50過ぎ。ますます面白きこの人生
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人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
記事:伊藤絵理子(ライティング・ゼミ4月コース)
「あがったねえ……」
真夜中、入院の床で、母が突然呟いた。
何のことか意味が分からず、驚いて上から覗き込む私を、母は両手を伸ばして抱きしめてくれた。
微笑みながら泣いていた。多分母の意識はない。私を見つめる目は、私を通り越して何を見ていたのだろう。なぜか私も一緒に泣いていた。
病で入院していた母。姉と交代で病院に付き添っていたときのことだ。もう長くはないことは皆が感じていた。きっと本人も。
翌朝、姉にその夜の話をした。姉は「ああ」とわかっていたように言った。
「ゲームじゃったね。って、言ってたからね」
姉が付き添っていた時に母がうわ言で言ったらしい。
この人生はゲームだった、と。
鳥肌が立った。そういうことか。母はあの晩、人生すごろくの「あがり」に着いたのだ。
あの時母は「勝ったねえ」とも言った。そして「長かったねえ」とも。
あんな表情は初めて見た。ホッとしたような、穏やかな美しい表情だった。そこに苦しみや悲しみのようなものは微塵も感じられなかった。
……そうか、勝ったんだ。やり遂げたんだ。心の奥が震えた。
良かったね、お疲れさま。
現実と夢との間でうとうとしている母を見ながら、心からそう思った。
もういつでも逝けるのだね。
祝福の気持ちと、たまらない寂しさが一緒になって込み上げてきた。
それから数日後、一緒に満開の桜の花を眺めたあと、母は父のところに旅立った。
あれから。
母に相談したい出来事がたくさん起きた。子どもの病気のこと、夫のメンタルのこと。母ならどう答えてくれただろう、いつも考えながら、必死に暴風雨の中を生きてきた感じがする。時々母の言葉を思い出していた。小学生の時に被曝し、戦後の広島で奇天烈な父と暮らし、健康面でも経済面でも山あり谷ありだった人生を、「言うほど大変じゃなかったよ。振り返ってみたらね、面白かったんよ」とさらっと言ってのけた母。そんな風に思える日が私にも来るのだろうか。
気づけば8年が経ち、私も年を重ねた。齢50を超え、暴風雨が少しずつおさまり、周辺は凪ぎはじめている。時間薬がおおいに効いた。だがそれだけではなさそうだ。
誰かが言っていた。生まれたときに真っ新だった心には、成長するにつれ殻がへばりついていく。社会の中で生きていくため、自分をまもるため。そのうち、何層もの鎧をまとった自分を、本当の自分であると錯覚し、気づかぬうちに生きづらさを感じ疲弊していく。
そうだ。まさに分厚い鎧を着込んでいた。そしてその鎧を一枚ずつ外していく作業のために、あの感情の嵐が必要であったのだと今は思う。何度も襲ってきた嵐が、自分が変わるしかないのだと、根気強く教えてくれた気がする。
息子の病気を治すのは自分の責任だと頑なに信じて、その世界観の中にいた。自分が変わらなければ、と頭でわかっていてもなかなか前に進まない。息子自身から「お母さんが思っているほど俺は不幸じゃない」と言われても「そんなはずはない」と打ち消した。苦しくて苦しくて、とにかく光を見出したくて、本を読み、人に会い、できる限りのことをやろうともがき続けた。
やがて、少しずつ、少しずつ、気づきがやってきては、薄皮がペラリと剝がれていくような感じになった。何が功を奏したのかはさっぱりわからない。別になんだってかまわない。
息子の病気は完治はしていないが、穏やかな気持ちで一歩離れて見守ることができている。そして私自身は、身軽になってきたことを実感している。こんな日が来るとは。
振り返ってみると、息子が生まれてから、私自身が喜怒哀楽をよりはっきり表に出すようになった気がする。彼が色んなスイッチを押してくれるのだ。そして病気をきっかけに、それまでに経験したことがないほど感情が激しく揺さぶられた。良い母、良い妻、であるためにコツコツと重ね貼りしていた殻を、力づくで振り落とされた気がする。あー、しんどかった。本当にしんどかった。……でも、いい経験だった。
母は「人生はゲーム」と言った。わたし的には「人生は没入型エンタメ」と言った方がしっくりくる。思いっきり感情移入して、落ちたり上がったり、感情を味わい尽くすことがめちゃくちゃ面白いと思えるようになった。落ちる方はもうだいぶ経験したから、できればもう打ち止めにしたいが、来るなら来い。どんな些細な経験も、何か気づきを与えてくれるんじゃないかと思える。そしてまた殻が外れるんじゃないかと思う。その殻が外れた先にどんな自分がいるのかに興味がある。どんどん生まれたての自分に近づいていくぞ。面白くなりそうな予感しかない。ワクワクすることにもどんどん首を突っ込んでいきたい。
人生最後の呼吸で「あー、あがったー。最っ高に面白かった」と呟けるかな。
50を過ぎて、人生ますます面白い。
***
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