木を抱きしめ、モモと共にいる
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人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
記事:川村 紀子(スピードライティング特講)
バンクーバーの市街地からそう遠くない森でフィールドワークをしていた時、
同行していたスタッフの一人が近くの木を見上げながら、ぼそっと言った。
「木も話しているんだよ」
白髪混じりのひげで顔の半分が隠れ、ヤギのようなおとなしい雰囲気の彼は、
いつのまにか森に溶け込んで一体化しているようにみえる人だった。
「え?」
驚いた表情で声をあげると、目が合った彼は目をくりくりっと動かした。
あれ、冗談かな?
「木が話すって、どういうこと?」
「人の意図や感情に木は電気的反応しているという実験結果があるんだ」
真面目な顔をして彼は答えた。
「アメリカのある科学者が葉をナイフで切るというイメージをしたら
木に取り付けた測定機器の針が大きく触れたんだ。
木は感じ、木は話している、と思うとワクワクしないかい?」
私たちがいたのは、樹齢数百年や千年を超える巨木の樹々がそこここにある森だった。
「木は感じ、話している」と仮定して耳を澄ましてみた。
前日にたっぷり降った雨のおかげで木々や土の香りが匂い立ってはいた。
でも、何も聞こえてはこなかった。
「わたしには聞こえないみたい」
一緒にいた人たちも同じ感想。
「抱きついてみたら、どうだろう」
誰かが言った。
近くにあった樹齢400年くらいだという木に近づき、
「こんにちは」と言いながら、おそるおそる触った。
ごつごつにみえた木肌は触ると雨の水分を含んでしっとりしていた。
ひんやりした感触と同時にあたたかみも伝わってきた。
幹の直径が数人で両手を広げて囲めるくらいに太いその木に抱きついてみた。
枝葉や幹の表面を触ったことはあるけれど、抱きついたのは初めて。
木の圧倒的な存在感が肌に伝わってきた。
400年以上、大地から栄養を吸収し、太陽の光を得て、風雨を受け、
その体内に蓄積してきた地球と宇宙のエネルギーがもたらすものなのか。
400年間の長さの時間と一瞬にしてつながったような、タイムトラベルしたような感覚があった。
悠久の時を過ごしてきた存在の前では自分は取るに足らない小さな存在に思えた。
気丈にふるまう必要はなく、ありのまま安心しきって木に身体をゆだね、エネルギーを受け取った。
まるで赤ちゃんが母乳を吸うように。
木肌にぴたっと耳をあて、目を閉じて耳を澄ませると、
サァーサァーサァ
樹液が流れている音が聞こえてくるような気がした。
貝殻に耳を当てると、海の音が聞こえる気がするのと同じように
自分の身体の体液が動く音が聞こえていただけなのかもしれないけれど、
木の音であっても、私の音であっても
今、この瞬間、この時代の、この場所に、
木も、わたしも、確かに生きている、という感覚を味わった。
それ以来、わたしは時々、木に抱きついてきた。
落ち込んだ時、悲しい時、疲れた時、苦しい時も、言葉にしなくても、木が聴いてくれたような気がした。
木の中に巡る大地や太陽、時間のエネルギーがゆっくりゆっくり心身にしみこんできた。
やがて社会人になり、わたしは仕事漬けになっていった。
日付が変わるまで残業し、徐々に週末にも出勤するようになり、
木に抱きつく機会は減り、やがて皆無になった。
「木に抱きつくとしあわせ」
先日、友人が主催する読書会で初めて会った人がそういった時、しばらく言葉を失った。
うれしすぎて!
そして、ちょっと恥ずかしくて。
子どもを持ち、仕事の仕方を変えるようになってからは、お気に入りの木に時折会いに行くようになってたけど
わたしもーというほどに抱きついてなかったから。
読書会のテーマは、友人とその人が愛してやまないミヒャエル・エンデの『モモ』だった。
時間どろぼうに盗られた時間を取り返したモモという女の子のお話。
『モモ』は私にとっても心の中に大事にしまってある宝物のような存在。
小泉今日子が新聞のインタビュー記事で絶賛していて出会い、何度も読み返した本だ。
本を読み終えると不思議とモモに話を聴いてもらったような安らかな気持ちになった。
仕事漬けになってから木に会えなくなったように、『モモ』を読み返すこともなくなっていた。
時間節約をよしとし、短い時間でいかに成果を出すかという効率重視の発想がしみついた私は、
本棚に並ぶ『モモ』の背表紙が目に入るだけで、即席で満ちた気がした。
あの世界観が即席でわかるはずがないのに。
私は、時間どろぼうの灰色の男たちに時間をすっかり奪われていた。
いつもせかせかし、浅く生きていた。
本は『時間を盗まれていない?大事なことを忘れていない?』と静かに問いかけてきた。
「うんうん、大丈夫、大丈夫。時間ができたら、またゆっくり読むね」
そう思いながら、十数年たっても読み返すことはなかった。
木に抱きつくこと、『モモ』を読むことがもたらす豊かな時間。
心の奥底にしまいこんでいた大切なこの二つの体験を、この読書会の日に同時に思い出した。
それは、数か月のコロナ禍の自粛生活明けだったからかもしれない。
世界中でコロナウィルスによる死者が爆発的に増え、不安な気持ちでいっぱいだった時、
ふと、季節は変わらず巡っていることに気づいた。
桜が咲き、そして、散り、やがて青葉が生い茂った。
ハナミズキが花盛りとなり、ツツジが咲き誇り、梅の実がなった。
人間たちの活動は世界中でストップしたのに、自然界はなにごともなく、
春の季節が移ろい、少しずつ、夏の気配を感じるようになっていた。
コロナ禍で生活も世界のなにもかも一変してしまった気がしたが、
地球は太陽のまわりを回り、季節は巡り、変わらないことが数多あることに気づいた。
自粛中の日々の短い散歩の折に、道端や近所の庭の植物たちが生きる時を刻むのを見る時、
わたしもこの変わらない自然界の一部であると感じられ、安堵した。
木を抱きしめ、モモと共にいる
それは、予測困難な変化の激しい社会の流れの中で、
自分のペースで時を刻む感覚を呼び覚ますために必要な体験なのかもしれない。
もしもあなたが、ちょっと気になる木を見つけたら、
だまされたと思って、抱きついてみることをおススメしたい。
もしかしたら、自分の気持ちや友達の話にゆったりと耳を傾けられるくらい英気を養えるかもしれないから。
***
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