母を赤ちゃん抱っこ《ふるさとグランプリ》
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記事:なかおかともみ(ライティング・ゼミ平日コース)
「わたし、赤ちゃん抱っこしてもらったの」
妹が言う。
「誰に?」
「お母さんに」
「えっ、お母さんに赤ちゃん抱っこしてもらっているの?」
3歳の娘を育てる妹の様子が、最近、変わった。
時々見えていた、ぴりぴりとしたところがなくなり、いつもゆったりとしている。
何かあったの、と尋ねると、にやり、と笑って教えてくれた。
通っている子育て講座で、講師がある日、こんな提案をした。
「みんな、お母さんに赤ちゃん抱っこをしてもらって!」
子どものころに満たされなかった思い、母から与えられなかったと感じている愛情。
誰にでもある、その満ち足りない思いを、母になった今、自分の母に抱いてもらうことで満たしていく。
そうしたら、子供にも無理なく愛情が注げるようになる。
だからぜひ、試してみて、という話だった。
「そんなの、ムリ」
「恥ずかしくて、言えないよ・・・」
ほかのメンバーのざわめきを聞きながら、妹は、よし、と心を決めた。
そうと決めたら、彼女は早い。
その足で実家に寄った彼女は、母に言った。
「お母さん、赤ちゃん抱っこして」
ちょっと驚いた顔をした母は、でもすぐに、うん、いいよと、正座した。
膝の上に座る、妹。
妹を、抱きかかえる母。
「それでね」
と、妹は言った。
「すごく気持ちが安定したんだ。姉も、次に帰省したら、やってもらったらいいよ」
「ん……そうだね。考えておくわ」
そのときわたしは、帰省先の北海道に向かう、車中の人だった。
そんな会話を思い出すうちに、ふっと、気が付いたことがあった。
「たくさんの愛情を、わたしは受け取っていなかったんだ」
家族や友人、恋人や夫。
たくさんの人がわたしを大切に思い、愛してくれていた。
でもわたしは、愛情が注がれるグラスが、まだ満杯にならない、まだ足りないと、満ちていないところを眺めてばかり。注がれていた愛には目もくれず、いつも不足感を募らせていた。
細めたまなざし、会話の断片、優しい手の感触。
そんないくつもの、あたたかい思い出がわきあがる。
受け取らずにいた愛情は、止まっていたダウンロードを再開したように、わたしの中に一気になだれ込んできた。
そのたっぷりとした愛情は、わたしのグラスを溢れさせた。
マスカラが落ちるなと、心の片隅で思った。
でも、嗚咽とあふれる涙は、止められなかった。
「……という、面白い体験をしたんだよ」
帰省先の実家で、姪を抱っこする妹に、移動中の体験を伝えてみた。
「誰もが愛されたいんだ、って思ったな。ひとを愛するためには、自分がまず愛されていることを感じて、満ち足りるのは大事なんだって、実感したよ」
「なるほどねえ」
妹は頷きながら、言葉を継ぐ。
「それはそれとしてさ、姉も赤ちゃん抱っこ、してもらったらいいんじゃないの?」
ストレートな妹の言葉に、考え込んだ。
赤ちゃん抱っこをしてもらいたい? と、自分の心に聞いてみる。でも、必要な気がしない。だってわたしのグラスは、もう、満たされたから。
「それよりも……」
口からもれたのは、こんな言葉。
「むしろわたしが、お母さんを抱っこしてあげたいな」
「お母さーん」
即座に妹は、叫んだ。
「おねーちゃんが、お母さんを赤ちゃん抱っこしてくれるって」
台所からきた母は、少しおずおずとした顔だった。
はい、と笑って、正座するわたし。
「改めて言われると、なんだかすんなりとできないね」
と、照れ笑いをする母。
いいからやんなよ、と、妹にせかされ、膝の上に母が乗る。
母は軽かった。
こんなに小さかったんだ。
わきと膝に手をまわす。身体をしっかりと抱きかかえた。
ぎゅっと、母がしがみついた。胸元に顔をうずめた。
わたしは、小さい子供にするように、ゆっくりと母の背中をなでた。
姪が笑いながら、嬉しそうに叫ぶ。
「ばーちゃん、あかちゃんだっこだー」
ややしばらくの時間が過ぎて、母が顔をあげた。
膝から降りて、正座した。
目には涙。
「あったかいね」
涙がぽろりと頬にこぼれる。
「お母さんが小さいころ、ばあちゃんは農家で忙しかった。愛情がなかったわけじゃないと思う。でも、構う余裕がなかったんだ。おじちゃんは七歳下で、そのころには、忙しさも落ち着いていたから、よく抱っこしてもらっていた。でも、わたしはね……。
いま、抱っこされて、お尻から、あったかいものが伝わってきたの……」
それだけ一気に言うと、母は絶句した。
そして静かに、泣き始めた。
成田から、都内に向かう電車の中。
季節が戻ったような北海道から帰ってくると、関東はすっかり春めいていた。
窓から車中に差し込む日差しが、あたたかい。
いつも心配する母に、無事に着いたとメールした。
返事は、一言。
「満たされたよ。ありがとう」
陽の光に照らされながら、ひとり、笑みがこぼれた。
先週は泣きながら乗っていた、この電車。
帰りには、愛することを知りそめたわたしをのせて、のびやかに走っていった。
***
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