プロフェッショナル・ゼミ

拝啓、あの頃のおばちゃんたちへ《プロフェッショナル・ゼミ》


*この記事は、「ライティング・ゼミ プロフェッショナル」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

【8月開講】人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ《日曜コース》」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

記事:ノリ(プロフェッショナル・ゼミ)

「自分にできることなんか、何か、あるのかなって悩んでて」
仕事で知り合った27歳の女の子、華さんと私は、駅に向かって歩いていた。
「えー! まだまだこれから何でも試してみればいいじゃん!」
「でも入社する先々がブラックだったっていうか……。なんだかもう、気持ちが折れちゃって」
「ゆっくり探せばいいよ! 必ずあると思うよ!」
「そうですかねー。私全然才能ないし、ホントに仕事できないんです……」
「みんな誰でも最初はできないもんなんだよ!」
「うーん、でも……」
「華さんがこれだ! ってのが、絶対あると思うよ」
「そうですかねえ……」
30歳を手前に将来に悩む華さんに向かって、思わず口から出た言葉に、私自身が、あっと思った。

それは、十数年前。
私が野良猫だった頃の話だ。

大学卒業後、上京し、就職したデザイン会社を3ヶ月で辞めてしまった私は、毎月毎月逃げるようにバイトをした。

他でもない、毎月の家賃からだ。

水道代込みで7万2000円。
「便利いいもん! 高いよねー!」
友人に言わせると、そうらしい。確かに上京した大学の友人の中では、一番高かった。それもこれも、就職先の場所と給料を見込んでのこと。しかし、私はその就職先から逃げ出した。それならもっと家賃の安い部屋を探せばいい。しかし引越しにはお金がかかる。貯金はない。貯金をするためと、バイトに明け暮れた。

一方で私は、3ヶ月で辞めたとはいえ、大学で勉強したグラフィックデザインの仕事をあきらめたわけではなかった。毎週、就職情報誌をチェックして、履歴書を送り、バイトの合間に面接に行った。デザインの課題をもらって提出したり、適正テストを受けたりすることもあった。しかし一向に就職は決まらなかった。けれど就職活動をやめるわけにもいかなかった。それでも送り返されてくるのは履歴書ばかり。そのうち就職活動は、趣味の一つのようになっていった。

夜、会いたくなっても訪ねていける仲のいい友達はいた。「お前は苦労が足りない」というのが口癖の、怒ってばかりいる彼氏もいた。電話すれば、米を送ってくれる実家もあった。

しかしお金はいつもなかった。
まず私には生活力がなかった。知恵がなかった。経済観念がまったくなかった。料理が不得意で、実家から送られてくる米しか食べていなかった。美容院に行く余裕がなく、伸ばしっぱなしの長い髪を、頭の上でグルグルと巻いたお団子ヘアにしてしのいでいた。化粧品が買えずにあまり化粧もしていなかった。お団子ヘアに、痩せ細った棒のような体をしていたから「マッチ棒」と呼ばれたことは一度ではなかった。

私が正社員であろうとバイトだろうと、毎月の家賃がなくなることはない。余裕のある生活のためにバイトを増やして、増やしたバイトで疲れた。疲れるとお金を使った。いつの間にか手持ちのお金はなくなっていて、働いても働いても、貯金が増えることはなかった。

「それでも、無駄なことなんてなにもないのよ!」
そう教えてくれたのは、花屋の仕事で一緒だった石井さんだ。書道に華道、茶道と多趣味で、そういう経験からくるのだろうか。いつも柔らかく、余裕のある空気をまとっている人だった。
家が近かった石井さんは、海外に留学した後、現地で就職してなかなか帰ってこないという息子さんと私が同い年だと目をかけてくれ、よく近所のファミリーレストランでごちそうしてくれた。そして就職活動がうまくいかない私を励ましてくれた。
「子供が小さい時にね、主人が単身赴任だったからほんとにもう大変だった」
「うちも単身赴任でした。母親も大変だったと思います」
「まあ! お母様も苦労なさったのね」
「そうだと思います」
「でもそれも、今ではいい思い出。なんならもっと苦労しておいてもよかったっていうくらい!」
「そうですか!? 私もそう思える時が来るかなあ」
「ウン十年生きてきたからわかるけど、無駄なことなんてなにもないのよ!」
子育ての大変だった時期を振り返りながら、そう言って微笑む石井さんの言葉は、すんなりと私の血に、肉になった。ジョナサンのハンバーグセットと一緒にだ。

「謝ったって、死ぬわけでもないんだから」
こんな言葉が口癖の山本さんとは、印刷会社のバイトで知り合った。若手社員に、たくさんのパートさんが働く職場。絵に描いたような女の職場だった。あちこちで派閥を組むおばちゃんたちの中で、山本さんは一人、群れないおばちゃんだった。長年同じメンバーで働くパートさんの中に、繁忙期だからとポッと入ったバイトの私は、いろんな人と仕事を組まされた。山本さんは陰でみんなからこう呼ばれていた。

「鬼の山本」

山本さんは、とても仕事が早かった。その実績が認められてか、パートさん数人のチームリーダーになっていた。しかし、馴れ合いで仕事をするのが嫌いのようだった。チームの人にも厳しく指導していた。チームプレーで行う仕事は、優秀な一人がいれば成り立つわけではない。山本さんのチームも他のチームと同じように、ミスを出すのを何度も見た。それでもリーダーとして怒られるたびに山本さんはこう言って、飄々とタバコをふかしていた。
「いくら謝ったって、死ぬわけでもないし」
カッコイイ! 大好き!
私のそんな思いが通じたのか、「独り者同士、仲良くしよう」と言って、山本さんは、よくお酒を飲みに連れて行ってくれた。こういう場合、仕事場のおばちゃんの悪口なんかになりそうなものを、山本さんは仕事の話は一切しない。
「ここ、昔きたんだわ」
「えっ! もしかして旦那さんと」
東京に雪が降ったら一番に除雪車が来るという坂の途中にある、小洒落たお店に連れられて私は、「蟹しゃぶ」なるものに、生まれて初めて対面していた。
「はい今! 今食え!」
言われた通りのタイミングでお湯から引き上げ、半分透き通ったカニをモクモク食べながら、数年前に亡くした旦那さんとの馴れ初め、息子が生まれた時のこと、旦那さんの仕事のこと、それから最期のこと。私は聞いているだけだったけど、山本さんは満足そうだった。

「アイツはたいして化粧も時間かかんなそうだし、すぐ来るでしょ!」
寝坊して遅刻の連絡を入れた私を、そうフォローしてくれたのは、美術館の監視員のバイトが一緒だった、伊藤さんだ。伊藤さんは、二十代の女の子ばかりが集まるバイトの中で、長年この仕事を続けているというベテランだった。

東京で生まれ、東京で育った伊藤さんは、東北なまりのとれない私を面白がって、よく田舎の話を聞いてきた。交代で取る休憩時間が一緒になると、話題はいつも、田舎のこと。雪がどのくらい降るのか、冬の寒さはどんなもんか。名物料理はなにか。名物料理をいつも食べているのか。夏は過ごしやすいのか。そして、方言講座。

「ウッソー! 信じられない!!」
「そうなんだー! ゲロゲロって感じ!!」
「芋煮会? なにそれ? 会員制のクラブかなにか?」
生まれ育った私にしてみれば当たり前のことに、伊藤さんは、いちいち驚いてくれる。そのちょっと古くて、でも面白いリアクションにのせられて、休憩時間は、いつもあっという間に終わってしまった。

「ちゃんとご飯食べてんの?」
伊藤さんは毎日、挨拶代わりに私の背中やわき腹、肩や二の腕をつかみながら、こう聞いてくる。これが伊藤さんではなく、おじさんだったら大きな問題になるだろう。
「ええ、まあ、米だけはちゃんと……」
「はあ? ちゃんと野菜食べなさい! あと魚!」
「野菜高くて。魚もさばけないし」
「あー! まったく!」
次の日伊藤さんは出勤するなり、私に重くて大きなビニール袋を預けてきた。中身は、シーチキン、サバ缶、焼き鳥などの、大量の缶詰だった。

おまえら、私と一緒だな。

私の住んでいた部屋は、隅田川の東の、下町にあった。

私は電車代を節約するために、よく自転車でバイトに通っていた。都心に出るのには、必ず隅田川を渡る。橋のたもとには、だいたい野良猫がいた。帰り道、よく野良猫をかまった。といっても、自分のごはんもままならない私は、もちろん、猫にやるエサはない。
それでも人懐っこく寄ってくる猫のゴワゴワした毛をなでながら、ボーッと川を眺めるのは、結構楽しい時間だった。そして、野良猫のいるあたりには、草の陰やなんかに、缶詰の空いたのとか、エサの入っていたビニールが散乱していた。誰かがエサをやっているのだ。結構いいもの食べてるなと思いながら、野良猫たちに、ものすごく親近感を覚えた。

おまえら、私と一緒だな。

監視員のバイトは、美術展の会期が終わるのと同時に終了した。期間にしたら、3ヶ月もなかったと思う。伊藤さんとは、それっきり会っていない。

数々のアルバイトを転々とする生活を4年ほどした私は、東京の部屋を引き払って田舎に戻った。同時に、おばちゃんたちとも離れてしまった。しばらく年賀状のやりとりがあったおばちゃんもいたけれど、同じ仕事をしていただけの仲だ。次第に連絡は途切れ、私もそれ以上、追いかけることはしなかった。

それから私は、グラフィックデザイナーではないものの、これと決めた定職について、それなりに生活してきた。ちゃんと食べて、太って、棒のような体ではなくなった。化粧品も多くはないけれど、買えている。ありあまるほどではないけれど、困らないだけのお金はある。
私は野良猫ではなくなったのだ。

あれからいろんな環境で働いたけれど、どこへ行っても年上の女性に苦手意識を持たずに接することができるのは、いつも親切にしてくれたおばちゃんたちのおかげだ。そして、おばちゃんたちからもらった言葉は、私をいろんな場面で支えてくれてきた。

猫は飼い主の恩を三日で忘れるとも、十日で忘れるとも聞いたことがある。しかし私は、あのおばちゃんたちを忘れたことはない。私をつくってきたのは、おせっかいで、太っ腹で、やさしくて、素敵なおばちゃんたちだった。

そうして私は先日、40歳になった。年齢から言えば立派なおばちゃんかもしれない。けれど、今、目の前に、あの頃のおばちゃんたちはいない。ここまで生きてこられた感謝を伝えることができない。もう、連絡することも難しいだろう。

「なんか、いつも重い話になっちゃって、すみません」
「そんなことないよ。私も華さんの話聞けてうれしかったよ」
「ホントにすみません。これからどうしようって、いつも悩んでいて……」
おばちゃんの代わりに今、目の前に現れたのは、あの頃の私のような、女の子だ。

私もそういうことで、悩んでいたなあ。
そう思いながらも、華さんが生きている今と、私がかつて生きていた時代は、かなり違っていると思う。私には今の方が、いっそう、いろんなことが複雑になってきているようにも思える。何より彼女は、とても真面目で、しっかりしている子だ。ヘラヘラ後先考えずに、その日暮らしをしていた自分と一緒にするのは失礼だ。
それでも、それでもだ。目の前で悩んでいるこの人に、何かしてあげたい。力になってあげたい。元気になってほしい。こんな私にも何か、できることってなんだろ。そうしたら思わずこんな言葉が口から出ていた。

「だいじょうぶ!」

「この人に私の何がわかるんだろな」
「どうせ100%、話が通じてるわけではないんだろうな」
「だからなんだっていうんだろ?」
そんな風に思うことも、正直、ないわけではなかった。
それでも、あの頃のおばちゃんたち。
あの人たちに言われたことが、うれしかった。
ポンポンと、たたかれた肩があたたかかった。
何の根拠もないのに、ものすごく力をもらった。
そして今でも心の中に生きている、おばちゃんたちにもらった言葉が、つい口から出ていた。

「だいじょうぶ! 華さんなら大丈夫だよ!」

華さんは、はにかんだような笑顔を見せて、お礼を言うと、駅の改札口へと吸い込まれて行った。

その背中を見送りながら、気がついた。

私もこうして、見守られてきたということに。
私もこうして、許され続けてきたことに。
私もこうして、しあわせを祈られていたことに。

拝啓、ありがとう。私は元気です。

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