メディアグランプリ

仕事が嫌でたまらなかった私が行きついた仕事


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

【4月開講】人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ《日曜コース》」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

記事:吉村心音(ライティング・ゼミ平日コース)
 
 
「あああーーー! 会社行きたくない! ずっと土日だったらいいのに。カゴに閉じ込められた野生のバンビの気分」
「20代前半は悩みが多い。 あと何年かしたら『そんなこと悩んでいたの?』って思えるの? 私は何がしたいんだろう? 何に向いていて何ができるんだろう? やりがいがある仕事にいつかは就けるの? とにかく早く辞めちまいたい!」
 
通っているライティングゼミの課題レポート提出の〆切が迫っている中、書くネタが全く思いつかず、昔の日記を引っ張り出してめくってみた。
 
出だしの悲壮感に溢れた叫びは、社会人になりたての私が書いた日記だ。十数年ぶりに読んでみてビックリした。
「そんなこと悩んでいたの?」と。
 
私が就職活動をしたのは、就職氷河期と言われる世代のど真ん中だ。
同級生は、大学三年になった頃から自己分析をし、会社の情報収集をし、自己PRを考え、模擬面接を行い、OB訪問をして着々と社会に出る準備をしていたようだ。
就活勝ち組は、早々と何社も内定をもらい、出遅れ組は、焦りながら付け焼刃の自己分析と自己PRで何十社も受けては落ちていた。
 
私は完全に後者だった。
友人たちが次々と内定を決めるのを羨ましく思いながらも、自分が社会に出て働くイメージができなかった。
自己分析をすると自身の薄っぺらさに凹んだ。先が見えないのは恐怖で、就活していない友達と遊びまくり、現実逃避をして更に焦るスパイラルだった。
 
自己PRを考えても、大学時代、頑張って打ち込んだと胸を張って言えることが見つからず、
「エベレストでも登っておけばよかった」「サークル辞めなければよかった」と後悔した。
 
言い訳すると、私が中3の春から母親の闘病が始まり、大学3年の夏に亡くなったので、約7年間の間、日常生活を送るのに精いっぱいだった。
今まで世話してくれていた母が入院で不在になると、まず、ご飯やお弁当や身の回りのことが物理的に困る。自分で何とかしなければならない。
精神的にも、不安と恐怖が常に頭にあった。
そんな私に、自分がどんな人か向き合い、どんな仕事をやりたいかとか、将来のことを考える余裕なんて全くなかった。
 
出遅れて就活を始めた私は、数打てば当たるだろうと、エントリーシートを手あたり次第出した。
結果は散々だった。殆どの会社にエントリーシートの段階で落とされた。運よく面接に進んでも大抵一次面接で落とされた。
「あなたをいりません」と言われているような気がして、落ちる数を重ねるごとに凹んだ。
 
今では、見る目のある人事だったと思う。働きたい熱い想いのない会社に、何ができるのかわかっていない人が、応募しているのだから。
 
なんとか拾ってもらえた会社に就職したが、営業職は性に合わず楽しくないし、そんな状態で人間関係もなじめず、すぐに冒頭のようなやる気のない社員になってしまったのだ。
辞めたいと思いながら働くのは会社にも失礼だし自分にもよくないと思い、結局一年経たずに辞めた。
 
新卒という身分を失い、社会復帰できるのか先が見えずツラかった。
ツラさから目を背ける為に色んなバイトをし、自分探しの旅に中南米に出かけたりと紆余曲折を経て、私は国会議員の秘書になった。
議員事務所は零細企業のようで、人手が足りないので年齢や経験に関係なく、色んな仕事を振ってもらえた。
 
「私のホームページ、バーンと作ってね」
「後援会向けにドーンと新聞を出そう」
いつも、ざっくりした指示を出してくる代議士。
 
私は、ホームページ作成スクールに通い、代議士のサイトを作り始めた。
元々、興味のない分野だったが、やってみるとゼロから作り上げる作業が楽しかった。コンテンツを作るために、政策や法案を調べてまとめるのは、勉強になった。
 
経歴作成やPRの為、代議士の人生を掘り起こすと、「一宿一飯の恩」「国に恩義を返さないといけない」と言う口癖の意味がわかった。
 
幼少期から吉田松陰に憧れて政治家になって国のために働くと決めたボス。
東大に行ったのは、官僚になる為、官僚になったのは政治家になる為、国費留学で海外を学ぶ為。出世コースにいた官僚を辞めて国政選挙に出馬。
地盤も看板も金もなく初当選するまで3回の選挙に落選し、8年間も無職の浪人生活を送っていた。浪人中は毎日街頭演説をし、政策を訴え続けた根性の人だ。
 
私だったら、誰も聞いてくれない中で街頭演説をするなんて3日と持たなそうだ。
顔が見えない国にお世話になったからといって、そこまで必死に恩を返そうとするだろうか?
選挙に落ちた時点で、自分に投票してくれない人たちの為に働きたいという意欲を失いそうだ。
 
ボスの器用ではない人間臭い生き様を見ている内に、私の中に初めて芽生えてきた感情があった。
「人の役に立つ仕事がしたい」という感情だ。
 
国の為と猪突猛進する代議士を支えるのは楽しかったが、段々、人のふんどしで相撲を取っているような違和感を感じ始めた。私も自分のふんどしで相撲を取りたいという想いが強くなっていった。
そして顔が見えない国の為には頑張れないけど、顔が見える人が喜んでくれる為には頑張れるという自分の強みも知った。
 
だから、私は興味あったが色んな理由で諦めていた心理カウンセラーを目指し、学校に通い資格を取った。
30歳過ぎての未経験での転職だったが、「経験者優遇」の求人のあったカリスマ精神科医の心療内科に図々しく応募した。
大学生の頃と打って変わって自己PRが次々と浮かんできた。どうしてもその心療内科で働きたい理由がいくらでもあったし、カウンセラーとしてやりたいこと、私だからできると胸を張って言えることが沢山あった。
 
60歳超えて夢を追って初出馬をしたり、父より年上にみえる新人議員や新人秘書が多い永田町にいたから、30代なんてピチピチの若者に思えた。
 
もし面接で落とされたら、しつこく事務職で再応募して粘ろうという厚かましさも身についていたが、幸い、心理カウンセラーとして採用された。
そこで沢山の経験を積ませてもらい、勉強させてもらったから、今、心理カウンセラーとしてやりがいをもって働くことができている。
 
日記の中の昔の私にこう言いたい。
「大変だったね。ツラかったね。いっぱいそこで耐えて頑張ってくれたから、回り道も沢山してくれたから、今の私になれたよ。やりがい感じて働ける仕事に就けたよ。本当にありがとう」
 
ネタを探して開いた日記だったが、思いがけずツラい日々を耐えてくれた昔の自分と再会してパワーをもらえた。

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2018-05-24 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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