表情を変えない神となった過去の自分にハリセンチョップを喰らわせたい《プロフェッショナル・ゼミ》
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記事:村井 武 (プロフェッショナル・ゼミ)
「あ、先生……」
心の中でとっさに叫んだが、声には出さなかった。表情も変えないように意識した。
大学生も終わりの頃、私は地元の公共図書館から本を借りようとしていた。「貸出お願いします」とカウンターに呼びかけると、図書館の貸出係として出てきたのが中学校の担任のY先生だったのだ。
「あ、Y先生! お久しぶりです」
そんな具合に笑顔で呼びかけるのが、ふつうの、自然な、大人の対応だったろう。しかし、なぜか、私の心と身体は、Y先生をY先生として認知することを拒み、笑顔も作らず、口も利かず「貸出係とのやりとり」に終始し、Y先生が「返却日は3月末日です」と言うのを聞いて、無表情に黙って頷き、図書館を出た。
心は、思いっきり、ざわついていた。
貸出カウンターにいたのは、間違いなく頭の禿げあがったY先生だった。多分、中学校を定年で終えた先生は、嘱託のような立場で、図書館の貸出係として働いていたのだろう。それにしても私にとっては先生は、先生だ。
なぜ、あんなにお世話になった先生と二人きりで面と向かいながら、他人のような-というより他人と扱って振る舞ったのか。
「私は彼がそこにいることを認識した」を英語で”I recognized him.”ということがある。辞書によっては”recognize”に「会釈をする」の訳をあてているものもある。私は、あの時内心ではY先生をはっきりとrecognizeしておきながら、態度ではrecognizeしていないふうを装った。会釈すらしなかった。
帰途、ざわめく心で考えながら、前にも同じようなことがあったのを思い出した。
図書館のカウンターでのY先生との出会いから遡ること数年、私はあるファストフードの店に飛び込み、テイクアウトを頼んだ。他に客はいない店内。ひとりのバイト店員。その店員は、過去結構な年月を同じ学校で過ごした元・学友Hだった。名前はもちろん、住んでいるところや、親の職業まで知っている。
「おー、久しぶり。バイト?」
そんなふうに聞くのが、ふつうの、自然な、大人の対応だったろう。しかし、この時も私は、彼をrecognizeしないふりを装った。初めて出会う-そして今後まず会うことはない、客の顔をして、発注を伝える以外のことを話さなかった。表情もやっぱり変えなかった。二人きりの空間で、店員と客として相対し、彼の機械的な「ありがとうございました」の声を背中で聞きながら走るように店を出た。
あれを、また、やってしまった。よりにもよって恩師に。図書館から借りた本が入ったカバンを重く感じながら、自分の中にいるコントロールの利かない無表情の自分を判じかね、御しかねていた。
なぜ恩師、知人との関係を一瞬にして「なかったこと」にできるのか。一瞬で他人の関係を構築して、そこに閉じこもってしまうのか。ケンカをしたわけでもないし、過去に嫌な思いをしたわけでもないのに。
今も昔も私は自分の対人関係能力には、まったく自信がない。いい歳こいて、というやつである。それにしたって何の理由もなく、一瞬での「縁切り」ができ、他人の関係に入ってしまう自分というのは、人見知りとか、付き合いが悪いとかいうレベルを超えてどこかおかしいのではないか。社会人として、人として備えるべき何かを決定的に欠いているのではないか。
かと言って、昔知っていた人や、久しぶりにばったり、期せずして会う人を片っ端から他人として扱うわけでもないのが、我ながら解せないところだった。ほとんどの場合-久闊を叙すなんて、大げさなことにはならないが-挨拶くらいはするのだ。当たり前に、にこやかではなくとも、大人の振る舞いはする。
少なくとも驚いた顔をして「あ、どうも」と言うとか、頭だけ心持ち頷いて会釈してみせるとか。態度で彼、彼女をrecognizeする。
なぜ、Y先生とHに会ったときには、あんな挙動に出たのだろう。
図書館での一件は、ファストフード以上に尾を引いた。中学校のアルバムをめくって、Y先生の写真を見る度、あの時の図書館のカウンターが蘇る。思い出すほどに「この先生には、ほんとにお世話になったよな」と心がきしむほど、恩を感じ、やがてアルバムを開けなくなった。あの図書館のシーンを心に浮かべるだけでなにかしら、申し訳ないことをしたという思いで、胃のあたりが少しキュッと痛くなる。
後ろめたさを消したいためか、「僕は教え子なんだから、先生の方から『おー、ムライ』と声をかけてくれたってよかったのにな」なんていう自己正当化ロジックが走ることもあるが、やはりイヤな気持ちの塊は消えず、心の中に沈殿していた。
他人の関係を作ってしまう理由が、ぼんやり見えたのは、昨年のことだった。
昨年秋、駅で列車が遅れ、文句を言いながら詰め寄る乗客の対応をしていた鉄道会社の職員が-おそらくストレスに耐えかねて-高架の線路から地面に飛び降り重傷を負ったというニュースが流れた。
SNS上では
「もうお客様は神様っていうのはやめよう」
「駅員さんが被害者だ。彼にはペナルティよりもケアを」
という声が多く挙がった。
あ、これかもしれない。
図書館のカウンター。
ファストフードのカウンター。
カウンターのこっちと向こう。
図書館やファストフードの店に入った瞬間、私は「お客様」人格になっていたのだ。認めたくはないけれども、きっとカウンターの中のひとから「これは、これはお客様。ようこそいらっしゃいました」という対応を当然のように期待していたのだ。
心が硬くて、切り替えができない未熟だった私は、思いもかけないタイミングでY先生が出てきても、とっさにお客様のお面、お客様ヅラを外せなかった。
なんてこったい。どれだけ頑なで視野が狭かったのか。不器用などという可愛いものではない。どれだけ未熟で、頑なで、幼く、柔軟性に欠けていたのか。若かったとはいえ、どうしたって恥ずかしいぞ、自分。
考えてみれば子供のころ、近所のお店のおじさん、おばさんは、同級生順子ちゃんのお父さん、お母さんであり、町内会の役員のおじさんでもあったのだ。子供のころから人見知りだったので、元気に明るく挨拶をするようなことはできなかったが、おじさん、おばさんに対する敬意は持っていた。ただの「お店の人」なんかではないとわかっていた。子供のころには人との関係の多重性をあっさり、素直に受け入れることができていた。
いつしか頑なで愚かしい社会人失格の態度が無意識に身についていた背景には、あの国民的歌手のキメ台詞「お客様は神様です」があったことも否定はできない。
この台詞には各種の解釈があり、ご本人の公式サイトでも「本人の真意とは違った意味で使われている」と注意喚起されていて*、ご本人にまったく責任がないのはわかっているけれども「神様」という強い表現が、当時の国民の意識に、顧客はエライのだという勘違いを植え付けたことは否定しがたいように思う。
子供のころ、国民的スターがテレビで満面の笑みをたたえ朗々と
「お客様はぁ 神様でございます!」
と客席に向かって呼びかけ、観客が大喝采してこれを迎えるシーンを何度も見た。
私も、なるほど、お客様は神様なのね、と漠然と思い込んでいた。客、エラい、と。何度か戯言として、自らこの台詞を使ったこともあるような気がする。
言葉は怖い。それを発した本人の意図とは違った意味を帯びて人々に影響を与える。ご本人が亡くなってからは、生前にもまして、その芸風とまったく切り離され、言葉だけが独り歩きを始め「お客様、エライ」という本来の文脈と外れた意味だけが肥大化したようにすら見える。
私が神様人格を捨てることができたきっかけは、社会に出てから各方面のプロとして、特に個人で事業を営んでいる友人、知人たちとの出会いだった。
専門職、コンサルタント、アドバイザー。個人で、自分の旗を立てて事業を営んでいる人たち。
友人、知人であっても、彼らに「仕事」をお願いすることがある。プロとしての彼、彼女に仕事を依頼するとき、そこにはサービスの提供とお金の支払いが生じる。かつての私は、人を相手にするとき、「この人は自分にとってこの立ち位置の人」と固定したひとつの関係でしか見ることができなかった。ことさらに威張ったり、えらそーにするということもなかったとは思うけれども、お金が発生するなら、こちらは顧客だ、お客様だ、と。そして、私はお客様以外の何者でもなくなってしまう。意識せずにそれが極端に表れたのがあの図書館のシーンだった。
でも、彼、彼女にプロとしてのサービスを求めることと、その人を友人、知人として信頼し、柔らかな関係をも維持することは両立可能だ。人と人との関係は、ひとつのラベルで表現しつくせるものではない。他人が私のために働いてくれる、身体を、頭を使ってくれる事実は、対価-端的に言って金銭という単一の尺度-で計り尽せるものでもない。そんな当たり前のことを、友人、知人がプロとして育ち、起業していく過程を見たり、プロとしての彼、彼女との間にサービス提供と対価支払いを含む関係を取り結んだりするうちに、自然に、遅ればせながら、学んだ。
ここ数年、病院でも「患者様」なんて表現が当たり前に使われるようになっているけれども、それってどうなんだろう。医師と患者の関係を、サービス提供者と顧客の関係になぞらえることが間違いとは言わないけれども、ここでも神様、患者様と「様付け」することで、患者を一律に、無闇に医療関係者の上位に置くことが、両者の関係をよくするとは、どうも考えにくい。
あれこれものわかりの悪い私は、ここまでのことに気づくまで、長い時がかかってしまった。できることなら、図書館のY先生に気づかぬふりをしてこわばった表情をしている自分の後ろ頭に、ハリセンチョップを喰らわして、神様ヅラを叩き落としてやりたい。
この文章を書くにあたって、Y先生のお名前をネットで検索したが、それらしい情報を見出すことができなかった。もう一度お目にかかることが、できるだろうか。Y先生。
「ご無沙汰しておりました」とご挨拶を差し上げることができるだろか。
* 参照記事
三波春夫オフィシャルサイト「お客様は神様ですについて」
< http://www.minamiharuo.jp/profile/index2.html> 記事中には「このフレーズへの誤解は三波春夫の生前から有り」との記述もあり、氏の関係者が以前からフレーズの誤用を懸念していたことも窺える。
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