セーブデータ「ぼうけんのしょ」
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
記事:印田 彩希子(ライティング・ゼミ平日コース)
トイレの長い子供だった。
「あきこーーー! ウンチ出たのーーー?」
トイレの外からお母さんの声がする。
「ま〜だだよ〜」
「早くしなさいっっ!!」
毎朝の恒例行事だ。
母親にとっては、たまったもんじゃなかっただろう。
もうすぐ幼稚園のバスがお迎えに来るっていうのに、娘はいつまで経ってもトイレから出てこない。
母だってもうすぐ会社に出勤する時刻だ。
このバスを逃したら、またおばあちゃんに幼稚園まで娘を送ってもらうことになる。
もともと母が結婚しても働き続けることに反対していた人だ。
またグチグチと文句を言われるに決まってる。
ここはなんとしても娘をバスに乗せねば。
毎朝が戦場、そこに「ま〜だだよ〜」なんて間延びした返事が返ってくるのだ。
母親から鬼軍曹に変身するしかない。
私のトイレの時間はたしかに長かった。
7時45分から始まる「ひらけポンキッキ」をちょっと見て、それからトイレに入る。
トイレを出る頃にはテレビの時刻表示は「8:00」とか「8:05」を指していた。
少なくとも10分くらいはトイレに篭城していたことになる。
10分間ずっと気張っていたのか。否。毎朝快便だった。
じゃあ、一体何をしていたのか。
冒険していたのである。
冒険が楽しくて、トイレから出たくなかったのだ。
実家のトイレのドアは木目調だった。
便座はドアに対して真正面向き。座っている間はドアを見つめる格好になる。
ドアの木目をじっと見ていると、なんだか木目の世界に吸い込まれていくのだ。
ある日は、水墨画のような険しい岩山の世界。
ある日は、霧に包まれた先の見えな世界。
ある日は、雲と雲の間を空飛ぶ世界。
見るたびに、違う世界が広がっていて、木目を辿ると冒険が進む。
毎日違う世界の中を、空を飛んだり、走ったり。時にはお化けに襲われたりしながら、旅していたのだ。
トイレの中で、わたしは幼稚園児ではなく、いっぱしの冒険家だった。
見たことない、行ったことない場所を自由自在に駆け回る。
物語は木目に書いてあって、毎日想像もしなかった大冒険が待っていた。
冒険の世界は無限大。
いつまででも籠もっていられた。
そんなわけで、肝心のウンチもおしっこも二の次だ。
お母さんの怒号が飛んでようやく用事を済ませる。
ドアを叩く音は冒険終了の合図。
「やんなっちゃう」
どっかで覚えた大人の台詞が口からこぼれる。
トイレから出ると、鬼の形相のラスボスが目の前に仁王立ちしているのは分かってる。
あ〜あ、せっかくの楽しかった冒険が台無しだ。
大人にとっては何の変哲もないただの木目が、当時の私にとっては大冒険の入り口だった。
いつまでも眺めていられた。
木目に描かれた物語を読み取れた。
いつからだろう。
それが出来なくなっていた。
冒険の入り口はただの木目に戻り、トイレのドアを眺める時間は退屈な時間に変わっていった。
私は、冒険の扉を開く鍵を手放したのだ。
2001年、現代アートの国際展「横浜トリエンナーレ」が開催された。
横浜なら近いし、ちょっと行ってみるかと気軽な気持ちで出かけたのは、9月のまだ暑い日のことだった。
観終わって、立ち寄った喫茶店。
アイスコーヒーに刺さったストローは噛み潰されてガビガビになっていた。
「行かなきゃよかった」
トリエンナーレにはありとあらゆるアートがあった。
絵も、写真も、映像も、立体も。
でも、どれも全然つまんなかった。
「キモい。グロい。分かんない。」
どう見るのが正解なのか、とにかくひたすら分からない。分からないから、つまらない。
体はクタクタだし、頭もなんだかガンガンする。
きっと暑さのせいだけじゃない。
そこに何かがあるってことは分かっているのに、物語からはじき出されてしまった。
「遊びに入れて」と言ったのに、仲間はずれにされた時の気分だ。
ピーター・パンのいる夢と冒険のネバーランドに行けるのは、子どもの時だけ。
そんな現実を突きつけられて、ヒュッと体の芯が竦む。
飲み干したコーヒーはすっかり緩くなって、ぼやけた味がした。
逃げるように家に帰って、部屋の本棚の前に立った。
小さい頃に読んだ絵本に小説、現代文の教科書。手当たり次第に引っ張り出してみる。
挿絵を見ても、文字で書かれた物語を読んですら、それらは色あせて見えた。
正解を。正しく読み取ることを。
頭ではそんなこと望んでないのに、私の目は私の想いに反して「誰か」の求める正解を探そうとする。
冒険の扉が開かない。
私が鍵をなくしちゃったから。
壁にかかった姿見に自分の姿が写っている。トイレを叱るお母さん。めんどくさそうに私を幼稚園まで送り届けたおばあちゃん。大人たちの姿が重なって、視界が潤んで歪んで。
零れた。
予兆はずっとあった。
小さい頃に一番好きだった遊びはお絵かきで、いつも何か物語を喋りながら、浮かんでくるものをつかまえては、白い紙に描きまくっていた。
見るもの、聞くもの、冒険のヒントは生活の中のあちこちにあって、宝石のように散りばめられてピカピカしていた。
だんだんと、そういうものが必要ないと知った。
正しい答えか。上手かどうか。
誰かの決めた正しい答えに忠実であれば、いい成績がもらえるから。
大人になってしまった。
違う。
冒険の世界の存在をすっかり忘れてしまっていたこと、何より、入り口の鍵を気づかないうちに誰かに明け渡してしまった、そんな自分が許せなかった。
許せないけど、もう遅い。
なくした鍵は戻ってこないんだから。
「今度、演劇の公演に出るから見にきて」
ある日、友達に誘われて舞台を見に行った。
正直、期待はしてなかった。私が見たってどうせ分からない。
なのに。
舞台上で、友達は、今まで見たことないくらいにキラキラしていた。
舞台の筋書きは単純だ。
彼女が出演してるのは市民劇。彼女の住む町の、同じ町に住む人々の、なんてことない生活にスポットライトが当たる話。
その中を、ほとばしって、生きていた。
彼女の目に映ったものは、そのフィルターを通してピカピカ光り出し、なんてことない筋書きが冒険に変わる。
そんなにキラキラしないでよ。
苦しくて、息が詰まる。
だって嘘なの。
本当は。
ずっとポケットの中に冒険の鍵を隠してる。
無くしたんじゃない、私が鍵を使うことをやめたんだ。
私は冒険の世界から逃げた臆病者だ。
誰かの正解に縋って、顔色を伺って。安全パイで生きようとした。
私の嘘は露呈した。
私は、自分が思ってるより勇敢でも、強くもなかった。
自分のフィルターを通した世界が誰かに否定されるのが、何より怖かった。
だから自分の目で見ることをやめた。
次に、弱さから逃げ出した。
そうすれば楽になるはずだったのになぁ。
自分についた嘘に気づいたからって、すぐに強さが手に入るわけじゃない。
現に私は今だって、臆病で弱虫だ。
弱虫冒険者の毎日はスリリングである。
小さなことが、嬉しかったり悲しかったり、忙しく、楽しい。
たまに冒険に疲れちゃうこともあるけど。
そんな時は、本を読んだり、絵や芝居を観にいく。
絵や物語、人の手を通して作られたものに描かれているのは「冒険の書」だから。
勇敢な冒険者たちの物語に、私に力を分けてもらいに行くのだ。
《終わり》を打つ前に、一旦最初から読み返した。
こそばゆい。
けど、これが私の冒険の書だ。
***
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