
お菓子作りを頻繁に行っていたころ、あちこちで買い揃えたシリコン型。
バラ、かぼちゃ、クグロフ、ハート、ふくろう、もみの木、いろんな形のカラフルなケーキ型。
しまい込んだ引き出しを開けると、ちゃんとそこに並んでいた。
ほかにも季節ごとの形のクッキー型も、たくさん出てきた。
型抜きクッキーなんて、もう何年作っていないのだろう。
いいな。
昔はよく作っていたんだよな。
いつから、作りたいという気持ちを失っていたのだろう。
とりあえずはゼリーである。
シリコン型をいくつか取り出して、ひとつひとつに大量のゼリー液を注いでいく。
カップケーキ大のゼリーが20個くらいできた。
出来上がったゼリーを食べるときも、長らく使っていなかったガラスのカップを出した。
ゼリーを贅沢に2個のせる。
写真を撮って、本を読みながら少しずつ味わう。
おいしかった。
タッパーから食べるのと、味は同じはずなのに。
タッパーで食べるよりも、量は少ないのに。
飢えとストレスを解消するための固形物だったゼリーが、午後のひとときを優雅に過ごすための贅沢品へと、変化を遂げていた。
ひとくち口に運ぶたびに、自分の中でボロボロになっていた何かが、ぱちり、ぱちり、と元の位置に戻っていく気がした。
わたしはこれほどまでに、疲れていたのか。
「食べる」という行為が「楽しみ」ではなく、「餌」になってしまうほどに人間性を損ない、それに無関心になっていたのか。
人間性はじわじわと失われていき、なかなか気が付かない。
「効率」とか「優先順位」というお題目のもと、心の余裕が圧迫されていて、好きなものを好きでいられないことに無頓着になっていた。
奇しくも命の危険にさらされたことで、わたしは人間性を取り戻すきっかけを得た。
タッパー入り水ゼリーからはじまって、ようやく型入り紅茶ゼリーまでたどり着くことができた。
忙しない日々の中で、人間性は失われてきてはいないだろうか。
人としてこれはちょっと、という領域に足を踏み入れてはいないだろうか。
昔好きだったのに、やる気が起きなくなっていることはないだろうか。
外界との接触が極端に少なくなった今こそ、人間性を回復する絶好のチャンスだ。
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