プロフェッショナル・ゼミ

それでも僕は「優しさ」を持っていたい。《プロフェッショナル・ゼミ》


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記事:オールイン関谷(プロフェッショナル・ゼミ)
※この記事は事実を基にしたフィクションです。
 
「おい、お前、仕事やったんだから20ドルよこせ」
真っ黒にすすけた、深いしわの刻まれた顔をした男は、ひどく訛りのあるアクセントの英語でそう言うと、右手の平を上にして僕に差し出し、左の手のひらで強く2回叩いた。乾いた音が、市場の広場に広がっていく。
目尻に深いしわのある男、その目はいっさい笑っていなかった。
 
万国共通。「金を出せ」のジェスチャーだった。
 
「あれ、これはいったい? どういうこと??」
僕は突然の出来事に頭の中が混乱しつつも、なんとか状況を把握しようと必死に頭を回転させていた。
「これって、もしかして……詐欺……か?」
 
そう、僕はトルコのイスタンブール、その中心街のマーケットで靴磨きを生業とする男からお金を要求される、というピンチに陥っていたのだ。
その男の肩越しに美しく飾られたマーケットの店先が見える。貴金属や時計などがディスプレイされた彼らの店は、キラキラと黄色や金の装飾で輝いているハズだった。
しかし、僕の目にはその光景もどんよりとした灰色にしか見えなかった。
 
「まったく、これって、どういうことだよ」
僕はため息をつきながら日本語でそうつぶやくと、改めて手のひらを上に差し出してきた男の目を見つめた。
気を付けないといけないとは思っていたが、実際に自分がそんな目に遭うとは滑稽だ。この場をなんとか切り抜けないと、と思いながらも、ああやっぱり自分はこんな目に遭う性格なんだな、とも思って少し笑いがこみ上げてきた。
 
 
僕はヨーロッパ旅行の最後にトルコに立ち寄った。
訪れたのはイスタンブールのタクシム広場という観光地。大きな橋があり、そのほとりににぎやかな市場が広がっている所だった。
イスラムと西洋の文化が丁度混じり合う街だけあって、時折コーランの祈りの声が、スピーカーを通じて街中に響いてくる。
見るもの全てが輝いていて、不思議で、面白くて、僕はウィンドウショッピングに夢中になっていた。
 
その市場は不思議と猫が多く、黒いの、白いの、茶色いの、ちょっと歩くだけで何匹もすり寄ってきた。
市場の名物だというサバサンドを買って食べながら、少しサバの身をちぎって猫にやる。すると、猫は「ウミャミャミャーン」と言って美味しそうに食べ、僕の足にその身体を強くこすり付けてくる。
そのアピールに思わず「オイ、おまえ。なかなかカワイイのう〜」と、喉を撫でてやる。すると目を細めたまらない表情でうっとりする猫たち。
そんなふうに猫にちょっかいをだしたりして遊んでいると、僕の心は自然にほどけていった。
 
そんな時だった。ザザッという音を立てて、僕の目の前でブラシが落ちたのだ。
真っ黒にすすけた、良く使い込んである靴磨き用のブラシだった。
 
「落ちましたよ」
僕はおもわず日本語で声を掛けると、道路に転がっていたブラシを手に取り、前を歩く落とし主に渡した。靴磨きの男だった。
 
きっと仕事道具の箱から転げ落ちたのだろう、と素直に思った僕は、軽く会釈をしてその場を去ろうとした。
しかし、なぜかその男が小走りで追いかけてくる。いったい何のことか分からなかったが、僕はその男と話すことにした。
すると、その男はたどたどしい英語でこう言い出した。
「ブラシを拾ってくれたお礼に貴方の靴を磨きたい。もちろん無料です。いいですか」
 
その時履いていた靴はぼろぼろで、とても磨いてくれと言えるシロモノでは無かったが、わざわざ小走りで追いかけてきた男の様子を見ていると、なぜか、断るのも悪いな、と思ってしまった。
 
「いいのか? 君の気持ちに甘えても」
「オーケー、オーケー」
靴磨きは笑っていた。
 
僕はその申し出を受けて、その男が靴を磨き始めるのをぼーっと見続けていた。
長旅で疲れていたのもあるのかもしれないし、翌早朝には、ここから飛行機に乗って日本に帰れるという安堵感も少し影響していたのかもしれない。今思えば少し、隙ができていたのだろう。それを靴磨きの男は「しめしめ」と思ったのかもしれない。
 
 
 
昔から僕は“断ること”が苦手だった。
中学生くらいの頃から、相手に何かを頼まれると断れない、そんな性格だった。
なぜなんだろう、と考えたことがあった。
ゆっくりと自分の心と対話したこともある。すると、断ることによって相手を失望させ、嫌われるんじゃないのか、という恐怖心から出てきたのではないか、と気付いた。
 
学校という狭い空間でそれは顕著だった。クラスメートに好かれようとして、相手の言う通りのことをしてあげる。
そして、何かをしてあげれば、相手も自分のお願い事を聞いてくれるかもしれない。そう都合よく考えた。
でも、そうは決してならなかった。相手は僕に要求するだけで、何かを僕のために帰してくれることはなかった。
僕は心のどこかでがっかりしながらも、「きっと何かをしてあげた優しさはどこかで帰ってくるはず」と思って、自分を納得させた。
 
社会人になってもそうだった。
どんなキツい仕事でも、安い仕事でも断らなかった。
 
「この仕事をすればきっとクライアントは評価してくれ、つぎはもっとギャラの良い仕事を貰えるハズだ」と信じて、がむしゃらに働く。
しかし、ついぞそのクライアントからはその仕事を上回る大きさの仕事を貰えなかったばかりか、次の仕事を発注される事すらも無かった。
 
そんなことが続き、僕はどこかで心をすり減らしていたのだろう。
だんだんと首が痛くなり、真横を見るために首を回すことができなくなった。
そして、身体全体から力が出なくなり、何もする気が起きない、という日がだんだんと増えていき、ついにはあれほどがむしゃらに頑張って来た仕事も、休むことが多くなっていった。
 
「このままでは、僕は本当にダメになる」
 
そう考えた僕はわずかばかりの貯金を頼りに、会社を辞め、旅に出ることにしたのだ。
英語もまともにしゃべれないし、その土地の知識もない。そんな状況で有りながらも、バックパック一つを背負って電車に乗り、駅の待合室で寝て、また次の目的地へと向かう……そんなシンプルな日々だったが、日本とは全く違う文化、風景の中を旅することで僕は少しづつ自分を取り戻していった。
 
旅先の安宿で出会ったバックパッカーたちと話すことで、いろいろな考え方にも触れることができ、日本の常識にとらわれていた自分を俯瞰で見つめられるようにもなった。まるで、もう1人の自分が斜め後ろにいて、外国人と話す自分を見つめているような感覚だ。
 
そんな旅を続けていた時、金髪で長身のアメリカ人、クリスと仲良くなった。
彼は「北極圏でオーロラが見たい」といい、道中一緒に来ないか、と言ってきた。僕はOKと言い、4日間ほど電車を乗り継ぎながら電車の旅を続けることとなった。
 
クリスとは色々話した。なぜなら、北極圏にたどり着いた後に天候がまったく晴れず、オーロラは3日間のあいだまったく顔を出すことが無かったからだ。
 
僕らは、氷点下10度のなか、雪原に座って空を見上げながらひたすらオーロラを待っていた。
夜の間に、話す時間はいくらでもあった。
家族のこと、友だちのこと、自分の国のこと……。
そのなかでクリスが僕に話した1つの言葉が身に刺さった。
 
「君は自分のことを好きじゃないのかい? よく、『日本人はこうする』、『日本人ならこう考える』って、君の言葉には出てくるけど。でも、日本人っていう大きなくくりじゃなくて、君は君。まずは君自身がどんな人間なのか、どんな考えを持っているのかをはっきり言うべきじゃないかな。人種とか、国籍とかはその後だよ」
 
その言葉を聞いた瞬間、僕の心のヨロイが解けたような気がした。
 
そうだ、僕はずっと周囲にどう見られているのかばかりを気にして、相手の思惑を勝手に考えて、その枠のなかでふるまってきたのだ……。
言われた事に従って、ノーと言わなければ大丈夫だ、と。それで相手は納得する、と。
 
でも、それは決して僕自身を認めてもらえることじゃない。
もっと、わがままでも良いんだ。“日本人らしく”“優しく礼儀正しく”、とか考えなくてもいいんだ。まず、先に自分があっていいんだ。
 
「そうだな、クリス。アメリカ人が強いのはそんなところかもしれない。よく分かるわ」
「君が優しくて気配りをしているのはよく分かるよ。でもね、だからこそもう少し強くなっても良いんじゃないかな」
「そうだな、クリス。僕が強くなれたら、アメリカ人のお嫁さんでももらおうか」
「あー、それは今の50000倍強くならないとダメだね。それは大変なミッションだと思う」
 
一瞬、僕とクリスは目を合わせ、その後、一緒に大爆笑した。1分ほど一緒に雪の上で笑い転げていたら、クリスが突然空を指さし、大声で叫んだ。
「ヘイ。雲が消えてきてるぜ。もしかしたら、オーロラ見られるかもしれない」
「そうだな、クリス。あと少し、晴れてくれれれば……」
 
みるみるうちに雲が薄くなっていく。僕らは空を見上げて続けた。
すると漆黒のなかから、緑色の細かい粒のような光が少しずつ湧き出し、いつのまにか、空全体に光る砂粒をまいたように広がっていく。
そして、時折光の強さを変えながら、東の空から西の空まで緑に光る川のような光の帯が流れていた。
 
僕は右手を差し出した。クリスは空を見上げながら、僕の手をがっちりと握り返してきた。その手は大きく、暖かかった。
 
 
その翌日から、僕は変わった。
クリスともはっきり意見を言い合えるようになって、時には口ゲンカもした。
「君の考え方のそこは良くないんじゃない」なんてことも、片言の英語で言えるようになった。
 
でも議論が終わって、落ち着いたら、もうその後はノーサイドだ。
熱い戦いを行った後のラグビー選手同士のように、ハグしてからハイタッチ。そして缶ビールで乾杯だ。
どんなに、自分をさらけ出したかしれない。
それを大きな笑顔で受け止めてくれたクリスにはとても感謝している。
 
旅を通じて、僕は少し自分が好きになれた。
こんな僕でもそのままでいいんだ、と思えるようになった。
旅は、時々想像を超えた出会いと、こんな奇跡を与えてくれる。
 
 
 
 
さて、イスタンブールで靴磨きにだまされそうになった顛末はどうなったか。
 
 
僕は、靴磨きの正面にすくっと立ち、彼の目を見て英語ではっきりと言った。
「君は無料で磨くと言ったよね。でも、それはウソだった。それは約束が違うよね」
そういって、男に向かってバイバイとばかりに手を振ると、靴磨きは食い下がってきた。改めて「20ドルだ。20ドルよこせ」とばかりに訛りのきつい英語でまくし立ててくる。
仕方ない。僕は大きく息を吸うと、出せる限りの大声を振りしぼり、日本語でこう言った。
「お前なぁ、日本人なら誰でもおとなしく金払うと思う取ったら大違いやぞ。ちゃんと最初ただでやらせてくれ、って言ったんだから、約束守れ!」
こちらの勢いに怖じ気づいたのか、靴磨きは「お、おう」と少し声を上げてから両手をこちらに広げて突き出して、もういいです、的なジェスチャー。勝負あり、だ。
 
その後、日本に戻って数年経つ。あのとき磨かれた強さは、また日本社会の中で洗われて丸くなっているかもしれない。
それでもたぶん、僕はまた同じようなシーンに出会ったらまた、ブラシを拾い差し出すだろう。その後どうなるかは、またその時。それにもう対応出来るのは分かったのだから。
 
時おり、あの空一面に広がったオーロラの光景を思い出すとき、僕は少しだけ強さを取り戻せるような気がしている。
 
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