プロフェッショナル・ゼミ

もし祖母が実際の50年後に生まれていたとしたら《プロフェッショナル・ゼミ》


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記事:相澤綾子(プロフェッショナル・ゼミ)
 
「おばあちゃん、何してるの?」
「体操してるんだよ」
子どもの頃、そんなやりとりを私と弟でして、笑い転げていた。昭和2年生まれの祖母はいつも元気で、健康に気を遣っていた。通りを渡ろうとして車が途切れるのを待つ時にも、足踏みをしていた。そんな時に私たちが、
「おばあちゃん、何してるの?」
と尋ねると、
「体操してるんだよ」
と決まって答えた。だから歳をとってからも、本当に元気だった。
 
祖母は昭和2年生まれ、当時としては背が高く、160センチもあった。子どもの頃の話はよく聞かせて、とお願いした。色んな話を聞かせてもらったけれど、一番印象的だったのは、工場で働いていた時にこっそり機械油を布に染み込ませて持ち帰り、それでホットケーキを焼いたという話だ。戦時中で食べ物もない中でもアイデアを生み、たくましく楽しく生きてきた祖母はすごいなあと思っていた。
おしゃれが大好きで、祖父が、祖母の実家に嫁に下さいと頼みに行った時も、唯一尋ねたことは、
「近くに美容院はありますか?」
ということだけだったいう。猫っ毛なので、自分で髪を洗うとぺちゃんこになってしまい、それを気にしていた。祖母は、毎週欠かさず美容院に通っていた。
祖父には、前妻がいた。親の決めた人のところに婿養子に入った。3番目の子どもを産んだ後体調を崩し、若くして亡くなってしまった。一番上の子もまだ12歳になったばかりだったので、後妻をもらうことにしたのだった。3番目の赤ちゃんは親戚の家に養子に出された。
祖父はずっと千葉で生活していたが、戦時中招集されて埼玉に駐屯していたことがあり、実はその時に祖母をみかけていたという。
「それって、前の奥さんが亡くなる前のことじゃないの?」
と子どもの頃の私は、母に尋ねた。
「あまりそういうことを追及したらダメよ」
母はそう答えた。祖父の心の中に、祖母の想いがずっとあったということなのだろう。
24歳の祖母が、12歳の娘のいる家に嫁ぐというのはどんな感じだったのだろうか。私にはあまり想像できない。祖母が身ごもると、多感な年頃の彼女は「生まれたら殺してやる」と言っていたそうだ。でも実際に生まれてきた女の子を一番かわいがったのは、その子だった。
その頃のことを、私は祖母とはあまり話してはいない。ただ、いつも前向きな祖母のことだから、じっと耐えていれば、きっと良い方向に向かっていく、と考えていたのだと思う。私が知っている前妻との子たちの関係もよく、一緒には暮らさなかった祖父の3番目の子とさえも良かった。ただお互いに歳をとってからは、いろいろ我慢ができなくなってくるからか、少しずつひずみは出てきていた。それでも祖母はいつもにこやかに耐えていた。私はどうしても近しい祖母の味方だからそういう風に見えたのかもしれないけれど、怒ったりすることもなく、いつも受け入れていたのは間違いなかった。
小さい頃は、月に2、3回は祖母の家に行っていた。祖母はずっと台所に立ちっぱなしで、料理を作り続けていた。祖母の作ってくれる炊き込みご飯、天ぷら、太巻き寿司、色んなものが大好きだった。
60近くなってから、近所の太巻き寿司のお店で働くようになった。パック詰めして販売する弁当の準備だから、朝とても早い。2時くらいから行くこともよくあった。祖母はベテランで、太巻きを巻くのが早いのと、卵焼きの味や食感が違うと評判だった。おにぎり作りも、目分量で正確に150グラムをとることができたので、とても重宝されていた。自分がそんな風に必要とされていることが誇らしかったようで、「秤にかけていたら流れが止まってしまうから、おばあちゃんがいないとダメなんだよ」と、よく言っていた。実際、その仕事をやめてからも、どうしてもと多く注文を受けてしまうことになりそうな時は、手伝ってもらえるかどうかと相談が来て、それで受注するか決めていたという。それくらい信頼されていたのだ。
祖母は学生の頃の私に、よくこういっていた。
「おばあちゃんがこうやって一生懸命働いているのは、お前たちのためなんだよ。将来、本を出すことになったりしたら、お金がいるだろうから、そういう時のために頑張っているんだよ」
ぼんやりと書く仕事をしたいとは思っていたけれど、祖母に言ったことはなかった。都内の大学に通っていたから、そういう職業に就くと思ったのだろうか。でも私は研究者を目指すこともなく、小説家にチャレンジすることもなく、地味に市役所に勤めることになった。本を出すなんて可能性はなくなっていた。でも働き始めてからも、しばらくの間だけは、「本を出すときは、お金を出してあげるからね」と言ってくれることもあった。
 
一回り年上だった祖父は、祖母が75歳の時に亡くなった。祖父のことを「背筋もきちんとして、出かける時はいつも上着を着て、立派だよ」と言っていて、祖父との生活に満足していたと思う。けれども祖母は落ち込むこともなく、活発さを失わず、一人暮らしを楽しんでいた。近所の一人暮らしのおばあさんのところにごはんを持って行ったり、ボランティア活動をしたりしていた。相変わらず私が遊びに行くと、料理を作ってもてなしてくれた。さすがに80歳を過ぎてからは、台所に立つ痩せ細った後姿を見て申し訳なくなり、敢えて昼を食べてから訪ねたりもした。そうすると、祖母は、
「遠慮なんかしないでくれよ。お前に、おいしいものを食べさせてあげたいんだよ」
と本当に残念そうだった。
そんな祖母だったけれど、本当に少しずつではあったけれど、色んなことができなくなっていて、自分の食べるものもあまり作っていないということだった。私たちが遊びに行くと、料理はふるまってくれたけれど、普段はろくなものを食べていないという話だった。
母は心配して、老人ホームに入るように勧めた。でも祖母は、慣れ親しんだ場所から移ることをとても嫌がった。結局話を持ち掛けてから2年くらい経って、やかんをかけたまま出掛けてしまったことをきっかけに、入居することを決めた。
最初のうちは他の入居者とのいざこざもあったりしたけれど、すぐに祖母は持ち前の交流好きを発揮し、老人ホームの中でも居場所を見つけていた。
楽しそうには過ごしていたけれど、少しずつ色んなことが分からなくなってきていた。母がお見舞いに行くと、混乱することもあったという。でも私が電話をした時は、いつもちゃんとしていた。ただ、前のようにたくさん話そうとすることはなく、「電話してきてくれてありがとう、ありがとう」というばかりになっていた。最初は母が大げさに言っていると考えていたけれど、もしかしたら本当に混乱してきているのかもしれないと思うようになった。
昨年末、祖母はインフルエンザにかかり、肺炎を起こして入院することになった。私は母に
「もう最後かもしれないから、見舞いに行こう」
と言われた。祖母に最後に会ったのは半年以上前で、私のことを分かるのだろうかと少し心配になった。けれども、祖母のために会いに行くのではない、自分のために会いに行くのだと思い直した。
 私たちは病室に入った。布団を被っており眠っているのかとも思ったけれど、近寄ってみると祖母は目を覚ましていた。黒いふさふさとした短い髪が額の周りを縁取っていて、顔はやせ細っていたけれど、元気そうに見えた。
「おばあちゃん、来たよ」
と私が声をかけると、
「おお、そうか、ありがとう」
祖母は私の方にくぼんだ目を向けた。灰色に見える瞳は意外にもキラキラしていて、力があった。
「元気そうだね、髪がきれいだね」
と私も声をかけた。
「あ?」
と祖母は訊き返した。同室の他の患者に気を遣って声を低くしたので、聞こえなかったらしい。
「髪の毛がきれいだね、って言っているよ。入院する前に染めてもらって良かったね」
と母が説明すると、祖母はうなずいた。入院してからはそういうこともなかなか難しいだろう。嫁ぐ時にも美容院のことを気にしていた祖母にとって、いいタイミングで染めることができたのは本当に良かった。
「ここに落ち着く前には、あちこちに行って、いろいろ大変だったけれど、いいところに来られて良かったよ」
入院先が決まらずに大変だったことは理解しているようだった。今の状況を満足している感じは、相変わらずだと思った。そしてこんな風にも言った。
「がんばって、生きるよ」
まっすぐにそういう祖母はとても品位があり、素敵だった。病室のドアを閉める間もずっと顔を上げてこちらを見て、手を振り続けていた。筋肉の落ちた身体で横になって顔を上げるのは大変なことのはずのなのに、しっかりと顔を上げていたのだ。
そして、年が明けて、2月に入ってすぐ、祖母は亡くなった。
 
もし祖母が実際の50年後に生まれていたとしたら、起業したり、会社の重役になっていたり、大活躍していたのではないかなと思ってしまう。そうだったとしたら、私はこの世に存在しないわけなのだけれど、それでもそんなことを想像してしまう。いつも前向きで、人との交流が好きということだけではなく、歳をとってからも新聞やテレビで色んな情報を仕入れていたし、もうこういうことは興味ないかなと思うようなことも、知っていたりした。お弁当の仕事だって、誰よりも習熟していたのは、それだけ真剣に取り組んでいたからだと思う。そしてもちろん私たち孫のために、とは言ってくれていたけれど、働くことが好きだったのだろう。おしゃれや健康に気を遣っていたのも、自分のことを大切にしていたからだと思う。まず自分を大切にするから、人に対しても、何かしてあげたいという優しい気持ちを持つことができたのだ。
 
祖母はもう亡くなってしまったから、「もし」はないけれど、私はまだ生きている。40歳を過ぎて、今後できることは限られてしまっているような気もするけれど、そんな風に自分で自分の限界を決めてしまってはいけない。祖母が生きている間に、本を出すことはできなかった。でも、私は今、書くことを勉強している。書くことで、感動を伝えたい。読んで、気持ちが上向きになったりしてくれたら嬉しい。理解してもらい、一緒に考えるきっかけを作りだしたい。そんな風に考えている。
私にはまだ時間がある。最後の最後まで「がんばって、いきるよ」と言っていた祖母のように、常に前向きな気持ちを持って、きちんと実現したい。読んでもらえる文章をかけるようになりたい。それ以外にもいろいろチャレンジしてみたい。そして、いつか、祖母に報告できるようにしたい。
 
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