「“過去は過去、明日に向かってGO!”なんて、あんたはそんなに簡単にできるのか?」と投げかけたタカハシさんとの3カ月。
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記事:松浦美穂(ライティング・ゼミ)
タカハシさんは、浮いていた。
20代、30代の女性たちの中にポツンと一人、推定年齢45歳のオジさん、タカハシさんはいた。
携帯電話の取扱説明書を制作しているその会社には、和文を編集する和文チームと、その和文をベースに英文を編集する英文チームの2チームがあり、どちらもスタッフは女性ばかりだった。タカハシさんはそこに派遣社員として英文チームにやってきた。
「若い女性5人にオジさん1人」のチーム編成は確かに違和感があったが、派遣社員は働く環境を選べない。だから、カメレオンのごとく、派遣された企業風土・空気を察知して周囲に溶け込むことは派遣社員に求められるスキルだ。
しかし、タカハシさんにはカメレオンスキルがなかった。
英文チームからの評判は芳しくなかった。
「“わかりました”とは言うんですけど……」
「できてないし……」
「遅いし……」
「タカハシさんと話した方がいいな」。
和文チームと英文チームのコーディネートをしていた私は、タカハシさんから事情聴取をすることにした。
タカハシさんは私と対面したときからオドオドしていた。妙に目が赤く涙目なのも怪しい。たとえ仕事ができても女性は近寄らんだろうなあ、と思った。
「仕事、どうですか?」
「はあ……こういう仕事、初めてなので」
「ちょっと特殊ですもんね」
「はあ……」
「何か特に難しいとか、ってあります?」
「いや……」
何を聞いても手応えのある回答がない。
ちょっとイラっとした。
「時間との勝負ってときもありますから、大変なときは声をかけてください」
と言って、私は話を切り上げた。
うん? こういう仕事は初めて?
「タカハシさん、前職は何をしていたんですか?」
「あ、翻訳とか通訳みたいな……」
みたいな? みたいなって、何だ?
しかし、私はそれ以上突っ込まなかった。
ようは英語のスキルがあるから英文チームに配属されたわけだ。
タカハシさんからの情報は、結局、それだけしか得られなかった。
「とりあえず」と、ディレクターからの指示で、私が直接、タカハシさんを指導することになった。
私は仕事のフローを書いて説明し、画像キャプチャーの方法を教え、何がどう使われるか、人がどう動いているのかを伝えた。
「ああ、そういうことか」
って……。
わからないなら、なぜ聞かない。
さらに、間違いを指摘するといっそうオドオドする。その上、「泣かせてしまったか!」と思うほど涙目になるので、と、ギョッとする。
悪い人じゃないけど……。
やりづらい。
イイ歳をしたオジさんが女性に教えを請うのは、メンタル的に困難なのかも、と察してみるが、「そこは同情できんな〜」とも思う。
このままでは、タカハシさんは契約更新されないかも。
それでいいのか、タカハシさん。
2カ月が過ぎた。
秋の新製品開発に合わせて仕事は加速度を増し、猛烈に忙しくなった。
携帯電話に付帯する取扱説明書は約600ページもあり、あげく短納期なので、修正・校正で徹夜もしばしばだった。
仕事に慣れていてもそんな状況だから、タカハシさんは辛そうだった。
タカハシさんの目はますます赤くなっていったが、通常の仕事に加え、タカハシさんのサポートをする私もクタクタだった。
そんな状況のなか、エアポケットのようにポッと仕事が空いた日があった。
この機会を逃してはならない。
私は友だちを誘って渋谷に飲みに出かけた。
二人でぶらぶら歩いて目にとまったカフェバーに入った。カウンターの席に案内され腰をかける。目の前には大型スクリーンがあり、海の景色が広がっていた。「御蔵島」とクレジットがある。
カメラは海中に入り、泳ぐイルカたちの姿を映し出した。ウソみたいにたくさんいる。
「御蔵島って、こんなにイルカがいるのかあ」。
澄んだ青い水の中を、楽しそうに泳ぐ姿に癒やされる。
そこにスウェットスーツ姿の男性が登場した。イルカたちに混じって泳ぐ姿はイルカたちと遜色ない。見事な泳ぎだ。泳ぎながらときにイルカと戯れ、イルカたちも応える。彼自身もイルカのようだ。
「気持ちよさそうだなあ。この人、ストレスなんてないだろうなあ。いいなあ」吸い込まれるように男性とイルカが泳ぐ姿を見続けた。
男性はやがて海から上がり、留めてあったボートに乗り込むと、カッコ良く髪を振りながらシュノーケルと水中マスクを取った。
!!!!!!
タ、タカハシさん?!
まさか、まさか!
身を乗り出して男性を凝視する。
間違いない。
タカハシさんだった。
なぜ、ここにいる?!
いや、逆だ。なぜ、あの会社にいる?!
泳ぎっぷりからして素人ではない。こちらが本業なのは疑いない。
会社でのオドオドしたタカハシさんと、画面の颯爽としたタカハシさんが重ならず、混乱した。
タカハシさん、あなたは何者なんだ?!
翌朝出社すると、私はタカハシさんの席に駆け寄り、詰め寄った。
「タカハシさん、話があります!」
オフィスの一角で、タカハシさんに昨夜観たビデオの話をした。
「ああ、あれを観たんですか。まだそんなビデオ残ってたんだあ」
タカハシさんは、なんとも力の抜けた声で言った。
「タカハシさんはダイビングのインストラクターなんですか?」
「いえ、あれはバイトで出演しただけで」
「でも、イルカたちとガンガン泳いでいたじゃないですか」
「う〜ん……」
言葉を探す必要があるようなことなのか。
「じゃあ、後で書いて送ります」
「は? 何を?」
2時間ほどして、タカハシさんからワードが送られてきた。
そこには、タカハシさんが派遣社員としてこの会社に来るまでの経緯、そして過去が書かれてあった。
ぶったまげた。
タカハシさんは、なんとイルカを専門とする海獣学者だった。しかも米軍属の。
1980年代、アメリカの海軍はハワイやフロリダに軍用イルカの育成施設を持っていた。知能の高いイルカを国防目的で捕獲・教練し、機雷の掃海、警戒水域の警備を行わせていた。タカハシさんはハワイの施設でイルカたちを教練する仕事に携わっていたのだ。
「あの子たちは全身が筋肉の塊なので、海軍の屈強な男たちが10人がかりで押さえつけても、注射をするのは大変でした」
「女の子は生理もあり、その時期は人間の女性と同様、情緒不安定になります」
「わんぱくな子、おてんばな子、気まぐれな子、おとなしい子、やさしい子、一頭一頭、みんな性格が違います」
機雷を前にミスをすれば、イルカたちは命を失う。ただでさえ好奇心旺盛なイルカの性格やクセの把握は必務だ。タカハシさんは一頭一頭の性格を念入りに把握してイルカたちに接した。
イルカたちを「子」と呼ぶタカハシさんのイルカへのやさしい眼差し、そしてイルカたちに申し訳ないことをしているという気持ちと職務との葛藤が、読んでいて切ないくらい伝わってきた。
やがて冷戦が終わり、施設はすべて閉鎖。退役したイルカを自然に戻すためのリハビリ訓練を行い、イルカを海に帰してタカハシさんの役目も終わった。仕事を失ったタカハシさんは日本に戻り、いくつかの水族館のオープンや海獣施設の仕事に携わったが、しかしそれも続けられなくなってしまった。
なぜか。
原因は酒だった。
ハワイから帰ってきてから、タカハシさんは酒浸りの生活になった。
二日酔いの体で海から水族館のプール、さらにプールからプールへイルカを追うハードな肉体労働を、まっとうにできるわけがない。
日本にいくつもない水族館の仕事も失ったタカハシさんに残されたのは、英語力だけだった。
御蔵島のビデオは、日本に帰ってすぐ、ビデオ制作会社で働いている知人から頼まれてバイトで出演した。
あの赤い涙目は、かつての大量飲酒の名残だったのか。
オドオドぶりは、水中でイルカ相手にするのとは勝手が違うオフィスワークに、戸惑っていたからなのか。
御蔵島の海で見たタカハシさんが、本当のタカハシさんなんだ。
でも……。タカハシさんはまず陸に慣れなければ、どこにいってもダメだ。
「その気があるなら」と私は切り出した。
「ここの仕事、続けてみませんか」
タカハシさんの視線は下を向いている。
「それでやっぱり向いてないと思ったら、辞めていいんですから」
タカハシさんは下を向きながら、軽く何度かうなずいた。
「よろしくお願いします」
派遣会社を通して契約更新の話がつき、タカハシさんは以前より表情も明るく、前向きになった。ように見えた。
契約更新をして1週間ほどたったある日。
タカハシさんは、11時を過ぎても出社しなかった。
痺れを切らしたディレクターが自宅に電話をしようとしたそのとき、電話がかかってきた。警察からだった。
なんと、その日の未明、タカハシさんは酔ってホームから転落。病院に担ぎ込まれていた。肋骨と鎖骨の骨折、右肘の脱臼。全治一カ月。2週間ほどの入院で、後は通院でいけそうだと聞いた。
「お酒、飲んじゃったんだ」と思った。しかも、ホームから落ちるほど正体不明になるまで。不安がよぎった。
もしかしたら、タカハシさんはイルカたちとの日々が忘れられなくて、ずっと苦しんでいたのではないか。派遣の契約更新が決まって安心したのではなく、かえって不安になったのではないか。それでまたお酒に手を出してしまったのではないか。そんな思いが頭の中で渦まいた。
2週間の入院期間が終わり、タカハシさんが復帰する日になった。
しかし、タカハシさんは姿を現さなかった。そして、二度と再び出社することはなかった。
タカハシさんは、今、どこで何をしているのだろう。
***
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