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潮騒の香りとともに


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記事:黒崎良英(リーディグ倶楽部)
 
 
その本を再び開くことがためらわれる。
 
別に不快になるわけではない。恐怖に苛まれるわけでもない。
 
しかし、とても不安なのだ。私が、当時と同じ感性で、「ちゃんと」に感動できるか、分からないのだから。
 
小学校の頃、本の販売がなかっただろうか。
今でもそういうシステムがあるのか分からない。
何冊かの児童書のラインナップと、注文をするための封筒が担任の先生から渡され、欲しい本があれば購入するというものだ。手元にある本には「少年少女こころの図書館」というシリーズ名が書いてある。
 
幸い、漫画以外の本や文房具には、私の両親はお金を出してくれて、それをいいことにほぼ毎回買っていた。
 
当時の私は好きなジャンルというものがなく、何でも読んでいた。ファンタジーに歴史物、伝記にエッセイ。推理小説はお気に入りだったが、もちろんそのジャンルだけに止まらなかった。やはり児童書中心ではありはしたが。
 
ただ、全体の傾向として不思議な話が好きだった。これは大人になった今でも変わらない。
だから、その不思議なタイトルに惹かれたのだと思う。
 
『レストラン・サンセットの予約席』
 
淡い彩の中で、少年と少女の影だけが黒く存在する、そんな表紙も魅力的だった。
 
作者は児童文学作家の杉みき子さん。
小学校低学年の国語の教科書に、「わらぐつの中の神様」という話がなかっただろうか。何とその作者である。
 
子どもの頃の私は、当然知らず、また深く考えもなしに、買ってもらった本を読むことにした。
 
これがすごかった。ものすごかった。
読み終えた途端脱力した。そう、身体に物理的な影響を与えたのである。
「すごい」とか「ものすごい」という語彙力のない言い方では、文字通り語弊がある。
 
とにかく爽やかなのである。爽やかすぎるのである。
 
海辺の町の少年、沖人(おきと)と不思議な少女ベニ。
二人が巡る非日常な日常。
人と自然と、それから少しだけの神様みたいなものと、そんな当たり前のように存在するものが特別な風景に描かれるのだ。
 
まぼろしトンネル、顔のないお地蔵さん、流木おじさんに夜の水族館、そして11本のポプラの道……
 
透き通った色彩で、海辺の不思議な物語が紡がれる。
私たちは、そんな二人の不思議な物語を追っていく。同時に体験していく。
その体験が、えも言われぬ心地よさなのだ。
 
海風や波音が聞こえてきそうな世界。
自分もその中に没入してしまう世界。
新潟県の上越が舞台だという、その現実と地続きの世界で、私はとても爽やかな夢を見ることができた。
 
とにかく美しい物語だ。そしてこの美しさは、少年少女の純粋さから来るものが大きいと思った。
海という大自然の純粋さによるものもある。
素朴な日常の風景の純粋さによるものもある。
 
だが、この物語の純粋さは、主人公二人の純粋さと、何より読者の純粋さにあるものだと考えていた。
 
そう、これはあくまでも児童書である。
対象読者は、小学生から中学生くらいか。
そんな感受性が豊かすぎる年代の子どもたちが読めば、それは相乗効果となって、この物語の純粋さを高めていく。
 
私はあれ以来、日差しが陰った初夏の自室で脱力して以来、この本を手放さないでいる。
かれこれ20年以上になる。この本は私の半生とともにあった。
滅多なことでは開かない。いや、そういえば開いた時があっただろうか。
一人暮らしをするときにも、実は手元に持っていた。それでも開かなかった。
あの時の感動が、もう、消えてしまったのではないかと思ったから、かもしれない。
 
少年少女の時の、あの美しい日々を、純粋な結晶として封をしているかのようだった。実際そうなのだろう。
 
言い方によっては、「怖い」のかもしれない。
もう、あの時ほど感性を震わせないのではないか。
美しいものを、20年以上積み上げてきた「常識」で、霞ませてしまうのではないか。
あの時の感動を、とても幼稚なものにしてしまうのではないか。
そして、自分は感動もできないろくでなしになっているのではないか。
 
恐怖といえば言い過ぎだが、しかし、そんな不安が私に迫る。
それほどに、この物語は汚されるべきではないと確信しているのだ。
 
しかし、これもまあ、ある意味案の定なのだろうが、そんな不安は杞憂にすぎなかった。
 
20年以上閉じていたその物語は、時を経てもなお、美しかった。
正確にいえば、かつての感動とは、また違う種類の感情なのであろう。純粋とは程遠い所にある身ゆえ。
 
だが、それでも美しかった。爽やかだった。
少年少女の不思議な物語が私の心の深いところを、かつての少年だった頃の私を、今一度誘い出してくれた。
 
そうだ、この物語は、美しく、爽やかである以前に、とても優しい物語だった。
だから手放せなかった。
 
私は山に囲まれた地域で生まれ、海とは縁遠い土地で生きてきた。
だが、私の今までの人生は、この海辺の物語とともにあった。
美しく優しい、潮騒の香りとともに。
 
 
 
 
***
 
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2020-06-05 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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