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幸せの箱を開けたのは、動かない左手だった


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記事:東方小百合(とうぼう さゆり)(ライティング・ゼミ日曜コース)
 
 
「火事ですか? 救急ですか?」
「えっ? 間違えちゃった?」と一瞬、動揺した。
 
まったく違う状況だけど、どちらも消防署だった。
火事? 救急? 冷静さと共に自分に言い聞かせた。
 
「あっ、救急です」
 
2012年5月、8年前の水曜日の出来事だ。
 
母から、様子がおかしいので、連絡してみてと、私に電話が来たのだ。
心配性な母のことだから、大したことないと決めつけていたが、何か勘が働いたのか、胸騒ぎがしたのか、すぐに電話をかけた。
 
「もしもし、どうしたの? 体調、悪いの?」
 
「もひもひ、だいどーぶー」
 
ろれつが回ってない。ただ事でない。
 
電話の相手は、45歳、従姉妹のM美だ。
ひとり暮らしのM美が、この状態になって、3日目を迎えていた。
 
どうしよう? どうしよう?
1番にすることは、何なのか? 優先順位がわらかない。
かなり動揺していたのだろう。
 
「救急車呼ぶよ」とだけ言って、電話を切った。
しかし、M美の状況は分からない、自宅の住所も分からない。
 
「救急です」と言った後、
急病人は、鍵がかかった家に独りだということ。
住所は、Googleマップで、調べて、伝えた。
幸いにも1階のクリニックの名前を私が覚えていたのだ。
 
とりあえず、無事、救急車が従姉妹宅に到着したようだ。
救急隊員は、3階の窓から入り、M美の元へ行ってくれた。
 
搬送先の病院の連絡を受けて、すぐに私も向かった。
従姉妹は、救急救命センターで、処置中だった。
 
受付の方が、手にしている紙を見て、何が起きてるのか? を確信した。
血圧が、200超えている。
 
しばらくすると、面会が許される。
M美は、朦朧とする中、ろれつが回らないのに、何か言っている。
麻痺した口からは、よだれが流れてる。
 
私は、小さな声で「もう、大丈夫だから」と喋るのを止めた。
その大丈夫だからは、とても自信なさげだったと思う。
だって、全然大丈夫そうでなかったのである。
 
命に別状は、ないと主治医から聞いていたが、これからどうなるのか? 想像もつかなかった。
 
それから、脳血管疾患の集中治療室SCUで、何週間か過ごす。
この時を思い出しただけで、心がざわざわする。
自分では、何もできない状態だ。
脳の血管が一本、ほんの細い血管が一本切れただけで、人は、こんな状態になってしまうのか? と、恐怖しかなかった。
あれから、8年経つが、M美は、左半身不随の身障者である。
転院後、リハビリを一生懸命やったのだろう。
ゆっくりであるが、杖なしで、歩くことが出来る。
しかし、左手は、まったく動かない。まったくだ。
 
それでも、今のM美は、独り暮らしをしている。
身支度、洗面、お風呂、トイレ、食事、買い物、掃除、料理、雨の日の移動、満員電車、関東では、左側に立つとされているエスカレーターなど、私が想像するだけでも、これだけある。
 
これをすべて、自力でやるのだ。時間も倍以上かかるだろう。
それは、私が想像する以上に、大変なことばかりである。
 
私は、この8年間、ずっとM美を見てきたが、彼女が辛いと言って、泣いたのは、たった1回きりだった。
それは、リハビリ病院にいる頃だ。「死にたい」を口にしたのだ。
生きていても意味がないと、彼女は訴えた。
この時、彼女は、初めて、自分に起きていることを俯瞰してみれたのかも知れない。
私は、その時の彼女の一筋の涙を忘れない。強い女性だ。
それからの彼女は、自分の運命を受け入れたようだった。
 
生きることに一生懸命な彼女を見ていて、思うのである。
誰もが、どんな状況でも、楽しく過ごし、幸せを感じることが出来るのだ。
M美から教わったことのひとつである。
左半身不随でも、楽しむことを忘れないのだ。
 
以前の私は、幸せを外に求めていた。
誰かや何かで、満たすことによって、幸せは、感じられるものだと思っていた。
 
もしかしたら、人と比較して、あの人より、辛くないから、頑張れる。頑張らなくては、ならないと自分に言い聞かせていたのかも知れない。
なんて、不幸なことなんだろう。今なら分かる。
人と比較して、何になるのだろう?
 
M美は、動かない左手を誰かと比較することは、決してしない。
 
幸せは、自分の中にあるのである。
彼女の幸せは、M美の中にある。
 
ないものでなく、あるものに目を向けると、たくさんの幸せに気づくのだ。
 
だから、自分で見つけ、感じて、それを心から幸せだと味わうことが、人生の楽しさなのかも知れない。
そうして、自分を満たすことによって、人の優しさに、人との出会いに感謝が、出来るのでは、ないだろうか?
 
人生を箱に例えるなら……。
 
M美もきっと、これからの人生、小さな幸せをたくさん見つけ、箱に入れていくだろう。動かない左手で、時間がかかるかも知れない。それでも、彼女は、自分なりに楽しむことを忘れないだろう。
 
私も人と比較することなく、自分にとっての小さな幸せを見つけ、箱に入れていこう。幸せでいっぱいの箱にしたよと彼女に伝えたい。
 
 
 
 
***

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2020-08-07 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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