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初めて主治医になった研修医一年目の秋、50代の患者さんが亡くなったときのこと


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記事:庭瀬亜香さま(ライティングゼミ)

ふと何かをきっかけに、心の奥底に仕舞い込まれてすっかり忘れていたはずの昔の記憶が、解き放たれたDNAのらせん構造のように次々と思い出されることがある。

去年の秋、病院を移るため久しぶりに医局の自分の机を整理していた私は、引き出しの奥にすっかり忘れていた一つの箱を見つけた。殺風景な病院にはあまり似合わない花柄のきれいな菓子箱をそっと開けてみると、何枚かはがきや手紙が入っていた。そうだ、患者さんからいただいた年賀状や手紙をしまっていたのだ、と見た瞬間に思い出した。一枚一枚懐かしい思い出とともに中身を見ていた私は、ある一枚で手を止めた。8年近く前、私が初めて主治医をしたHさんの家族からのはがきだった。

Hさんと出会ったのは、関東郊外のある県立S病院で研修医1年目の後半を過ごしているときだった。医者になって初めの半年間は、県立がんセンターと救急医療センターで高度な専門医療ばかりだったため、私はS市にあるS病院で一般的な救急や急性期についての研修をすることになっていた。都市部からかなり離れているS市は、昔は河川を使った交通の要所としてかなり栄えた由緒ある街で、今も古い町並みが残る情緒あふれたところだったが、戦後次第に産業も衰退し、今は週末に観光客を多少見かけるほかは、河川とともに静かに昔の記憶の中を生きているようなひっそりとした街だった。その静かな街で、S病院は地域の中核病院として周辺のかなり広いエリアの救急・急性期の医療を一手に引き受けていた。お世辞にも最新設備とは言えない病院だったが、地元の国立大学の系列なこともあり、働いている医師は地域医療を担うという気概に燃え、都市部と比べても遜色ないレベルの医療を提供していた。しかし、人手不足は否めず、なんと研修医一年目でも重要な戦力として、内科では主治医をすることになっていた。

研修医一年目で主治医なんて、ありえない。と私は思った。何かの冗談に違いないと。なんせ、医者になって半年間は高度な医療を行う病院にいて、研修医が主治医になるなど思いもよらなかった。しかし、私の甘い期待はあっさりと裏切られた。初日、内科病棟に行くと、指導医の内科部長N医師が待っていましたとばかりに、やけににこやかに私を迎え入れてくれ、「はいこれ」と何人もの患者さんのカルテを手渡された。私の前の研修医が主治医をしていた何人かが退院できず入院したまま残っているので、その主治医を引き継げという。更に研修医は救急外来のファーストコールで呼ばれるので、その時診た患者さんも基本的に自分が主治医になるという。もちろん私には断る選択肢などなかった。これからの内科の3か月間、本当に大丈夫なのかかなり不安になったが、できる限りのことをするしかないと、私は覚悟を決めた。

幸い、指導医のN医師はかなりの教え好きで、また、病棟の看護師もかなりベテランが多く、研修医一年目の私を優しく力強くサポートしてくれた。低空飛行ではあったが、気が付いたら受け持ち患者さんは10人を超え、そろそろ主治医という状態にも慣れてきた数週間後、忙しいN医師がわざわざ外来の最中に病棟にやってきて、私に1冊のカルテを渡した。なんでも消化管異常と肝機能異常があるけれど、ベテランのN医師でも外来では原因がわからず、詳しい検査のために今度入院する50代の男性がいるので、私に主治医になれという。一緒に診るから病棟の管理を頼むという口説き文句で、もちろん拒否権などない私は、はいというしかなかった。それがHさんとの最初の出会いだった。まだ残暑の厳しい9月だった。

Hさんは何の病気なのか、研修医一年目の私はかなり重い課題だった。ありったけの知識を総動員し、更に指導医と相談しながら詳しい検査を進めていった。Hさんは、実業家らしく話好きで、入院中、検査以外は暇なこともあって主治医の私を「先生、待っていたよ」と、いつも歓迎してくれた。10人以上患者さんを受け持っていたため、毎朝の回診で話せるのはせいぜい10分程度だったが、それでもHさんはいつも嬉しそうに自分の仕事のことや家族のことまで話してくれた。若いころはかなり色々とあったらしく、家族とあまり仲良くないらしいという看護師の噂だった。とても可愛らしく優しそうな妻が身の回りのことを世話しにくるほかは、もう20歳を過ぎているはずの息子や娘のお見舞いは殆どなかった。さみしかったのか、それとも特別個室とはいえ古びた病院での生活が苦痛なのか、ナースコールが多いので有名でもあった。

入院して約1か月後、病理検査を含めた検査結果がようやく出揃った。衝撃だった。なんとHさんは、大学病院でも滅多にいないかなり珍しい難病だった。指導医の助けを借りながらも自分で難病を診断したことに私はやや高揚しつつも、私でこんな難病の患者さんの主治医が務まるのか、とかなり不安になった。その病気は現代医療では治療法がなく、Hさんの病状は明らかに徐々に悪くなっていっていた。対処療法として血液状態を多少よくする点滴をするくらいしかできることはなく、しかも高価な点滴の効果も数日と持たなかった。

このままでは、徐々に全身状態が弱って亡くなっていくのを待つだけになってしまう。指導医のアドバイスで、その難病の第一人者である大学病院の専門家を見つけ、私は急いで夜遅くまで残り詳細にわたる分厚い紹介状を作成し、病理検査を含めた全ての検査結果を添え、望みを託してHさんの妻に東京の大学病院の先生まで会いに行ってもらった。しかし、戻ってきた妻が憔悴しきった表情で手渡してくれたやけに薄い封筒には、現代医療では治療法はなく、今の状態で大学病院に転院しても何もできないから受け入れられないということが、しごく丁寧に簡潔に書かれているだけだった。

もう医者としてできることは、私には殆ど何もなかった。毎朝回診でいつものようにHさんと話していても、徐々に、私は何をどう話していいのかわからなくなっていった。窓の外の木々が次第に色づくのを見ながら「治るのかな」とつぶやくHさんに、私は、はいともいいえとも言えないでいた。最後、せめて点滴や検査がない日は自宅に戻りたい、せめて自宅の庭の紅葉を見たい、というHさんの要望を、私は叶えようと思った。他のベテラン内科医から「君は勇気があるね、あの状態の患者さんを僕なら外泊させない、何かあったら主治医の責任だからね」といわれたりもしたが、私は気にならなかった。それは研修医一年目で本当に患者さんに何かあった時に自分が負うべきリスクをわかってなかっただけだったのかもしれない。しかし、その時は、指導医がサポートしてくれたこともあり、いざという時には自分が責任を取る覚悟で、最後せめて住み慣れた自宅で家族と好きな時間を過ごしてほしいと、好きなだけ外泊していいことにした。

何回か外泊を繰り返し、Hさんから「久しぶりに息子ともゆっくり話したよ」と嬉しそうに報告してもらった数日後の11月のある朝、いつものように朝8時過ぎに病棟に出勤しようと階段を昇っていくと、上から「先生!Hさんが!」という看護師の声が聞こえた。慌てて病室に向かうと、すでに息絶えたHさんがいつもの個室のベッドにまるで寝ているかのように横たわっていた。看護師の「先生に連絡しようと思ったけど、たぶんもうすぐ来ると思って」という声を聴きながら私は茫然とHさんを見つめていた。朝、異変を見つけた看護師がすでに病棟にいたN医師に蘇生措置を頼んだが、すでに間に合わなかったという。私が来るわずか10分前だった。まだ50代だった。

またか、と思った。大好きだった祖父が亡くなった時も、医者だった父が亡くなった時も、私は臨終に間に合わなかった。医者になって初めの半年間、がんセンターの当直や救急医療センターで何人もの最後を看取ったが、それは全て他の医師が主治医の患者さんだった。せめて初めて自分が主治医をしたHさんの臨終にはそばにいたかったのに、と、しばし私は茫然としていた。そんな私に気が付いたのか、指導医のN医師は「やることはやったと思うよ」と慰めてくれた。しかし、その言葉も私にはかなりむなしく他人事にしか聞こえなかった。

誰もいなくなった病室で、私は一人でHさんに合掌しながらこの2か月ちょっとのHさんのことを思い出した。不思議と涙もでなかった。ただ自分が主治医であって本当によかったのか、現代医学でできることは全てしたつもりではあったが、自分が研修医だからできなかったことがあったのではないかと、答えの出ない問いをひたすら自問自答していた。ただならぬ様子に遠慮したのか、片付けにきた看護師もそそくさと部屋をでていった。
しばらくして、妻と長女がやってきた。主治医として最後の状態を説明すると、家族も憔悴しきった様子で、泣きながら話を聴いていた。初めて会う妻に似て顔立ちの整った長女は、涙を浮かべながら、「父はいつも先生の話をしていたのですよ。主治医の先生はとてもいい先生で、いつも忙しいのに1時間話してくれるって。長い時は3時間も話してくれたこともあるって自慢していました。いつもお見舞いに行くとその話ばかりしていましたよ。だから、私は先生に主治医してもらって本当によかったと思っています」と。妻も本当にそうね、というように涙を拭いた。

私は衝撃を受けた。どう考えても、私は毎日1時間もHさんと話してはいなかった。確かに最初は病歴を聴くために1時間以上話したこともあったけれど、3時間も話したことは絶対になかった。10人以上受け持ち患者さんがいて、更に救急外来に1日何回も呼び出される中で、それは不可能だった。なのに、Hさんは私が毎日1時間話したと思っていたのか、と。それは誤解ですといいかけ、長女の真剣な顔を見て、言葉を飲み込んだ。もしかしたら、最後に全身状態が悪化して意識が混濁していたHさんは、本当に時間の感覚がずれていたのかもしれない。もしかしたら、主治医が1時間も毎日話してくれていると思いこむことで、なんとか死が迫っている自分を慰めていたのかもしれない。Hさんが亡き後、確かめすすべもなかったが、いずれにしても、私は妻と長女の真剣な顔にとても真実をいう勇気はなく、なんともいえない罪悪感に襲われるまま、ひたすら頷くことしかできなかった。

翌年のお正月も過ぎ、私は内科での研修を終えて外科に移っていた。外科は早朝から深夜までかなりの激務ではあったが、責任の点では気楽な研修医に戻り、内科での主治医生活をそろそろ忘れかけた頃、医局の机の上に一枚のはがきが置いてあった。Hさんの妻からだった。無事に四十九日が終わったこと、夫がいつも主治医の話をしていたこと、などが感謝の言葉とともに書かれてあった。なぜか読むのがなぜかつらかった。本当はうれしいはずの家族からの感謝のはがきが、とてもつらかった。何もできなかった私、本当は10分しか話してないのに1時間話したと息子さんに嬉しそうに言ってくれたHさん、そして、それを本当だと思っている家族の気持ちを思うと、最後結局何もできず、しかも臨終のときにもそばにいれなかった自分が、なんとも許せなかった。そして、そのはがきを医局の他の医師に見られないように、そっと花柄の菓子箱にしまった。

それから8年経ち、私はかなりの数の患者さんの主治医となった。忙しい日常の中で、最初に主治医をしたHさんの記憶も蜃気楼のように徐々に薄れていった。しかし、8年ぶりに箱を開け、はがきを見た瞬間、私は全てを思い出した。仕舞い込まれていたDNAのらせん構造が次々に展開して発現するように、その時のHさんのことや自分のことが全て細部まで次々と走馬灯のように一瞬で思い出された。

あのとき、私は医者一年目で何もできなかった自分が、なんとも許せなかった。大学病院に紹介しても受け入れてもらえず、最後の時にも立ち会えず、何もできなかった自分の医者としての限界を認めるのがつらかった。知識としては知っていたけれど、現代医療の限界を主治医として直に体験して、医療が何のために存在するのか、自分の中で整理できないでいた。感謝を述べているはずのHさんの妻のはがきも、なぜかつらくて仕方がなかった。

私は逃げたかったのだ。主治医である患者さんがなくなってしまうような場所から。自分の限界を思い知らされるような場所から。でも、同時に、逃げられないこともわかっていた。自分で医者になると決めたから。逃げても、その先に何も生まれないこともわかってはいたから。逃げないで、死の先にある希望、そして、死を見つめながら生き残ることの希望を見つけていきたいと、心の奥底は信じたかったから。

あれから8年たった。今でもあのころと比べて、自分が成長したとは今でも全く思えない。内科の知識や手技に至っては研修医の時のほうがよっぽどできたのではないかと思う。沢山の人の主治医をして、失敗したことも反省したこともたくさんある。その度に、自分を責めもしたし、逃げたい時もたくさんあった。なんとも言えない罪悪感にかられたこともたくさんあった。

Hさんが本当に私との10分間を本当に1時間と思っていたかどうかは、今では確かめるすべもない。でも、8年ぶりにはがきを読んだとき、私は不思議と逃げたくならなかった。不思議とつらくもなかった。そして、素直にこう思った。毎日1時間話してくれたと思ってくれて、本当にありがとう、と。最後の大切な時間に、私を主治医にさせてくれてありがとう、と。家族も私は主治医として受け入れてくれて、本当にありがとう、と。そして、蜃気楼の向こうで、初めてHさんが微笑んでくれたような気がした。

私は、Hさんの思い出とともに、はがきをまたそっと元の花柄の箱にしまった。生と死を紡ぐDNAのらせん構造を命の担い手である染色体の中にしまうように。

(注:登場人物のプライバシーに配慮して、登場人物の詳細は多少変更してあります)

 

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2016-05-03 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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