プロフェッショナル・ゼミ

20年前に銀座の街で高い授業料を払って学んだこと《プロフェッショナル・ゼミ》


*この記事は、「ライティング・ゼミ プロフェッショナル」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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【東京・福岡・京都・全国通信対応】《日曜コース》

記事:中村 美香(プロフェッショナル・ゼミ)

「こんにちはー! お話し中恐れ入ります。私、こういうものです」
まるで、劇団員が、急に、現れたかのように、その場の空気が変わった。
仲の良いママ友と、家の前で立ち話をしていた時のことだった。
その男は、首から下げた名刺のようなものを見せながら、満面の笑みで、自己紹介を続けた。
怪しい……。
私は、絶対に、何かを売りつけるつもりで、男がここに居るんだと思った。
絶対に騙されないぞ!
私は、心にシャッターを下ろして、死んだ魚のような目で、話を聞き流した。
ママ友は、その男の話をしっかり聞こうとしていた。
男は、私とママ友の、話を聞く姿勢の違いを感じ取ったのか、明らかに、ママ友の方に体を向けて話し続けた。
新聞の勧誘だった。
「今、ご契約していただいくと、野球観戦のチケットも、遊園地のチケットもお付けできます! 3か月の契約でもいいので!」
練習してきたのだろうかと思うほどの笑顔を崩さず言った男の背に向かって、私は
「興味がないので、お断りします」
と、冷たく言い放った。
ママ友は、私が、あまりにも冷淡に応対することに、少し戸惑いながらも
「うちも、今、取る気ありません」
と、慌てて言った。
「あーそうですか……わかりました。また、お願いしますね!」
その男は、意外にも、あっさりと諦めて、去って行った。
「すごいね! きっぱり断ったね。私は、向こうのペースに巻き込まれがちなんだよね」
「怪しいと思ったら、早めにバリアーを張って、話をちゃんと聞かない、と言うか、話をさせないんだ、私は」
「すごいわ」
“すごい”の意味が、断ったことに対してなのかなと思いながら、もしかすると、私の顔のことを言っているのかもしれないと思って、少し恥ずかしくなった。
「でもね、前は、そうでもなかったよ。騙されたこともあるしさ、しかも、結構、大金!」
「えー本当?」
「あんまり、思い出したくないんだけどさ……」

あれは、私が、23歳の時だった。
会社の他の部署の上司が、転勤になるというので、送別会に誘われた。
新人の時は、余程のことがない限り、会社の送別会には、誰の会であろうと問答無用で、行かなくてはいけなかった。けれど、3年目になって、断っても大丈夫な権利を得た。
その上司のことを、私は、あまり好きではなかった。
人を差別する人だったからだ。
いや、あれは、差別ではなく、単なる本能による区別だったのかもしれない。とにかく、美人とそうでない人物に対する態度があまりにも違いすぎて、不愉快だったのだ。
私にできることは、送別会に出ないことくらいだった。
もちろん
「ご栄転おめでとうございます。本日は、どうしても外せない用事がありまして、送別会を欠席させていただきます。お元気で」
という社交辞令の挨拶はした。
「ああ」
と、一瞥だけされて、ムカついた。
挨拶すらしなきゃよかったと思った。

外せない用事なんて、嘘だった。
嘘をついて出て来た会社のドアの外には、生ぬるい風が吹いていた。
このまま、まっすぐ帰るのも何だか寂しい、本屋にでも寄って帰ろうか。
そんな風に思って、ぼんやりと、銀座の街を歩いていた。
いつもは、視線を、まっすぐ駅に向けていたけれど、もしかすると、その日は、暇そうな雰囲気を醸していたかもしれない。 
「こんにちは。会社帰りですか? お疲れさまです」
行く手を遮るように現れた中年の女に声をかけられた。
「はい、そうですけど」
「お買い物ですか?」
「別にそういうわけじゃありませんけど……」
さっき、滅多につかない嘘をついて、少しの後ろめたさがあったからかもしれない。この女の質問には、正直に答えてしまった。
その時
「急いでいますので」
と、言うなり、無言で立ち去れば、あんなことにはならなかったのに……。
私が、半ば、無目的に歩いていると感づいた女は、
「ファッションとか、スキンケアとかに興味はない?」
と、急に、親し気に話しかけてきた。
全く興味がないと言っては、嘘になる。
「スキンケアには、少し、興味あります」
そう答えて、私はロックオンされた。
「そうだよね。今さ、お肌見せてもらうと、結構ニキビあるね? どうやってお手入れしてるの?」
「今は、結構、ニキビが酷いので、その部分はファンデーションを避けて、ニキビにはオロナインH軟膏を塗っています……」
私が、そう言うと、女は
「えー!」
と、大袈裟な程、驚いた。
オロナインH軟膏とは、子どもの頃から、擦り傷や切り傷、あかぎれなどに塗っていた、私にとっては馴染みの深い軟膏だった。
「え? そんなの塗ったらダメよ!」
大きなミスを犯した人を見るような目で、私を見ながら、その女は言った。
「え? そ、そうなんですか? だけど、ニキビにも効くって書いてありましたよ!」
私は、動揺した。
女は、目を瞑りながら首を横に振って
「そんなの塗ってたら、お肌がボロボロになっちゃう! 私ね、この近くでサロンをやっているの。ちょっと、寄って行って! 簡単なアンケートに答えてくれたら、つるつるすべすべのお肌になれるお手入れの仕方をアドバイスしてあげられるから!」
後で考えれば、そんな話で、ついて行くなんて本当にあり得ない! よくある手口だ!
だけど、その時の私は、信じていたオロナインH軟膏を、美容のプロと思われる女に全否定され不安でいっぱいになっていた。
このニキビで真っ赤になっている頬っぺたが、つるつるすべすべになったとしたら、どんなに素敵だろう! アンケートに答えたら、アドバイスがもらえるんだとしたら、いい話だ! とさえ思ってしまったのだ。
雑談をしながら、信号一つ渡ったところの、ある雑居ビルに、女と入った。

エレベーターで、5階についた。
そこには、所狭しと、テーブルひとつに対して椅子がふたつのセットが、3組ほど並んでいて、その奥に、エステの施術スペースがあった。
「どうぞ、こちらに」
女は、私を奥の椅子に腰かけさせた。
「アンケートはこちらになりまーす」
陽気にそう言った女からもらった紙には、スキンケアについての質問が並んでいた。
それを、ひとつひとつ丁寧に回答した。反対側の席に座って、その様子をいちいち眺めながら
「へーそうなんだ」
「あーそっか」
なんて、オーバーアクションで、反応していた。
根っからの営業向きと思われる彼女に、その時は、嫌な感情は不思議と持たなかった。
アンケートを全て書き終わると、彼女は、もう一度、くまなく目を通し
「もったいない」
と、ため息交じりに言った。
「もったいない! ちゃんとしたお手入れをすれば、きれいになれるのに! 今日、出会えて、お勧めする機会を持てて、本当によかったわ!」
と、顔の表情筋をこれでもかと使いながら言った。
そして、彼女の持っていた紙袋から基礎化粧品のパンフレットを出して、テーブルに置いた。
「これはね、うちの店長が、吟味に吟味を重ねて、フランスから直接輸入している製品で、お客様にとても喜ばれているものなの」
「ふーん」
私は、イマイチぴんと来ずに、ぼんやりとそのパンフレットを眺めていた。
すると
「ちょっと待ってね」
と、言って、その化粧品の現物を女は持ってきた。
「ちょっと手を出して」
女は、化粧品の蓋を開けると、私の手の甲にそれをつけた。
「馴染ませてみて! どう?」
そりゃ、仕事の後の乾燥している手につけりゃ、なんだって、一瞬は、みずみずしくなる。
「あ、しっとりしますね」
「でしょ?」
満足気に、女が頷いていた。
そして、私が、うっかり口を滑らせてしまった。
「この化粧品だけ使っていれば、効果はあるのですか?」
女の目が輝いた。
「このね、化粧品もすごくいいんだけどね。スペシャルケアとして、特別なものもあるのよ」
「そうなんですね」
「ひとつ、クイズです!」
女が、突然、そう言った。
クイズと言われると、答えたくなるのが、人間なのかもしれない。
「化粧品を毎日使い続けるのと、このスペシャルなエステを1回受けるのとでは、どちらが効果が高いでしょうか?」
「うーん……」
私は、考え込んでしまった。
「わかりません。どっちなんですか?」
「さあ、どっちでしょうね? 一度、化粧品も、エステも使ってみたらわかるわよ」
女は満面の笑みでそう言った。
もう、この時点で、1回、化粧品を使ってみてもいいかな? と思い始めていた。
エステも、少しだけ、興味がある。でも……
「結構、お値段高いんですよね?」
「そんなことないわよ!」
目の前のカモが、商品に興味を示しだしたからか、女は、余裕の笑顔で、電卓をたたいた。
「とりあえず、お化粧品3か月分とエステが3回でこちらです」
女が示した電卓には、200,000円と表示されていた。
高い!
「ちょっと、それは、無理です! 払えないです!」
私は、夢から醒めたように感じながら、そう言った。すると
「大丈夫。分割できるから。月にいくらなら払える?」
と、女が、切り返してきた。
分割……。
分割には、抵抗があった。金利を払うなら、一括の方が得な気がする。だけど、一遍に200,000円は、痛い。
「10,000円くらいですかね?」
「10,000円かあ。そうすると……」
女は、慣れた手つきで電卓を叩き
「大丈夫! 1回目だけ11,840円だけど、2回目からは、9,600円! 24回払い!」
「うーん」
分割払いはしたくない……。
だけど、綺麗になりたい……。
月9,600円なら払える……。
「……じゃあ、買います」
落ちた……。

契約書にサインをして、3か月分の化粧品を手にして、笑顔で見送られた。
雑居ビルを出た時、 暗くなった街を見て、胸がギュッと締めつけられた。
ついさっきまで、夢を見させてくれていた化粧品がずっしり重く感じ、何故か不安になった。
買っちゃった……。
分割……。
あ、これ、お母さんに、なんて説明しよう……。
悪いことをしているわけではないと思ったけれど、なんとなく、後ろめたかった。
家に帰ったら、とりあえず、隠そうと思った。
そして、こっそり、使おうと思った。

正直言えば、化粧品の使い心地は、悪くはなかった。
良いとも思わなかったけれど、ニキビが治らなかった代わりに、悪化もしなかった。
その店も、別に、急になくなったりもしなくて、エステも、3回しっかり受けられたし、それなりに気持ちもよかった。
だけど、決定的な欠点がなかったからこそ、次から次へと、継続やオプションを勧められて、毎回少しだけ、抵抗しながらも、丸め込まれてサインした。
言い訳ができないのは、決して、脅迫されたとか無理矢理ではなく、その空間、その瞬間では、自分がその商品を「欲しい」と思ってしまった結果だからだった。
雑居ビルを出る度に、少しずつ、心の一部が、蝕まれていくように感じた。

化粧品に加え、エステの回数も追加し、フェイシャルエステだけではなく、ボディエステも受けた頃、怖くて計算できていなかった電卓をたたくと、ローンは、700,000円に膨らんでいた。
ニキビも全くよくならなくて、その頃は、ストレスがたまっていたからか、悪化すらしていた。

今日こそは、断るぞ!
行ったら、継続を勧められると思われる日に、何があっても、絶対に継続はしないと心に決めて臨んだ。
施術が終わった後、お茶を飲みながら、継続の話をされる段取りだった。
いつもは、多少、リラックスしながら受けるフェイシャルエステも、その日は、全くリラックスできなかった。
多分、こいつは、今日も簡単に継続の手続きをするだろう! と、高を括られている雰囲気は、嫌と言う程に感じていた。
だけど、私は、言ったのだ。
「継続はしません」
営業担当のあの女は、驚いていた。
ここまで、頑張ったのに、ここで辞めたら、全てが水の泡だよ! と、言った。
それでも、
「継続しません」
と、私は言った。
いつもと違って、何を言っても、私の意志が固いと思ったのか、女は、店長を呼んできた。
店長の表情には余裕があった。自分に掛かれば、どんなに手ごわい客にだって、判を押させられるという、自信すら感じた。
でも、私は、負けるわけにはいかなかった。
首を縦に振らない私を、店長は、恐ろしい理屈で脅してきた。
例え、大金をはたいてでも、今、自分に投資をして、綺麗になって、玉の輿に乗れば、元が取れると言い出した。さもなければ、ろくな人生は待っていないと言った。
それでも、継続しない私に、激しく苛立ちながら、私が頑固なせいで、忙しい自分の時間を無駄に使うなんて信じられないとさえ言った。
悔しかった。
だけど、この人と、もうこの先、関わりたくないと思った。
「絶対に、継続しません」
自分が、ヒステリックになっても、折れない私に、ついに、店長は諦めた。
だけど、最後に、舌打ちをされた。

あの日、上司の送別会に素直に行っていれば……。
道をぼんやり歩かずに、まっすぐ帰っていれば……。
もし、あの女に心を許さなかったら……。

大金を失い、ニキビも治すことができずに、私は、しばらくの間、その出来事を恨んでいた。

その後、皮膚科に行って、ニキビは、たいぶよくなった。
そして、自分に合った化粧品とも出会い、スキンケアも楽しめるようになった。

月日が経って、あれは、なんだったのだろう? と、ふと思った時、不思議なことに、騙されて悔しいと思う自分と、あれは、騙されたのではないのだと思う自分が、両方いることに気がついた。
700,000円という高い授業料だったけれど、それを払って、むやみに人を信じてはいけないということを学んだのだ! そう思いたい自分がいた。

騙す。
騙されて契約する。

勧める。
いいなと思って契約する。

このふたつは、紙一重なのかもしれない。

他人から見て、明らかに騙されていたとしても、その人が幸せにお金を使っていたらいい気もするし、決して、騙したわけでないのに、納得せずに、騙されたと思い込む場合もあるだろう。

全ての話をシャットアウトしていたら、本当に必要な話さえ逃してしまうかもしれない。
そうかといって……。

「そうだったんだね。騙されることってあるよね。私もさ、つい、いいなって思って、契約しちゃう時あるよ」
私の話を聞いてくれたママ友は、苦笑いしながら、言った。

数日後
「結局、新聞、契約しちゃった」
ママ友が、少し恥ずかしそうに言っていた。
「そうなんだね」
新聞に載っていたある日の記事が、彼女にとって有益な情報で、それを読んだ彼女が、もしも、笑顔になれたら、それでいいなと思った。

***

この記事は、「ライティング・ゼミ プロフェッショナル」にご参加いただいたお客様に書いていただいております。
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