プロフェッショナル・ゼミ

女に生まれた以上恋をするのは仕方のない事だ。私は今日もうそう言い訳をしている。《プロフェッショナル・ゼミ》


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記事:市岡弥恵(プロフェッショナル・ゼミ)

女に生まれた以上、恋をするのは仕方のないことだ。そう自分に言い訳をしている。いつだって始まりは突然来るものだし、堕ちてしまえば、どうしようもない。

たとえそれが叶わないものだとしても、寝る前には彼のことを想い、そして朝起きれば彼から連絡が来ていないかと携帯をチェックする。そんな事の繰り返しだ。

今後会うつもりもない女を抱く男が居て、それを素直に受け入れてしまう女が居る。それだけの事だ。

微睡みの中にいたい体をなんとか起こして、いつものように化粧を始める。
丁寧にアイラインを引き、睫毛にはたっぷりとマスカラを塗る。唇の縁にリップラインを引き、血色の悪い顔に血を通わせる。リップブラシに紅を取り、女性独特の丸みのない体を隠すように、私はぽってりとした唇を造り出した。

下着の入っている引き出しを開け、そこに並ぶブラジャーから一枚を選ぶ。パジャマを脱ぐと、私の貧相な体が姿見に映った。

あぁ、男には私はこんな風に見えているのか……。今更ながらそんな事を思った。
肉付きの悪い体。貧相な体だ。
それでいて、刃物のように尖っているように見えた。触れてしまえば、切れてしまいそうな……。女性独特の丸みがない、こんな私の体を……。
こんな体を、男達は包んでくれていたのかと思った。

寒さで鳥肌の立つ腕を見ながら、冷たい手を脇腹に置いてみる。片手に収まる程の小さな乳房にポツポツと鳥肌が立つのを感じながら、あの夜男に抱かれたことを思い出した。

あの晩の記憶を振り払うように、ブラジャーを小さな胸の上に着け、貧相な体にボリュームを持たせた。
洋服を着る前に、胸元に香水を吹きかける。白檀の温かみのある濃厚な香り。胸元から上がってくる白檀を嗅ぐと、私の体に少しずつ血が通うような気がする。あの男に抱かれた時のように……。

***

あの日私は、一人で京都に向かっていた。博多から新幹線で三時間弱。秋の京都に向かう人間は多い。修学旅行の時期とも重なり、指定席を取ったにも関わらず、すでに5割ほど席は埋まっている。

この頃、私は一人になりたかった。
毎日毎日、家と職場の往復の生活だったが、なぜか「一人になりたい」という言葉が出てきた。どうせ家に帰れば一人なのに。
金曜の夜。
仕事帰りに博多駅でエスカレーターに乗っていると、京都のポスターが目にはいった。写真で見る紅葉の美しさに引き込まれ、私はそのまま緑の窓口で、翌日の新幹線のチケットを買った。

博多を出ると、ものの15分で小倉に着く。小倉でまた大勢新幹線に乗り込み、指定席もほぼ満席になった。3列シートの通路側に座る私の横には、中高年の夫婦が座る。その後ろ3席も、この夫婦と連れのようで、何やら大声で会話をしている。小倉を出てしばらくしても、彼らの会話は止むことはない。ワゴンサービスが通れば、5人分のコーヒーを注文し、私の目の前を5個のカップと、2本の腕が行き来する。

博多駅の売店で買った小説を閉じ、スマホにイヤホンを挿した。彼らとどこまで一緒に座っていなければならないか分からないが、寝てしまうのが一番だと思った。本当なら、彼らはシートをグルリと回転させ、向かい合わせで座りたいはずだ。こんな席を取った「みどりの窓口」の女性に毒づきたくなった。

うたうたと眠っていた私を起こしたのは、ドスの聞いた声だった。

「姉ちゃん、いい加減にしてくれんかのぉ!」

赤ら顔のおじさんが私に向かってニタニタ言ってくる。私の隣に座る夫婦が、不思議な顔を私に向けていた。恐らく、この夫婦達の連れなのだろう。

「ここワシの席じゃ。いい加減どいてくれんかのぉ!」

窓の外を見ると、「広島」と書かれた看板が見えた。小倉を出てから1時間ぐらい眠っていたようだ。財布に入れた、切符を取り出し、荷物棚に書かれた座席と確認する。

……間違っていない。私の切符を覗き込んでくる赤ら顔の男性の顔から、アルコールの匂いがする。私の切符の隣に、自分の切符を並べる男性。

「おぉ、一緒じゃのぉ」

確かに……。完全にダブルブッキングだった。

「えっ? トミさん本当に一緒なの?」
隣に座るご婦人が戸惑いながら、私の手元に顔を寄せてくる。あらぁ、と声を上げるご婦人に、「お知り合いですよね?」と声をかける。

「そうなのよぉ。私たちは小倉から、トミさんは広島から合流してね。あなたが座っているから不思議だったけど、あなた広島で降りるんだと思ってたからねぇ……」

私は、観念して席を立った。グループなら仕方がない。私がどこか空いている指定席に移動した方がいいだろう。指定席を取ったにも関わらず、行き場を失った私は、デッキに出て車掌室を確認する。何車両も先にある車掌室。私は揺れる車内を、ピンヒールでカツカツと歩いた。途中、車掌服のような黒い制服を着た女性を見つけた。事の成り行きを話すと、一緒に確認すると言われ、私はまた新幹線の車内をフラつきながら彼女と一緒に戻る。

もと居た車両に戻ると、既にあのグループは席をグルリと回転させ、ガチャガチャと話していた。制服を着た女性が、赤ら顔の男性の切符を確認する。右手に端末を持ち、何やらピッピッと操作する女性。

私はうんざりして、デッキに出た。扉の近くに立つと、畑とオレンジや黒色の瓦が次々に流れていく。色はあるものの、何やら切なさを感じさせる色ばかりが、私の目の前を次から次に通りすぎて行った。
何が恋しかったのか分からない。ただ、私は福岡に居るのが辛くなった。煌びやかな街だが、時たま恐ろしい程に孤独を感じる。衝動に任せて新幹線に乗ったのに……。場所を変えたところで、やはり私の孤独感はなくならないのだろうか。流れていく景色を眺めながら、私はやはり寂しくなってしまった。

「お客様、大変お待たせいたしました」
制服を着た女性が、デッキまで戻ってきた。

「やはりダブルブッキングのようでして……。大変申し訳ございませんでした。本日指定席も満室いただいておりますので、グリーン車へご案内いたします。ご迷惑おかけして申し訳ございません」

苛立っていた私だったが、グリーン車を用意すると言われれば、それで満足だった。とにかく早く座らせて欲しい。私は彼女の後ろを、またフラつきながらカツカツと歩いていった。

指定席さえ満席だったのに、グリーン車はガラガラだった。各列に必ず誰か座ってはいるが、その隣には誰も座っていない。突然音が入らなくなった車内。音が入らないわけではない。ただそこに居る人々が、ひっそりとそこに佇んでいるからだ。シャラっという新聞をめくる音。それ以外、何も聞こえなくなった。

案内された席に座ると、博多駅で買った本を取り出した。カバンにしまい込んでいたストールを膝にかける。やっと落ち着いた私の体は、シートにふんわりと包まれ、暖かくなってきた。次のページをめくりたいのに、瞼が落ちてくる。何が恋しかったのか分からない。一人になりたいのに、何かが恋しかった。誰かに一緒に居て欲しいとも思う。自分の感情を認めるほどに、私の瞼は重たくなっていった。

ふと目がさめると、新幹線は岡山駅で停車していた。視界の左側に、マゼンダ色がゆらゆらしている。

「落としてますよ」

すごく上の方から声が聞こえる。低い優しい声に、背中に少しだけザワつきを覚えた。声の方を見上げると、スラリとした長身の男性が、私のストールを手に立っていた。

ひどく姿勢がいい。185センチ? いや190センチぐらいあるんだろうか。
細身のパンツに、細いストライプの入ったワイシャツ。胸元と二の腕には、あまりゆとりがない。LLサイズだろうが、それでもゆとりのない胸元に目がいく。シャツの上からも鍛えられていることが分かる体。

「ごめんなさい、ありがとうございます……」

左手で受け取ろうとすると、目の前にマゼンダがふわりと広がり、そのままサラサラと太ももの上に落ちていった。

私の膝にストールをかける男性。
その身のこなしが華麗すぎて、腕に鳥肌が立つのを感じる。秋で良かった。彼に腕は見られていない。出した左手を引っ込めることができないまま、私は彼を再び見上げた。
胸ポケットからタバコを取り出しながら、ニコリとし去っていく彼。口元の髭が可愛い。そんな髭のはやし方……。会社員ではないのだろうと思いながら、私は左手を引っ込めた。

髪が長くて良かったと思った。
タバコを吸うのなら、数分で戻ってくるだろう。彼がまた、私の横を通り過ぎるのだろうと思うと、その時自分が何をしていればいいのかと不安になる。再び、博多駅で買った小説を開き窓側に体を少し向けた。
トンネルの中を通る新幹線の窓は、鏡のようだ。彼が戻ってきたのが窓に映る。しかも通路を挟んで、隣の列に座る彼。
そんなに近くにいたのか……。

髪が長くて良かった。
左手で頬杖をつき、髪で顔を覆った。また目が合ってしまえば、私から声をかけてしまうだろう。

毒づきたくなった「みどりの窓口」の女性が、今は愛おしく思える。悪い癖だ。こうして変なきっかけで出会ってしまうと、私はどうも何かを求めてしまう。旅のせいにして、始まることもない何かを思いながら、私はその一瞬を生きようとしてしまう。
ただその一瞬、私の隣にその人が居た。
それだけの事だと思い、次の日から私の生活に戻ろうとする。

癖が悪い……。

もう、京都までは寝てしまおう。そして、京都に着いたら色鮮やかな街を見よう。そうすれば、私の心もきっと満足してくれるだろう。

次に目が覚めた時は、新大阪だった。ホームを見ると、乗車しようとする人の列が流れていた。しかし、グリーン車に乗ってくる人は少ない。少し体が火照っている。私は、胸まである髪の毛を後ろでひっつめた。

隣の列に、まだ彼が座っているのが視界に入る。東京行きの新幹線だが、どこまで向かうつもりだろう。まさか、東京までは……。それなら飛行機の方が断然早い。
博多を出て2時間以上経っている。少し暑すぎる車内で、化粧が崩れているような気がして、ポーチを持って化粧室に向かった。あと15分で京都だ。このままでいい。このまま何もしなければ、私は無事京都で一人、また孤独を感じられるだろう。

しかし、私が車両に戻ると、長身の彼がひょこりと顔を出してきた。髭を少し蓄えている割に、人懐こい顔をしている。目だ。おそらく、幅の広い綺麗な二重の目が無邪気な印象を与えるからだ。

手招きをする彼に、私はそのまま彼のシートの横に立った。

「どうぞ」
座れと促され、私は彼の横に座る。

「どこまで行くの?」
「京都ですけど……」
「やっぱり。今日の夜、何か予定入れてる?」
「いえ……。何も考えずに来たので……」

彼は、スマホの画面を私に見せてきた。
高台寺のライトアップの情報が出ている。

「キレイ……」
「でしょ? これ見に行こうと思って。一緒に行く?」

いつの間にやらフランクに話しかけてくる彼に、嫌悪感はない。彼自身の予定を伝えられ、夜7時にまた京都駅に来るように言われた。

車内アナウンスが、もうすぐ京都に着くことを告げる。荷物をまとめに戻る私に、彼は席を立ちながら最後に言った。

「これ、持って行きなよ。そのストールじゃ寒いから」

そう言われ、カシミヤのマフラーを首に巻かれた。並んで立つと、彼の胸が私の目線に来る。この人は、「手渡す」ということをしない。必ず、自分から事を済ませてしまう。まるで、父親が子供にするように、全てやってしまう。そうして、髭を蓄えた口元を、少し上げる。
こんなものを巻かれたら、夜7時の約束を守らなければならないじゃないか……。

首元から、白檀が優しく香っていた。

一人で回る京都は、美しかった。
嵐山の渡月橋を渡る時は、人酔いするかと思うほどだったが、壮大な嵐山は豆粒のような私たちを優雅に見下ろしていた。油絵のような山肌。ブラシでボトボトと絵の具を置いていったように色が混ざり合っていた。種類の違う木たちが、こうして一斉に色を変えても調和が取れてしまう……。

昼過ぎに京都に着いたが、一人で回っていても、あっと言う間に日が暮れてしまう。私は結局見たい場所を全て回れないまま、京都駅に戻ってきた。彼に京都駅で拾ってもらい、そのまま高台寺に向かう。タクシーの中で、私は思い出したように彼に聞いた。

「ところで、お仕事って何を……?」
まったく、良く知りもしない男と、よくこんな場所まで来たものだと思う。

「あぁ、ミュージシャンなの」

ミュージシャン……。そう言われても、なんだかくすぶっているイメージしか湧いてこない。

「何を弾くんですか?」
「ピアノ。今日はホテルで仕事があったから」

それ以上、聞かなくてもいいと思った。どうせ、もう会うこともない。それに、詳しく聞いたところで、私の心が乱れるだけだ。

高台寺に着いてタクシーを降りると、足元からシンシンと寒さが襲ってくる。私は、ふと首に巻いたままにしていたマフラーを思い出した。見上げるほどに背の高い彼は、ロングコートの襟を立ててはいるが、ネクタイを外した首元から体の熱気が出て行くように見える。

「ごめんなさい、マフラーありがとうございました」
「あぁ、大丈夫だよ。体でかいから。冷えるから、つけてて」

体でかいからと言われれば、「そうか、大丈夫なのか」と納得してしまう。まだ白檀の濃厚な香りは残っていて、私はその温かな世界に留まることにした。

「はい」

そう言って手を差し出してくる彼。
ため息をつきそうになる。いつだってそうだ。女慣れしている男は、こうして手を差し伸べてくる。そして、それを何の抵抗もなく受け入れてしまう私。

癖が悪い……。

それは、彼も私も同じだ。
ただ、この時間私の隣にこの人がいる。それでいいじゃないか。そう思おうとする。

どんどん冷えていく手を繋いだまま、自分のコートのポケットに2人分の手を突っ込む彼。人混みの中にいても、頭一つ出てしまう彼は、サクサクと人混みをかき分けて前に進む。

連れてこられた池の前に立った時、私はあまりの美しさに涙が滲むのを感じた。木の下からライトアップされた染まった葉は、水面に映し出される。池を挟んで、対称に広がる燃える世界。境目がどこか分からないほど、完結した世界だと思った。鏡を水面に置いたように、現実の世界をそのまま映し出してしまう水面。水面の方はゆらゆらと揺れて妖しげだ。

現実と、池の中の世界を行き来する私の目。
私はこうして、現実と夢の狭間が分からないまま、池の中に落ちていくのだろうと思った。

「ごめんね、俺デカいから後ろの人見えないんだよね。行こうか」

しばらく見とれてしまっていた私を、彼は人混みから引きづり出した。もう少しだけ……。もう少しだけ見ていたかった……。
今日ここに来るまでに、色んなことがあった。
ぺちゃくちゃと喋る、おばさん達。赤ら顔でアルコールの匂いを私に吹きかけてきたおじさん。新幹線の窓から流れる様に去っていった、寂しい景色たち。丁寧に私に頭を下げていた、車掌服の女性。目の前でふわりと落ちていった、マゼンダ色のストール。新幹線の窓ガラスに映った彼の姿。ブラシでベタベタと絵の具を落とした様な山肌。

その全てが、夢だった様に思えてくる。

もう少しだけ……。
もう少しだけ、私はこの池のような、訳の分からないゆらゆらとした世界の中で溺れてみたかった。

高台寺を出て、またタクシーを拾う。

「一緒に来る?」

この人は、今日一日ずっとこうだ。問いかけながら私には選択肢を持たせてくれない。運転手は既に彼のホテルに向かっているのに……。

今後会うつもりもない女を抱く男が居て、それを素直に受け入れてしまう女が居る。それだけの事だ。

汗ばんで強い白檀の香りを放つ彼の胸。先ほどまで、ネクタイを外した首元からふわふわと出ていた熱気が、私の上に落ちてくる。冷え切った私の体とは対称的に、熱を帯びる彼の体はちょうどいい。触れられる度にポツポツと浮き出る肌。ふわりと丸みを帯びてくる体。汗のにじんだ体に、長い髪がまとわりつく。冷たい体は、きっと刃物のように尖っていたはずだ。触れてしまえば切れそうな私の体を、そうして熱を持って抱いてくる男。きっと明日には、もうどこの世界で生きているかも分からない男だ。
それなのに、溺れてもいいと思った。明日の朝、日が昇れば池の中の世界は薄くなっているだろう。それでもいいと思った。ただ、今私の目の前にこの人が居る。それでいい。私はこの妖しい水面の世界で溺れてみたかった。

***

私は今日も、言い訳をしている。

女に生まれた以上、恋をするのは仕方のないことだ。たとえそれが、始まらないものでも、その瞬間に落ちてしまったのならしょうがない。寝る前には彼のことを想い、そして朝起きれば彼から連絡が来ていないかと携帯をチェックする。そんな事の繰り返しだ。

胸元に白檀を吹きかけた後、一枚また一枚と洋服を着た。

コートを着る前に、もう一度化粧台の前に座る。
貧相な体を隠す様に、ぽってりと造り込んだ唇が顔についている。

アイラインを再び手に取り、私はもう一度目尻にラインを重ねた。
目の縁の境目を濃ゆくする。

そうすれば、私の目に映る世界が、少しだけ現実味を帯びる様な気がした。

***

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