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半世紀後に証明出来たこと


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人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

記事:山田THX将治(ライティング・ゼミ「超」通信コース)
 
 
「マッタク! 昔のことだから解らないと思って、山田さん、いい加減なこと言わないでよ」
歳を重ねるごとに、よく言われる様に為ったセリフだ。勿論、若い人から見ると、知る由もない昔のことはそう感じることだろう。
当の私は、見聞きしてきたことを話しているだけなので、心外では有るものの、上手く伝え表現出来ていない自分が恥ずかしい次第なのだ。
 
世の中では、
『同じホラを100回吹いていれば、いつが現実に替わることがある』
と、言われている。
私の場合、ホラではなく事実を話しているのだが、なかなか認定してもらえない。信じてもらえない。
 
そればかりか、
『「ウソだ」と1000回言われ続けると、いつしか自分でも疑わしく為る』
と、真反対な心理状態に為ってしまう。
これは如何なものだろうか。
自分の記憶を疑うにしても、程があるというものだ。
 
私の記憶・体験の中で、信じて頂けないものの代表が、
『小学生の時に、力石徹の葬儀に行った』
と、いうものだ。
 
それはそうだろう、彼は実際の人物ではなく漫画の登場人物なのだ。
 
力石徹とは、高森朝雄(梶原一騎のこと 1936—1987)原作・ちばてつや(1939—)作画のボクシング漫画『あしたのジョー』で、主人公・矢吹丈の少年院時代からのライバルとして登場する人物だ。ジョーよりかなり大柄な体格のボクサーだ。
二人の雌雄を決する為に、力石は本来のウエルター級(約67kg)から、6階級も下のジョーの階級であるバンタム級(約54kg)に減量を試みる。
ボクシングを余り御存知無い方の為に補足すると、ボクシングの一階級は、武道の一段位程の差が出るものだ。また、その為にボクサーの減量は、過酷さを極めるのだ。極限まで体重を絞り、スタミナ・持久力と引き換えに究極のスピードと瞬発力を求めるのだ。
従って、現実にはウエルター級の選手が、減量してバンタム級で試合をすること等在り得ない。何故なら、普通の67kgが54kgに減量する訳では無いからだ。極限まで絞り込んだボクサーは、一階級下げるだけでも命に関わってしまう程なのだ。
 
ただ、ここは漫画の世界だ。
力石徹は、鬼神の意志で13kg以上の減量に臨み成功する。そして、ジョーのウエイトでグローブを交えることと為った。
矢吹丈 対 力石徹の世紀の一戦は、両者バンタム級で行われた。リングに現れた力石は、限界を超えた減量の為、既に幽霊のような姿だった。
壮絶なダウンの応酬と為ったジョーと力石の一戦は、力石のKO勝ちで決着をみた。
 
ところがだ、控室に戻った力石徹は、急に意識を失ってしまう。
そしてそのまま、意識が戻ることなく息を引き取る。原因は、ジョーが放った渾身のクロスカウンターが、急所のテンプル(こめかみ)に命中しダウンしたからだ。
加えてダウンした際に、リングに後頭部を打ち付けてしまったことも一因と言われている。
 
力石徹は、矢吹丈と戦う為に無理な減量をし、それが原因で試合後に死亡したと思われている節がある。しかし、これは伝説だ。事実は、ジョーから受けたパンチの当たり所が悪く、力石徹は死んだのだ。
少しだけ玄人風に書くと、力石はディフェンスを無視しないと、階級が軽いジョーのスピードに対抗出来ないと判断したのだ。
そう、力石徹は、命と引き換えにジョーとの試合に勝利したのだ。
勿論、無理な減量も影響しただろう。しかし、減量が原因で亡くなったとは、原作では描かれていない。
ただ、ジョーと戦う為に無理な減量をし、力石徹は死亡したとする方が劇的で、原作者の高森朝雄氏も亡くなったことから、伝説だけが独り歩きを始めたのだ。
 
この、単なる少年漫画の登場人物の死だが、この後、大掛かりな葬儀が行われることと為る。
『あしたのジョー』の愛読者の一人に、当時、新進気鋭の劇作家だった寺山修司(1935—1948)が居た。力石の死に衝撃を受けた寺山は、自らの発案で一漫画のキャラクター、それも主人公のライバルの葬儀を企画した。
場所は、『あしたのジョー』が連載されていた“少年マガジン”の出版元である講談社の講堂だった。葬儀の装置は、寺山氏が主宰していた劇団・天井桟敷のスタッフが用意した。プロだけにお手の物だった。
 
私が何故ここまで、力石徹の葬儀を覚えているのかというと、簡単な理由からだ。
その理由とは、私は実際に力石の葬儀に列席していたからだ。
 
当時は未だ、子供が漫画を読むことは悪いこととされていた時代だった。御多分に漏れず私に両親も、漫画を読むことは許してくれなかった。
そこで私は、厳選した漫画を本屋の店頭で、学校帰りに立ち読みすることにした。漫画を買う御金は貰えなかったし、仮に小遣いで買えたとしても持ち帰ることは不可能だったからだ。
コンビニエンスストアが無かった時代、漫画雑誌は書店と駅の売店(キヨスク)で販売されていた。駅で立ち読みは無理だったので、当時小学生だった私は、街中の書店に向かったものだ。
少年雑誌は大概、店頭というか店の外に並べられており、本屋のおじさんになかなか見付からない利点が有った。それでも、あまり長い時間立ち読みをするのは、子供ながらに心苦しかった。その上、毎日のように本屋へ立ち読みの為に行くのも危険と感じられた。
そこで私は、毎週一本だけ漫画を立ち読みすることにした。いくつかの候補が残されたが、スポーツ好きだったので最後に残ったのは『巨人の星』と『あしたのジョー』だった。
結局私は、『巨人の星』の、今で言うところの“パワハラ”“モラハラ”が気に入らず、『あしたのジョー』を毎週の立ち読みにセレクトした。またそこには、主人公の矢吹丈が、裕福では無い出身でありながら、ボクシングで存在感を世に示そうとする姿があったからだ。そんなところが、東京・下町の貧しい地域で暮らしていた小学生には、共感出来るところが多かったのだろう。
しかも当時は、現代以上にボクシングに人気が有り、注目されていた時代でもあったのだ。
 
少年マガジン誌上で力石徹が亡くなったのは、1970年2月の最終週号だった。
二週間後、『あしたのジョー』の巻末に、小さな告知が載った。力石徹の葬儀が行われるとの報だった。
私は、行きたくて行きたくて仕方が無くなった。しかし、どうやったら力石の葬式に行くことが出来るのか、皆目見当が付かなかった。何しろ、ネットで物事を調べるなんて出来ない時代だったからだ。
そこで私は、漫画に唯一人、理解がある大人を思い出した。当時通っていた、塾のお姉さん(塾長の娘)だった。お姉さんは当時、東京教育大(現・筑波大)に通っていて、私達の勉強をよく見てくれたりしていた。
お姉さんの口癖は、
「山の手の子に負けるな」
だった。多分、お姉さん自身も下町出身ながらに名門大学に通っていたので、山の手に対して多少なりとも劣等感が有ったのだろう。
そんなお姉さんは漫画が大好きで、お気に入りの『カムイ外伝』等の話をよくしてくれたものだった。
 
力石の葬儀が有ることを知った私はその日、少し早めに塾へ向かった。お姉さんに相談する為だ。塾へ着くや否や、
「力石の葬式に行くには、どうしたら良いの?」
と、お姉さんに質問した。
既にその情報を得ていたお姉さんは、
「講談社へ直接行っていいらしいよ」
と、教えてくれた。そして、
「講談社は護国寺に在るから、飯田橋からバスで行けるよ」
とも、教えてくれた。
それでも、困惑する私を見て、
「お姉さんも行ってみたいから、一緒に行こうか?」
と、優しく問い掛けてくれた。
「うん!」
私は、大きく頷いた。
 
1970年3月24日午後4時、小学5年生の私は、地元の駅でお姉さんを待っていた。考えてみれば、これが人生初のデート気分だったのかも知れない。
程なくやって来たお姉さんと一緒に、私は一路、講談社へ向かった。その頃には、遊びに行くのではなく葬式に列席すること等、全く忘れて仕舞っていた。何しろ、それまでの人生で最も大きなイベントに参加するのだから。
 
私とお姉さんは、総武線を飯田橋駅で降り、池袋行きの都バスに乗り換えた。今なら地下鉄有楽町線で二駅の護国寺だが、有楽町線が開通する前はバスしか交通手段が無かった。しかも、目白通りの拡幅工事と首都高速の建設工事が同時に行われていて、道路は大変混んでいた。
“講談社前”の停留所でバスを降りた私とお姉さんは、講談社の敷地の外まで伸びた人の列に驚いた。後に調べたところ、当日、日本全国から力石徹の葬儀に訪れた人は700名を超えていたそうだ。
 
「はい、中学生以下の方は、先に入って下さい」
係員を務めて下さっていた講談社の社員さんが、列に並んだ人に声を掛けた。
私はお姉さんに、
「先に入るね。帰りは、ここで待ってるから」
と告げ、お姉さんを列に残し講堂へと入っていった。
 
講堂入り口で、記念品が入った封筒を受け取った私は、中の様子に驚いた。何しろ、初めて列席する葬儀なのだ。記念品は、挨拶状とその日の日付が入った、ジョー・力石の試合シーンの一コマだった。
講堂正面には、ちばてつや氏の手による、大きな力石徹の肖像画が祭壇に飾られていた。講堂内には、小さなボクシングリング造られていた。どちらも、天井桟敷の装置担当が制作していた。
最前列には、ちばてつや氏と、どこかボーっとした感じのオジサンが座って居た。後にお姉さんから、そのオジサンが寺山修司という有名人で、この葬式の発起人であるばかりか、葬儀委員長を買って出ていたことを教えてもらった。
一般の葬儀なら、親族席あたる部分のすぐ後ろに、私達子供が座る様に指示された。
お姉さんを含めた一般の大人は、椅子に座った私達の後ろにぎゅうぎゅう詰めに為って立っていた。
 
「御導師の入場です。皆様、合掌下さい」
と、アナウンスが有った。初めてのことで勝手が解らなかった私だが、見様見真似で掌を合わせた。
入場して来たのは、多分、護国寺の御住職だった筈だ。何しろ、講談社と護国寺は、はす向かいに在るからだ。
導師の読経の後、寺山修司氏が弔辞を読み始めた。詳しい内容までは覚えていないが、青森訛りがきつく大変聞き取り辛かったことだけは思えている。
続いて、歌手の尾藤イサオ氏がマイク片手に祭壇の前へ進み出て、初めて聴く唄を歌い出した。その唄は、『あしたのジョー』に関連したものだと子供ながらに理解することが出来た。
ただ、断定出来なかったのには訳があった。何故なら、『あしたのジョー』がテレビアニメとして登場する、同時に尾藤氏の主題歌を私達が正式に聴くのは、この葬儀の一週間程後のことだったからだ。
もしかしたら、この、力石徹の葬儀も、現代風に言うとテレビの番宣だったかも知れないのだ。
 
その後、寺山氏、ちば氏、続いて関係者らしきオジサン達が次々と、力石徹の遺影に向かって献花していった。続いて、後ろに着席していた子供達が、祭壇の前に進み出た。私も、周りと同じ様に献花した。
その後、促される様に私は、リングの脇を通り外へ出た。そこには、おびただしい数の報道陣が待ち構えていた。幾つもフラッシュが焚かれていた。
これだけ世間の注目を集めるのだから、改めて私は、『力石徹って、凄いんだなぁ』と感心した。
 
外で、しばらく待っていると、お姉さんがやっと出て来た。置いて行かれなくて、私は何だかホッとした。
帰りの道中、お姉さんは色々なことを私に話してくれた。特に、
「今日の御葬式は、特別でとてもとても大事なことだから、一生忘れず覚えているんですよ」
と、少々強めに念を押してくれた。
 
勿論私は、お姉さんの言い付けを守り、力石徹の葬儀に列席したことを忘れずに覚えていた。ただ、その後数回の引っ越しで、講談社から貰った記念品が入った封筒を紛失してしまった。
それが原因で、なかなか力石徹の葬儀に列席した事実を認めてもらえないでした。
エビデンスと為るものを、示せないでいたからだ。
 
力石徹の葬儀から51年後の今年3月、世田谷文学館で“あしたのために あしたのジョー!展”という展覧会が開かれた。少年マガジンに掲載された『あしたのジョー』の歴史と時代背景を展示するものだった。
この展示館のハイライトは、漫画史上でもっとも有名な『あしたのジョー』のラストのコマ、“真っ白に燃え尽きた”ジョーの原画が展示されるとのことだった。
年度末の忙しい時期だったが私は、ラストの原画だけでも観に行こうと世田谷文学館へ向かった。幸いなことに、現在私の住まいはすぐ近所なのだ。
 
文学館に到着し入場料を払うと、私は真っ先に“真っ白に燃え尽きた”ジョーの原画を探した。半世紀以上前に、ちばてつや氏が描いたラストシーンは、展示室最後の一角に展示されていた。
貴重な一枚なので、厳重にアクリルのケースに収められ展示されていたラストシーンは、すぐ横に警備員が立っていた。
私はそれこそ、穴が開くほどじっと観詰めてみた。
アクリルケースの中のジョーは、リングのコーナーに座り込んだまま、半世紀前と同じく何も語り掛けてはこなかった。
 
私は改めて、展示室の入り口に戻り、先頭から展示を観直すことにした。
展示は丁寧に、初回のファーストシーンから始まっていた。薄らいでいたものの、私に半世紀前の想い出を数々蘇らせてくれた。
 
時代順に進んで来た展示の年表は、1970年に入ってきた。
一つ角を曲がったところ、そのゾーンは少し暗くなっていた。
そこには、ジョーのライバル・力石徹の葬儀を、当時に写真と共に展示されていた。私の記憶通り、力石の遺影前で護国寺の住職が読経している写真もあった。
私は心の中で、
「ほらね。俺が言っていた通り、力石徹の葬儀は在ったんだよ」
と、普段私の言うことを信用しない後輩達に言ってやりたくなった。
 
次のゾーンへ移ろうとした私は、ふと横の大きな写真パネルが目に入った。そして思わず、大声を上げそうになった。何故ならその写真には、小学生の私が写り込んでいたからだ。
左手に記念品が入った封筒を持っていた。私の記憶通りだ。
左胸に刺繡が入ったブルゾンも覚えていた。伯母が、従兄弟が着なくなった物を与えてくれたのだ。御気に入りだったので、忘れる筈がない。大好きなお姉さんとの初デートだったので、めかし込んだので間違える筈がない。
 
私は写真をスマホに収めると、入り口に戻ってみた。
そこに居たキュレーターに、
「半世紀前の僕が居ました!」
と、興奮気味に報告した。
「本当ですか!!」
キュレーターも驚いた様に、声を掛けてくれた。
 
キュレーターと共に、私は再び写真の所に戻った。そして、
「これが半世紀前の僕です」
と、報告した。
キュレーターは、私と半世紀前の私の写真を一緒にスマホに収めてくれた。
そして、
「このこと、主催者に報告させて頂きます」
と、嬉しいことを私に言ってくれた。
何だかとても、嬉しかった。
 
それよりも何よりも私は、半世紀もの間言い続けたことが証明出来て、只々、安堵した
 
 
 
 
***
 
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2021-08-07 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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