メディアグランプリ

さようなら、ミスター・ジョーンズ


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事:サイ・タクマ(ライティング・ゼミ)

 

 

今から10年前。2006年の、クリスマスが近いある日のこと。

とある集団が、新大阪駅に降り立った。

2台連なったシルバーのバンが、新大阪駅からヒルトンホテルへ出発した。

当時大学生だった僕は、その車内で黒いカバンを膝に抱え、鼻の穴を膨らませながら大きく目を見開いていた。

というのも、コンサートホールの客席案内係のアルバイトの延長で、ごくたまに大物ミュージシャンが来る際には、主催者からカバン持ちの命を仰せつかることがあったのだ。

 

その日大阪に来ていたのは渡辺貞夫と今年のクリスマスツアーの帯同メンバー。

今回はピアノにハンク・ジョーンズ、ドラムスにオマー・ハキムが同行していた。

彼らは駆け出しジャズリスナーの僕にもわかるぐらいの、まさしくレジェンド、と言って差し支えないプレイヤーで、新大阪駅からヒルトンまでの車内は心臓がバクバクだった。

 

主に後部座席のオマー・ハキムから発せられるであろう香辛料めいた香りや、大物ミュージシャンが放つ浮世離れした独特のオーラにすっかり舞い上がってしまった。

 

ハンク・ジョーンズは当時で御年88。生き仏といった感じで、ツアー直前に帯状疱疹を患って、静かに車椅子に座っていた。

マリリン・モンローが「ハッピー・バースデイ」をケネディ大統領に歌った有名なエピソードがあるが、このときピアノ伴奏を務めたのがなんとハンク・ジョーンズこの人である。

弟に、ドラマーで有名なエルビン・ジョーンズがいる。

僕の緊張が伝わるだろうか。テレビが白黒の時代から最前線を張っていた人なのだ。

 

ヒルトンに着いてロビーまで荷物を運び終えた僕は、カチコチになりながら一生に一度おとずれた非日常な一瞬を最大限に楽しもうとして、メンバーの近くで鼻の穴をヒクヒクさせながら直立不動になっていた。

 

すると、彼らのツアーマネージャーらしき女性が、こちらに視線を寄越してきた。

「じゃあ貴方、ミスタージョーンズを部屋まで」と言って、エレベーターホールを指差した。

 

ホールの制服のブレザーを着た僕をホテルマンと間違えたんだと思う。

僕は一瞬理解が遅れて、眉を上げ、目を剥いて、無言で「僕がですか?」というジェスチャーをしてしまった。

彼女は僕よりも大きめに目を剥いて「当然でしょう?」と言いたげな表情をして、不機嫌な視線で僕を促した。

 

心臓が飛び出してしまいそうなくらい緊張して、車椅子のハンドルを握った。

 

なにせ今僕の目の前に見えているのは生きた神様の後頭部で、今僕が押しているのは生きた神様を乗せた車椅子だ。

 

国宝を扱う厳かな気持ちでおそるおそる一歩を踏み出し、エレベーターホールへ向かったのだが、至近距離で見る彼の後ろ頭は、名プレイヤーの圧よりも、愛すべき一人の老紳士の穏やかで優しい雰囲気を纏っていた。

尊いものがあわや消えてしまうような儚さを感じるたたずまいと言うのだろうか。

「この人を全力でお守りしなければいけない」という使命感を勝手に感じさせる人だった。

ロウソクの火を消さないようなスピードの殺し方で、かつ神様に快適であろう速度を考えながら、ホイールを滑らせた。

 

エレベーターの中で、ようやく僕がホテルマンではないことに気がついたツアーマネージャーは、「あらっ。あなたホールの方だったのかしら。ごめんなさいね!」と言ってこられた。

本当はこちらが泣いてお礼を言いたいところだが、その時の僕には、「とっ、とんでもないです」としか答える余裕がなかった。

 

夢のような瞬間はあっという間で、ミスタージョーンズと同じ時間を過ごしたのは5分にも満たないものだったかもしれない。

 

部屋の奥までミスタージョーンズを運び入れた後、とにかく彼に何か一言を言いたくなって、去り際に「エンジョイ、オーサカー!」と大きな声で叫んでしまった。

彼は1秒置いて静かに目を細めて笑って、ゆっくりと手を挙げて応えてくれた。

 

その夜の公演のことは忘れられない。

残念ながら、帯状疱疹の影響で最初からステージに立つことはなかったが、ミスタージョーンズはそれでも何曲かプレイしてくれた。

ステージ袖から椅子に腰かけるまでの老体ぶりが嘘のように、彼のピアノは雄弁で、鮮やかで、みずみずしくて滑らかで、なにより「ノリノリ」だった。

聞いていてワクワクする演奏。ウットリ聞き惚れてしまうような美しさ。聞き手を良いように翻弄するような、空気をいかようにも変えられる力が宿っていた。

まさに楽器とは、空気を震わせる装置なんだと思った。

代理のピアニストと同じピアノを弾いているはずなのに、ピアノの音色や響きが違って聞こえる。

同じ楽器でも、操る人によって全然違う音を出すのか、と発見した瞬間だった。

 

88歳とは思えない別人ぶり。身体に染みついたプロの技と、人生の機微を味わってきた男の年輪が、そこに居合わせた誰もの胸を深く打ったに違いない。

彼はギョロっとした大きな目をしているのだが、演奏のあとの優しくて遠慮がちな笑顔には本当に感動した。

 

ミスタージョーンズは2010年の5月にこの世を去った。

「練習は、1日休めば自分に分かる。

3日休めばカミさんが分かる。

7日休めば仕事が無くなる」

というのが、彼の口癖だったそうだ。

 

現場に立ち続ける男の生き様の、言葉で言い表せない凄みを感じた。

 

老いてなおピアノの前に向かい続けた理由は、なんだったのだろう。

彼をピアノに向かわせたものは、なんだったのだろう。

老いてなおピアノの前に向かい続けられたワケは、なんだったのだろう?

 

ジャズの良いところは、そこに言葉がないからかもしれない。

ミスタージョーンズの演奏の深い響きに耳を傾けながら、今日も夜が深くなっていく。

 

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2016-12-14 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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