「わたしすっぴんがヤバくて」と自己紹介する女子をチョップしてよいか問題
記事:横手 モレル(ライティング・ゼミ)
※おことわり※
今回のポストは女性の容姿にかかわるマイナスな表現が多く出てきますので、あらかじめご注意ください。
ちょっと前、すっぴん自撮り写真とばっちりメイクの落差で笑いを取る芸、というものがネットの落書きからプロ御用達のアメーバブログ、さらにはおしゃれの代名詞的SNSフォトアプリ=インスタグラムで持てはやされて、ついにはテレビでもことごとく取り上げられてきた来歴をご記憶の方も多いかと思う。
あれは構造的には単純で、
(1) 「ばっちりメイク=いつもの綺麗」 → 「すっぴん=超ブサイクまじかよ……」
(2) 「ばっちりメイク=いつものブサイク」 → 「すっぴん=メイクより綺麗かも!」
(3) 「ばっちりメイク=いつもの綺麗」 → 「すっぴん=ノーメイクで綺麗とかズルかよ……」
という、大まかに3つの矢印で示される結果に爆笑ないし拍手喝采を集めることで成り立つ芸である。ちなみに算数で呼ぶところの組み合わせでゆけば当然(4)ブサイク→ブサイク、という項もあるべきなのだが、これは芸能人および制作者と視聴者のどちらにとってもメリットの薄いことが火を見るより明らかなため、あまり取り上げられることもないのは算数的にも残念なことである。
芸能人の素顔とは「公然の秘密」である。秘密は「見たい」。見たい、は「ありのままの欲」である。しかし、ありのままの欲は「恥ずかしい」。
この「恥ずかしい」という気持ちの理由を思うとき、わたしは激怒(げきおこ)の母を想起する。それははるか昔、幼いころ、落ちた饅頭を拾い食いしようとしたわたしに対して、激怒した母が吐き捨てた「みっともない」というセリフである。このシチュエーションに現れる、「みっともない」という言葉自体の含んだ「キャラクターを取り繕おうとする器の小ささ」、そこに付随する情けなさ、かっこ悪さ……それらこそが「恥ずかしい」という感覚のなかでも一番胸をえぐるリアルだったのではないか、とわたしの場合は思うのである。
母的な存在に対する「思いだし怒り」に震えつつ、話をもとに戻していこう。知恵の実をかじったアダムとイブは、究極のありのまま状態(=全裸)に羞恥を覚えたし、その後のアダムとイブたる男女たちは、欲に節度を設けることで生存戦略をはかってきた。宗教的、法的、軍事的な縛りを駆使するのもむろんのこと、「欲のだだ漏れはダサい」という美意識の縛りまでをも発明してきた。
結果、見えすぎてもつまらないけれど、秘密にされると見たくなる、そんなむっつり助平が超大量に醸成されて、いまそれぞれの屋根の下でテレビのスイッチを押しているのではないかと思うのである。超大量のむっつり助平が芸能人の素顔をあばこうとしているのではないかと思うのである。
しかしたとえむっつりといえども超大量となればマジョリティなわけだから、日陰者と指差される回数こそ少ないだろう。堂々と胸を張って、むっつりしていけるだろう。
そこで話を「わたし」レベルに戻していこう。
芸能人にとっては「作りこんでいない無防備な自分」のほうが希少であるから、思ったよりかわいいなとかひどいブサイクだななどの「落差芸」を売ることができるわけだけれども、わたしは一般人がそれを真似することでダダ滑りしてしまうことを警告したい。特に一般ピーポーのそうたる存在を自認するわたしなど、すっぴん写真が「面白味のない程度にブサイク」なことを自覚しているので、そもそも「落差芸」を起こすことができないのである。一般ピーポーが芸能人と同じことをしようとすると、期待した笑いは簡単に起こせず、たとえば「ただひたすらに押し黙ったメンツの前にうすら寒いスケキヨの写真だけがペラリと舞う」といった回収不能なムード作りに成功するだけなのである。
はっきり言おう。一般ピーポーにとっての面白味は、自撮り画像における「すっぴんのひどさ」というレイヤーには存在しない。一般ピーポーのありのままには「落差(芸)」が薄いから、憧れや蔑みといった、刺激的な感情を起こすきっかけとはなりがたい。
かつてアナ雪で歌われた『ありのままで』が胸を打ったのは、そもそも歌い手が庶民ではなく姫という、あらかじめキャラクターの立った存在だったからではないだろうか、と憎まれ口も叩きたくなる(庶民根性きわまれりである)。
だからもしも一般ピーポーの歌う『ありのままで』があるのだとすれば、それはチューニングの合わないラジオの帯域でザーと鳴るノイズのような、ぼんやりとしたものになるのではないかと思う。それもまた一方ではスナックで歌われる波止場ブルース的に味わいのあるものであり、わたし個人は好きなのだけれど。
また脱線してしまった。結論を言う。あえて一般ピーポー(のわたし)の中から際立つレイヤーを探すのであれば、確実にこれだと言えるのはむしろ、「ばっちりメイクをゲラゲラ笑われること」に対する恐怖である。
ある程度年齢を積んだ一般ピーポーにとってのメイクとは、世界と戦うための武器であり、名刺である。
「男には敷居をまたげば7人の敵がいる」という、ちょっとダンディなことわざをご存知だろうか。今日ではジェンダーなど関係なくそこそこの年齢であれば、外出したとたんに「敵だらけ」を自覚する方も多いと思う。一般ピーポーはだから、メイクをする。蔑まれたくなくて、少しでも底上げしたくて、値段を吊り上げたくて、自分のベストエフォートも目指して、日がなペタペタと塗るのである。一般ピーポーにとってのメイクとは、資本主義社会において自分につける値札である。
「これ以上いじりようもない素顔なのよ」と、責められても開き直れる強さのある女性がいるとしよう。この場合、彼女の弱点は、素顔ではなくメイクである。だから、(本当にどなたにも言って欲しくないのだけれど、胸を痛めながら非情な表現を書いてしまうと、)「化粧……ダサいね」の一言が、彼女の値札を破いてしまう。一般ピーポーはかくももろい。
逆の例を出そう。もしもあなたの周りに「わたしすっぴんがヤバくて」と自己紹介する女子がいるとしたら、彼女はすでに自分のことを一般ピーポーより《高めの女》と規定していることも警告したい。なぜなら彼女は「すっぴん『が』ヤバい」という表現の中に、「メイク『は』綺麗なのに」という無言のプライドを抱えているからだ。
女の階層というものは「名乗り」で決まる側面もあるので、先にそんなことを言われてしまったとしたら、こちらとしてもハンカチを噛むしかないだろう。それでも戦いたくなったとしたら? 鼻っ面をめがけてチョップしよう。フィジカルでいこう。
と、暴力なんかで解決できないのが、現代の日本の東京を生きるわたしである。
漫才師だったら相方の胸をどつけるけれど、一般ピーポーの女は女を「チョップできない」。わたしはこのジレンマに由来する面倒をちょっと驚かれるほど見てきた。だからこそわたしは自戒をこめて、そしていくばくかの優しさをこめて思う。
「人のメイクを笑うな」と思うのである。わたしたちは人の努力を笑わないことを肝に銘じ、「メイクする」ことに胸を張って、自分の名刺に磨きをかけて、勝負の世界をさっそうと戦っていくべきだと思う。チョップしようとした腕を降ろして、名刺の顔に微笑みを乗せよう。その気持ちを抱いてこそ、新しい戦いと未来を始められることを知っているのだから。
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