誰かの靴を履いて歩く
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人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
記事:石見由起(ライティング・ゼミ日曜コース)
始まりは病院だった。
「良かったですね。打撲だけだから、気を付ければ歩いても大丈夫」
医者があまりにも愛想よく笑うので、私は不機嫌になっていった。
良かった?
打撲でも十分痛いのに?
私が仕事場で転んで良かったってこと? そういうこと?
だんだん眉間にシワが寄ってくるのがわかる。
年末に差し掛かって忙しくて、来月は大事なプレゼンがあるのに。
転んでいる暇なんかないのに。
明日の打ち合わせはどうしよう? 後輩の平野くんだけで大丈夫かな?
あぁ、なぜもっと気を付けなかったんだろう。あの廊下が滑りやすいのは分かっていたのに。
どうして、どうして、どうして……。
言葉にならない後悔が渦を巻く。
「後悔したって遅いでしょ」
病院に迎えに来た姉は、あっさりと言い放った。起きたことは仕方がないんだから、ぶつぶつ言ってないで帰るわよ。
そう言って、このドライでスパルタな姉は私に古びたサンダルを差し出した。
「誰のサンダル?」
「さあね。看護婦さんがくれたよ。誰のものか分からないから使っていいんだって」
そりゃあ私の足首は腫れていて、自分の靴を履いては帰れない。でも他人の靴を履くなんて嫌だ。はっきり言って履きたくない。
そんな私のしかめ面を歯牙にもかけず、姉は私の両足をサンダルに突っ込んだ。
タクシーに乗り込むために歩き出して、私は新たなショックを受けていた。
……歩けない。
脳は動きを覚えているのに、身体は反応してくれない。
歩幅は半分以下になり、右足は麻痺したようだ。一歩踏み出そうとするたびに足をひきずり、薄っすら汗がにじむ。
おまけに右のサンダルは底がすり減って不安定、左のサンダルは歩くたびに脱げそうになる。
一歩進んでは休み、また一歩進んでは身体を立て直し、呼吸を整える。その繰り返しだ。
家までたどりつけるのかな?
いや、そもそもタクシーまでたどり着けるのか?
その時、私の後ろで「ちっ」という、小さな舌打ちが聞こえた。
息遣いから嫌な感じが漂ってきた。
私は急に怖くなった。
思う間もなく、後ろを歩いていた男性が私を追い越していった。
押しのけられた私はバランスを失い、姉の手にしがみついた。
「ひどい!」
叫んだ姉の声に反応して、その男性はちらっと振り向いたが、そのまま立ち去った。
私は怒りながらも、妙な既視感を覚えていた。
……あの表情。
見たことがある。
威嚇するようなため息。険しい目つき。
その男性の顔には、自分のペースを乱された時のイライラが見て取れた。
タクシーの中でも、彼の表情が頭から離れなかった。
怪我をしたせいで、私はいつもの速さでは歩けなくなっていた。手摺につかまったり、何度も休憩したり。
都会の人込みの中では異質なペースで進んでいた。
だから彼は私を“邪魔者”として認識したのかもしれない。
私も同じ事をしたことがあるんじゃないだろうか?
改札で手間取っている人の後ろに並んだ時や、コンビニのレジに長い行列ができている時。
私も同じ表情をしたことがあるんじゃないだろうか?
自分とは違うやり方で進むひとに対して、私はどんな風に接しているんだろう?
自分の思い通りに進まないことへの不満を、他人にぶつけてはいないだろうか?
私は彼と同類ではないのか?
「誰かを批判したくなったら、その人の靴を履いて1マイル歩け」という諺がある。
その人の立場に立ってみなければ、人の気持ちや価値観は理解できないという意味だと、高校生の時に習った。
あれから何十年か経って、その言葉が現実となって私の前に現れた。
文字通り、誰か知らない人の靴を履いて家に帰る経験が教えてくれたのだ。
怪我をしてから2ヶ月間、私は走ることが出来なかった。
横断歩道で青信号が点滅していてもダッシュはできなかったし、職場の上司と歩調を合わせて歩くことも出来なかった。
階段を見るとガッカリして、無意識にエレベーターを探していた。
何処へ行くにも2倍の時間がかかった。
たくさんの人に事情を説明し、たくさんの人に謝った。
たくさんの人に舌打ちをされ、たくさんの人に迷惑そうな顔をされた。
2か月間、それが私の日常だった。
ゆっくり歩く人もいれば、急いで走る人もいる。駆け出したくても出来ない人もいる。
それぞれに考えや事情があり、それぞれのペースで進んでいるのだ。
自分の速度が標準という訳ではないし、一定のスピードで進み続ける必要もない。
違うペースで進む人に出会ったら、すれ違う一瞬、速度を合わせれば良いだけだ。
そんな当たり前の事に、普段はなかなか気づかないでいる。
***
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