そのアイデアは本当に盗まれたのか《プロフェッショナル・ゼミ》
*この記事は、「ライティング・ゼミ プロフェッショナル」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
記事:射手座右聴き(プロフェッショナル・ゼミ)
えーーーーー。偶然流れたテレビCMに思わず声をあげてしまったのは、
4年前の夏の日だった。
好きなタレントがでていたわけではない。商品が珍しかったわけでもない。
ストーリーが面白かったわけでもない。
見覚えのある映像が流れてきたのだ。あれ? これって?
なんと、2ヶ月前に描いた絵コンテが映像になっていたのだ。
とある生活必需品のCM。それはたしかに、2ヶ月前、コンペで提案した企画だった。結果は不採用と告げられた。某広告会社さんと同じ系列の制作会社さんの2チームによるコンペだった。私は、制作会社さんのチームとして参加した。残念ながら、本体である広告会社さんの案が採用された。まあ、それはそうだよな。と納得して、その件は忘れた。むしろ、「どんな案が採用されたのだろう」 と放送されるのを楽しみにしていたくらいだ。
ところが、である。画面から流れてきた映像は、私が書いた絵コンテの絵そのものだった。ライブ会場のようなシーン。タレントさんがギターを持っていて、左右には巨大なスピーカーが立っている。当初、企画に書いたギタリストではなく、俳優さんだったけれど、その絵を見たときの印象は、「あ、そっくりだ」
ということだった。
どういうことなんだろうか。カーッと頭に血が上って、すぐに制作会社の担当の方に電話をした。
「見ましたか? CM」 というのが精一杯だった。先方も、こちらの気持ちを察してくれたのか、こんな答えが返ってきた。
「あー、見ましたよ。うーん。まあ、いろいろ思いますけれど、立場的に、私からは何も言えません」
その答えは、とても残念な気がした。でも、そうだよな。似ていると言う認識があったとしても、立場上、なんとも言えないよな。フリーランスだからこそ、組織人の立場が、わかる気がした。むしろ、ギリギリまで歩み寄った言い方をしてくれたと思うべきかもしれない。
「それはそうと、今日、お時間ありますか。新しい仕事をお願いしたいのですが、
いまからこちらに来れませんか」
明らかに気を使ってくれている。とってつけたような言い方だったけれど、
それでもありがたかった。
だが、それはそれとして、とても悲しい気持ちがした。採用されていれば、実績になった。新しいクライアントと仕事ができた。もちろんギャラも違ったことだろう。何よりも、仕事が成立するという達成感とやりがいを感じたかった。
などと考える間にも時間は経過した。
急いで家を出なければ。駅までの道、考えれば考えるほど、悔しさがこみ上げてきた。思えば思うほど、理不尽さがしみた。新しい仕事だというのに、足取りは軽くはなかった。
あー、もういっそのこと、訴えようか、と思った。が、そんなことをしても、無駄であろうことは、予測された。相手は大手企業だ。騒ぎを起こしても、私に味方して得する人はいない。ニュースネタにすら、ならないだろう。
仮に、証拠を並べて、勝ったとしても、何が残るのか。いくばくかの慰謝料と、訴えた、という事実からくる、ネガティブイメージだけだろう。そんなものを背負って、同じ仕事を続けられるだろうか。誰が仕事を頼むだろうか。吹けば飛ぶようなフリーランスだ。そして、狭い狭い広告業界だ。そうだよな。どうにもならないことだよな。
電車の中でもずっと考えていた。やがて、到着した駅のホームから、古巣の広告会社が入っていたビルが見えた。今回は違う広告会社系の仕事。前の会社では担当できなかったクライアントさんなので、チャンスだと思っていたのに。昭和の書き手ならば、「女々しい」 という言葉で表現するような考えが浮かんでいた。
が、その次の瞬間、とても大事なことが、頭をよぎった。
「過去のアイデアに執着することは、自分を腐らせる」
あのビルにいた頃の記憶が蘇ってきた。
かつて、自分の考えた企画を、上司が自分の手柄として、賞に応募しようとしたときのことだ。そのときは、「横取りしないで」 とはっきりとクレームをつけ、応募をとりさげてもらった。言い争いにはなったが、間に入った先輩が奇跡的に笑いに変えてくれたおかげで、いい感じで話が終わった。
この時はよかったものの、数ヶ月後、私の内側には甘えが芽生えてしまった。上司との関係はよくなったが、いや、むしろよくなりすぎたのだ。自分に気を配ってくれるようになったので、調子に乗った。仕事の裁量も増えた。が、逆に勘違いも生じていた。
「自分はそこそこ仕事ができるんだ」 というような気持ちになり、打ち合わせにもたびたび遅刻するようになった。案を出す時も雑になった。二日酔いのまま、何の準備もせずに、企画会議にのぞむことすらあった。
「だって、横取りされそうになったんだし」
ときどき浮かぶその感情は、私の仕事を雑にした。
でも、上司は何も言わなかった、というか、言えなかった。私に負い目があったからだと思う。気づかないうちに、日々、私は静かに、腐っていった。
「横取りされた」 という黒い感情は、完全には解毒できていなかった。どうして上手に解毒できなかったのか。
私がすべき解毒は、自分の好きなようにやることだけではなかった。
さらにいい仕事をして、自分に自信をつけることだったのではないだろうか。
そして今、再び、「盗まれたかもしれない」 という毒がじわじわと侵食しようとしている。
だが、あの時以上に、今は、腐るわけにはいかない。フリーランスだから。
会社員時代なら、だましだまし暮らせたかもしれないが、ここで、サボったら、
すぐに仕事がなくなる。悪評も立つ。
そうだ、CMの件をとやかく言ったところで、損するのは自分だ。傷つくのも、自分だ。そして、腐るのも、自分だ。
一刻も早い解毒を。
はっきりと再認識した。
幸いなことに、シーンはそっくりだったが、CMの展開は違っていた。商品への結びつき方も違っていたし、訴求内容も、自分の案とは別の方向だった。
あれは、たまたまだ。「似てる」 と思った自分の勘違いだ。自意識過剰なだけだ。自分を暗示にかけ始めた。
ある本に書いてあった言葉を思い出してみた。
「自分が考えた素晴らしいアイデア、と思っても、同じことをみんな考えているものだ」
人が人にものを伝えるためには、みんながわかる題材を使おうとする。
それを意外な組み合わせにすることで、アイデアにしているわけだから、
考えてみれば、アイデアはかぶるのが当然かもしれない。
たとえば、の話だけれど、
ホラーにしたければ、廃墟の病棟を舞台にすることはあるだろう。
ゾンビがでてくることもあるだろう。意外な構成を狙うのであれば、
舞台裏を使った展開というのは、表現しやすい方法だろう。
それは、多くの人が思いつく範疇かもしれない。
あくまでもたとえば、の話である。
アイデアの出発点は同じでも、それをどう展開したか、どう昇華したか、
というのは人それぞれ違う。
CMの件も、たまたま、自分のアイデアとして提案したけれど、別のチームの人も同じようなことを考えていたかもしれない。そんなことに執着するのは、自分の時間がもったいない。さらに暗示をかける。
それよりも、新しいアイデアを考えるためのインプットの時間にしよう。
考えたアイデアを、早く、かつしっかりと詰めていくことに執着しよう。
実現できるように、説得の技術を磨こう。
そのために行動する時間の方が有意義ではないか。
こんなにも色々なことを考えながら、駅から制作会社さんまで歩いた。
担当の方は、少しバツの悪そうな顔をして迎えてくれた。
それでも、パッと切り替えて、新しい案件の説明を始めた。
打ち合わせの最中も、先ほどの電話の話には一切触れなかった。
私も笑顔で聞いていた。
「では来週の木曜までに一度案を提出してください」
「わかりました。よろしくお願いします」
帰りにそのビルを出る頃には、一旦軽やかな気持ちになった。
これは、ネタになるなあ。
電車の中でふと思った。
「アイデアを盗まれた」 などと言って、大騒ぎするのは、あまり気持ちの良いものではないだろう。いくら、こちらに正しさがあるとしても、だ。
むしろ、都市伝説のように話したら、どうだろう。
「プレゼンして、不採用になった自分の案と、放送された案にそっくりなシーンがあったんですよ」 とホラーチックに語るのだ。
愚痴にするより、都市伝説、もしくは業界あるある、にしてしまった方が
人も楽に話を聞けるのではないだろうか。
こうして、「アイデアを盗られたのではないか」 という毒の気持ちは、少しずつだが消えていった。
家に着く頃には、新しい仕事を頑張ろう、という気持ちが湧いてきた。
とはいえ、以前の出来事のように、解毒は簡単ではない。
ときどき、亡霊のように、「盗まれた」 という感情は頭をもたげてくる。
これに抗うのが難しい、と思う時もあった。
「盗まれた」 感情がわき起こるのは、主に怠けたい時だったのだ。
自分以外の不可抗力による、不運。自分は精一杯やったのに、という最高の言い訳。これは、怠ける理由として、最適だった。
そんなとき、SNSである投稿をみつけた。当時、とある盗作疑惑の問題が大きな話題になっていたのだ。
2020年に東京で開催される世界的なスポーツの祭典の、エンブレムの話だった。
著名なデザイナーがデザインしたエンブレムに、海外のデザイナーがクレームを入れていた。
海外のデザイナーの作品を「盗作だ」 「いや、盗作ではない」
いろんな説が飛び交う中、次々と有名デザイナーの作品がネットにさらされた。
あれも「盗作」 これも「盗作」 と元ネタを見つけては、並べてネットにアップする。デザイナーは、公開処刑のような状態になっていった。
そんな状況の中、とあるデザイナーがこんな投稿をしたのだ。
「2020年東京大会エンブレムを1時間で新しく作ってみた」 という内容だった。SNSに無造作に貼られていたそのエンブレムの画像は、わずか2日で1万2000リツイートを超えて拡散された。メディアにも片っ端から取り上げられた。
わかりやすく誰もが納得できる、それでいて、洗練されているエンブレムだと
思った。マスメディアでもネットでも、評判は上々だったと思う。
「そのまま採用してみてはどうか」
そんな声まであった。
このエンブレムを見て、なんだか、パーッと視界がひらけたような気がした。
みんなのモヤモヤした気持ちに届くクリエイティブとは、これか、と思った。
盗作か否か、などという話をしているよりも、建設的だった。
言葉だけで批判したり、逆にフォローしたりしていたSNS上で、
新たな案をさらっと作って、さらっと載せたことは、痛快だった。
だからたくさんリツイートされたのだろう。しかも、すごいスピードで。
このアイデアが拡散される現象に応じて、私の中に残っていた「アイデアを盗られたのでは」 という毒も、少しずつ少しずつ薄まっていった。
頭をもたげそうな時は、このエンブレムを思い出した。
励みになる一方で、プレッシャーにもなった。
高校の同級生の仕業だったのだ。なんとこの広い世界で、
身近な人が前向きに頑張っているとは。
それに比べて、自分は、たかが小さな類似で、悔しくなったり、悶々としたり、
感情をコントロールすることに躍起になっていた。少し恥ずかしくなった。
私はそんなにアイデアのある方ではないと思う。でも、勇気を持ってアイデアを出し続けなければいけない。なぜなら、それが仕事の大きな部分を占めているから。
アイデアの揉め事は、アイデアで解決する。
たとえ、実力が足らなくても、そうありたいと思っている。
今ならはっきり言いきろう。あのCMは、たまたまアイデアがたまたま似ていただけだ。盗まれては、いない。そう信じている。
折しも、今、問題が起きている。
原案、という言い方が適切だろうと言う人がいる。
原作、という言い方をすべきだ、と言う人がいる。
いや、そもそも盗作なんて、誰もいってないと言う人がいる。
それぞれに言い分はあると思う。
FB上では、彼らのリアル友達が、熱く主張しているのを
目にする日も少なくはない。
この対立を逆手にとって、さらなる傑作がでてくれたらいいなあと思う。
ま、人のことをとやかく言う暇はない。
さあ、自分自身に大きな声で言おう。
アイデアは、止めるな!
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