私以外誰も知らないわがまま娘とその家族の物語
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記事:あおい(ライティング・ゼミ)
「こんな古臭くて、和風な家は嫌やわ! 庭なんかいらんのに無駄に広いし、収納は少ないし、和室ばっかりやし! もっと今風のおしゃれな家に住みたい!」
今から20年前、わがまま娘のK子は私を見てそう言い放った。
私は神戸の山の上に建つ、築35年の日本家屋である。
神戸の山の上というと、高級住宅地のイメージがあるかもしれないが、あれは「山の上」ではなく「山の手」である。
神戸は、北には六甲山地、南には瀬戸内海、山と海に囲まれた小さな町である。そのせいか神戸人は北側のことを山側、南側のことを海側と呼ぶ。山の手とは、神戸の中心地三宮から東へ少し行ったところの山側にある六甲や御影、岡本と呼ばれるあたりをいう。その辺にはいかにも高級そうな住宅やおしゃれなマンションが建ち並んでいる。
ところが私が建っている山の上はちょっとわけが違う。バブル時代になる少し前、神戸市は海を埋め立てて人工島を作るのが好きだった。その埋め立てのためにいくつもの山を削った。私が建っているのは、削った山を造成してできた住宅地なのだ。もともと山だったところに建っているから山の上なのである。とはいえ、この近辺だけでも、3000戸程度の私と同じような家が建っているから、結構大きな住宅地なのである。
その一角に建つ私は、敷地面積約80坪の庭付き一戸建てである。築35年とは随分と歳を重ねたものだ。私が出来たばかりの頃は、これでも最新の日本家屋だった。10年後に定年を迎えるK子の父親と母親が、二人でここに住もうと計画して、この静かな山の上に建てられた私を選んでくれた。K子が中学3年生の時だ。床の間のある和室と縁側、大きなシャンデリアを備えたリビング、L字型のキッチンとダイニング、そして2階には3部屋あり、子供たちが家族を連れて帰ってきても部屋は十分にあるし、広い庭で母親が大好きな土いじりもできる。両親はとても気に入って私を購入してくれた。
ところが予定は未定、K子の父親は、定年を迎えてすぐ亡くなってしまった。車の運転ができない母親は、交通の便の悪い山の上に建つ私に、一人で住むには広すぎるし無理だということで、それまでずっと住んでいた神戸の下町の便利なところに住み続けることになった。だから私は、誰にも住んでもらうことなくずっと空家のまま、時々母親が、運転手として無理やり連れてこられたわがまま娘と、庭の草むしりにやってくる以外は誰も来ないという、そんな状態のまま10数年の歳月を過ごしたのである。
そして平成4年のこと、K子が結婚することになった。住む家を探すことになったとき、どうせ空いているんだから住めばいいという話になって、私が突然候補に挙がったのだ。まさか自分が住むとは思っていなかったK子は、改めて私をじっくりみた結果、冒頭のような言葉を吐いたのである。
たしかに若い二人からすると、今風のこじゃれたマンションの方がいいに決まっている。でもどうせ空いているし、家賃もいらないし、あんたたちお金ないんでしょ、という母親の言葉で、確かにそうだと納得して、私を見に来たのであった。
ところが、都会育ちのわがまま娘K子は、私を見るやいなや、「こんな広い庭なんていらん! コンクリートで全部埋める!」と言い出すし、床の間のある和室を壊してウォークインクローゼットにする、という。
なんということだ。床の間といえば私の一番誇るべき場所、一番手間暇かけて大工さんが作ってくれた私の大事な一部、それをぶっ壊してクローゼット? ありえない、と思った。
なんとしてもそれは阻止したかった。ありがたいことに、母親と大工さんが二人がかりで、ここは絶対壊してはいけない、この家の要だから、とK子を説得してくれたおかげで、なんとか事なきを得たのである。
K子はしぶしぶそれを受け入れ、じゃあせめて2階だけでもと、6畳の和室と洋室があった二つの部屋の壁をぶち抜いて広い洋室に造り変え、そこだけでも今風にしようと目論んだ。
私は床の間の和室を守れたことでホッとして、2階の一部のリフォームでわがまま娘が納得するならまあよしと、胸をなでおろしたのであった。
最初からそんなひと悶着がありながらも、その日からK子とその夫が私のあるじとなった。
ところが、新婚夫婦が私に住み始めて半年も経たないうちに、夫の転勤で夫婦は広島に行ってしまった。再び私は空家になった。せっかくリフォームした広い部屋もほとんど使われることなく、私はまた一人ぼっちになった。
その3年後に阪神大震災が起きた。
私は山の上にあったのが幸いだった。屋根が壊れたりして一部は損壊したけれど、なんとか持ちこたえた。あの時ばかりは、あるじが住んでいなくて良かったと思った。屋根を修理してもらって私は元通りになった。
そしてそこから1年後、あるじ夫婦が私のところに帰ってきた。子供を二人連れて。
一気ににぎやかになった。私はとても嬉しかった。
そこからまた2年後、あるじ夫婦にもうひとり子供が増えた。わがまま娘のK子もさすがにわがままは言っていられず、一生懸命子育てしているようだった。小さい子供を3人育てるのは本当に大変そうだった。私にしてやれることはなにもない。ただ寄り添って見守るだけだった。
K子は、相変わらず私のことは好きではなさそうだった。
子供が増えるたびに、模様替えをしたりいろいろ工夫してみるものの、もともと収納が少なく、無駄が多い造りのため、どうも私は使い勝手が悪いようだった。
それに加えて、山の上に建つ私は、夏はとても涼しいのだけれど、冬はとても寒い。神戸の中心地とは5度ぐらい気温が違うのだ。一戸建てはさらに寒さが身にしみるようだった。
冬になると暖房費がかさむと、K子はしきりに文句を言っていた。
寒さや暑さ、雨風から一生懸命家族を守っているつもりだったけれど、守りきれない自分の不甲斐なさを、私はひしひしと感じていた。
「こんな家早く出たいわ、もっと便利なところのマンションに住みたい!」
K子の口癖だった。なんとかK子に満足してもらえるようにと思っていたのだけれど、それはなかなか難しいようだった。
ところがそんな私にも、嬉しい瞬間があった。子供たちが入学式や卒業式を迎えたとき、必ず親子揃って私の前で写真を撮るのだ。特に嬉しかったのは、あるじの長女と次女の成人式の日だった。綺麗な着物を来た彼女たちと私を一緒に写真に収めてくれたことは、私の一生の宝だ。
こんな家早く出たいわ、と言いながら、そういう大事な記念日には必ず私をバックにして写真を撮るのはどうしてなのか、不思議でたまらなかった。
そんな私に初めての危機が襲ってきたのは、今から15年前のことだった。
使い勝手の悪いキッチンをなんとかしたいとK子が言い出したのだ。
今主流のカウンターキッチンにしたい、と。そしてゆくゆくは子ども部屋も必要になってくると。ご存知のとおり、新婚の際に2階をリフォームして大きな部屋にしてしまったため、一人にひとつの子供部屋を確保することがことできなくなっていたのだ。それまでは子供たちが小さかったから、家族全員でわいわい言いながら大きな部屋で寝ていればよかったのだけれど、大きくなってくるとそうはいかない。
どうする? と家族会議になったとき、K子は「この家ぶっ壊して建て替えよう!」と言い出した。
とうとう来たか、と思った。築20年たっていた。K子も夫も35歳。年齢的なことを考えると、建て替えのタイミングとしては今しかないと思われた。
ところがK子の母親はものすごく保守的な人で、建て替えの提案に大反対だった。
「まだ住めるのにもったいない! それに子供にこれからお金がかかるんやから。無駄なお金使ったらあかん!」
K子は、母親の持ち物である私を勝手に壊すわけにはいかず、泣く泣く諦めた。そのかわり私は、びっくりするぐらいリフォームされることになった。
まずはキッチン、浴室などの水回りを総取り替え、ほぼ全ての部屋のクロスと床を張替え、屋根を総替え、壁も塗り替えた。
そこから数年後、今度はぶち抜いた2階の部屋を3つに区切り直して子供たちの部屋を作り、庭には大きなテラスをつけて、1台しかなかった駐車場も、庭を掘って2台分になった。
私は見違えるほどきれいになった。
K子は、きれいになった私を見て満足そうだった。
私が生まれ変わってから、友達を家に呼ぶことが多くなった。一緒に夕食を食べたり、テラスでお茶したり、楽しそうなK子をみていると、私も幸せだった。かれこれ築25年、やっと私のことを気に入ってもらえたと思っていた。
ところが、それは長く続かなかった。大掛かりにリフォームをしてもらった私も、そこからさらに10年たち、築35年ともなると、あちこちにほころびが出てきた。この間にさらにひとり増えて、4人になった子供たちが日々暴れまわっていたことも、私を劣化させる原因のひとつだったかもしれない。
床が抜けそうな場所や、ドアが歪んで開きにくいところや、天井やクロスのシミや傷、
それはもう言いだしたらきりがない。35年もがんばってきたのだから仕方ない。
でも度重なるリフォームで思った以上にお金をつぎ込んで、「こんなにお金使うんやったら、建て替えできたわ!」とぼやいているわがまま娘のK子は、私にこれ以上お金を注ぎ込むことを完全に拒否している。だから屋根が雨漏りしていることも、床が抜けそうなところがあるのも重々わかっているようだけれど、一向に修理しようとはしないのだ。
どうやら、私にとって二度目の危機が、目の前まできているようだ。
4人の子供たちは、大学生になったり、留学したりと、次々と家を出てしまって、今は末っ子の次男坊だけが家に残っている。その次男坊もあと2年すれば中学を卒業する。
これまでは転校しなければいけないという理由で、引越しを断念していたあるじたちも、次男が高校生になれば、どこの高校にでも行けるから、わざわざこんな山の上の私に住み続ける必要はないのだ。
K子は、2年後には私を捨てて、もっと便利なところのマンションに住もうと密かに目論んでいるようだ。
そうなると私は、売り飛ばされることになるのだろうか?
こんなツギハギだらけの私のところに今更住んでくれる人はいないとしたら、私はぶっ壊されることになるのだろうか?
そのときがきたら、私はそれを受け入れるしかない。
でも今回はもう、それでもいいと思っている。
なぜなら、私は誰よりも知っているから。この20年間の家族の営みを。
そう、
まだ小さかった子供たちが、リビングの大きなシャンデリアの下でテレビを見ながら、
お腹を空かせて母親であるK子の帰りを待っていたことや、
家族の誕生日には、どんなことがあっても必ずケーキを買って、ダイニングでハッピーバースディを歌ってお祝いしたことや、
子育てに行き詰まって、どうしようもなくて、ひとりキッチンの隅で泣いていたK子の姿や、
長女が東京に出てしまったあと、夜中にテラスでひとり酒を飲みながら、寂しそうにつぶやいていた夫の姿や、
それぞれの家族が、それぞれの部屋で、何をし、何を考え、何を思っていたのか、あるじも知りえないことを私は全て知っている。
こんな家、住みにくいとか、寒いとか言われながらも、この20年間、わがまま娘のK子とその夫、そして4人の子供たちを、私はずっと守ってきた。
そう、私は誰よりも、この家族のことを知っているのだ。
それだけでもう十分だ。
結局K子は、私のことを本当に好きになってはくれなかった。それは寂しいことではあるけれど、賑やかでちょっとマヌケで、憎めないこの夫婦と子供達と、ともに過ごせた20年間を私は誇りに思う。
予定は未定、人生は予定した通りにはならないと思っている人が多いかも知れない。
もし、当初の予定通り、K子の両親が私のところに住んでいたとしたら、こんなに文句を言われることもなかったかもしれないし、こんなにあちこちリフォームして日本家屋なのか洋風なのかわからないような、つぎはぎだらけの家になることもなかったかもしれない。
でも反対に、住んでみたものの、やっぱり寒いし不便だしということで、もしかしたらさっさと売り飛ばされていたかもしれない。
結局今となっては、それらは全て仮説でしかない。
だから、これでよかったのだ。
予定は未定でも、結果的には全てうまくいっているのだ、ということを、私はこの家族から学んだような気がする。
だから思い残すことはない、言いたいところだが、
本当は、子供たちがそれぞれに、新しい家族を作って私のところに帰ってきてくれたら、こんな嬉しいことはないけれど、
もしそれがかなわないとしたら、せめて私と暮らした20年間を、忘れないでいて欲しいと思う。
そして、もし私が跡形もなく存在しなくなったとしても、時々私のことを思い出して、懐かしがってくれたらそれでいい。
記念日のたびに私をバックにして撮った写真を眺めながら。
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