何も足せない、何も引けないラブレター《週刊READING LIFE vol,107 「『I love you』を訳してください」
記事:山田THX将治(天狼院ライターズ倶楽部 READING LIFE公認ライター)
『ア・ナ・タ』
これは、世界一短いラブレターとして有名な電報だ。
今から60年以上前の1956(昭和31)年11月8日、折からの霧の中、日本初の南極観測隊が東京晴海ふ頭を出発した。晴海ふ頭は、来年に延期されたオリンピック東京大会の選手村が建てられた地だ。まさに、隔世のことと言えよう。
その時、南極に派遣されたのは砕氷船『宗谷丸』。1938年に建造された老朽船だった。その全長は80m余り、速力は12ノット(約22km)。現役の砕氷艦『しらせ』のそれは、約140mと19.5ノット(約36km)。その差がお分かり頂けるだろう。
まだ、戦後が色濃く残る日本には、そんな船しか南極へ差し向けることが出来なかった。帰って来られるとは限らない任務だったからだ。
南極観測隊、特に南極で厳しい冬(日本とは気候が逆)を越そうとする越冬隊は、初めての使命だったので、余計に帰って来られる保証は無かった。
通信設備だって、現代の様な宇宙衛星を使う時代ではない。よって、電話や無線での直接通話は不可能だった。手紙だって、行き着くのがやっとの南極なので、年に数回、天候が良い時にヘリコプターで運ぶのがやっとだった。
そんな時、短時間ならという制限付きで無電での電報が可能となった。無電での電報は、モールス信号を使った交信だ。
家族との交流を待ちわびた、越冬隊員と国内に残された家族は、我先にと無電での電報を送ったという。ただし、モールス信号を使っての交信は公的手段だったので、私的な電報は“極・短く”と制限が加えられていた。
それでも、命の保証がない任務に就いていた隊員とその家族は、短い一文に思いの丈(たけ)を込めて交信したという。
その中に、元軍人の隊員が居た。戦争に従軍したということは、多分、大正末期の生まれで、年齢は30代後半だったと推測される。連れ合いの奥さんだって、せいぜい30代の前半、御子さんだってまだ幼かったことだろう。
また、仕事に対し妻に口出しさせないのが‘昭和の男’だったので、南極での越冬隊参加も、相談無しに決断したものと容易に推測されるのだ。
南極の昭和基地にも新年が訪れた。夏ではあるが、極寒の地で観測を続ける越冬隊員達には、年賀状ならぬ短文の年賀電報が次々に届いてきた。
件(くだん)の隊員にも、奥さんから短い短い年賀電報が届いた。それが、文頭に記した、
『ア・ナ・タ』
だ。
この、たった三文字のラブレターには、現代人から見ると古代人にも思える戦前の方々の、“情”が込められていると感じる。現代の我々と変わらぬ、人間の真の“情”だ。そこには、いつの時代でも変わらぬ、夫婦の心の交流が在る。男女の交流といってもいい。
しかも、普段の日常で呼び掛けている言葉を使っている辺りに、二人の世界が展開されているとも考えられる。
そしてこれは、“愛”より深い相手に対する“思い遣り”と言えよう。
何故なら、夫の安否を気遣いつつも、生還を信じての呼び掛けに他ならないからだ。
特に以前、出征を見送った奥さんにとっては、命の保証がない任務は今回が初めてでは無い筈。今回は、夫に届くことが保証されている電報なので、短くとも深い思いを込めての電報だったのであろう。そこには、生存を信じ生還を切に願う、待つ者ならではの思いが切ない程込められていると感じる。
その上、以前は一般化していた出征の時とは違い、特攻隊での出撃に近いものが有ったと思われる。何故なら、日本初の南極越冬という任務は、未知の任務であることから、“命を捨てても”の切迫感は無いものの“命を顧(かえり)みず”の覚悟が必要だったと思えるからだ。
また、名前では無く単に名詞で呼びかけた辺りに、必ず自分の連れ合いが受け取ってくれるとの安堵感が出ている。
この辺りが、たった三文字のラブレターを一躍有名足らしめた所以(ゆえん)なのだろう。
そしてそこには、
「貴方にだけ解る言葉で呼び掛けますから、返事だけでもして下さい。応えて下さい」
との思いも、深く込められている様に感じられてならない。
電報は勿論、電話すらもほとんど使われなくなった現代。
男女のコミュニケーションは、より直接感の有るLINEやメッセージが殆どだ。メールでも、敬遠される傾向が在る。それは多分、着信確認が難しいからだろう。
ところが、ツールがより便利になったことにより、新たな問題が生じ始めたと聞く。それは、メッセージを開かないとか、LINEの‘既読’が付くのに返信が来ない“既読スルー”とかの問題だ。
要するに、自分のアクションに返答が無いと不安になるだけのことだ。それ程までに、相手の反応を気にするということは、返信ありきでメッセージをしていることに他ならない。なので、返信が無いと不安に為ったり、“既読スルー”されると不審に思ったりする訳だ。
現代のツールが、便利なる故(ゆえ)の弊害と言えよう。
その点、相手に届くかどうかで不安となる手紙や電報は、或る意味ラブレター本来の姿なのかもしれない。
そしてそこに在る本心は、シンプルに自分のアクションに僅かでも反応を示して欲しいことを示している。しかも、デジタル機器で打ち込むメッセージと違って、一字一字熟考しながら書くので、シンプルにもなるしストレートにもなる。
何も足せない、何も引けない、心の純粋なエキスの様な言葉が残る。
そこには、返信すらも必要としない、簡素な美しさも在る。
『ア・ナ・タ』
という、たった三文字のシンプルなラブレターも、これに何を足すかと問われれば、答えに窮(きょう)することだろう。無論、三文字しか無いので引くこと等、元々出来ない相談でもある。
ただ、そこに込められた本心にはきっと、現代と同じ反応を求めるものが在る筈だ。それが、人間の“情”というものだろう。
そしてそれこそが、古今東西、変わらぬ‘愛情’というものなのではないだろうか。
そこから私が導き出した解釈に於いては、
『I love you』
を和訳すると、
『(呼び掛けますので)応えて下さい』
という、切ないものになる。
これは決して、‘切実’な言葉ではない。
一人の人間が、連れ合いの命という掛け替えの無いものを目の前にした時、必然的に出て来るものとして感じるのだ。
ところで、大切な奥さんから、
『ア・ナ・タ』
という、ラブレターを受け取った南極越冬隊員は、何と応えたのだろう。
私は、
『解っているよ』
だと思っている。
従って、
『I love you』
に対する返信は、これまた短く、
『I know』
で良いのではないかと思う。
これなら、何も足す必要が無いし、何も引き様が無いだろうから。
□ライターズプロフィール
山田THX将治( 山田 将治 (Shoji Thx Yamada))
天狼院ライターズ倶楽部所属 READING LIFE公認ライター
1959年、東京生まれ東京育ち 食品会社代表取締役
幼少の頃からの映画狂 現在までの映画観賞本数15,000余
映画解説者・淀川長治師が創設した「東京映画友の会」の事務局を40年にわたり務め続けている 自称、淀川最後の直弟子 『映画感想芸人』を名乗る
これまで、雑誌やTVに映画紹介記事を寄稿
ミドルネーム「THX」は、ジョージ・ルーカス(『スター・ウォーズ』)監督の処女作『THX-1138』からきている
本格的ライティングは、天狼院に通いだしてから学ぶ いわば、「50の手習い」
映画の他に、海外スポーツ・車・ファッションに一家言あり
現在、Web READING LIFEで、前回の東京オリンピックを伝えて好評を頂いている『2020に伝えたい1964』を連載中
加えて同Webに、本業である麺と小麦に関する薀蓄(うんちく)を落語仕立てにした『こな落語』を連載する
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