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乳がん全摘手術後2年、なんとか生き延びてます《プロフェッショナル・ゼミ》


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記事:安光伸江(プロフェショナル・ゼミ)
 
乳がんが発覚して全摘手術してから約2年。先日の検査では、再発・転移はみられないとのこと。やった! これで生き延びられる可能性がまた増えた。
 
母が圧迫骨折でほぼ寝たきりになってから数年。最初は要介護認定1で、同居の家族がいるとほとんどしてもらえることがなく、父と私で家事を分担しながら手探りで生きていた。父はすごく元気だったので、私は母のことしかできないからね、と、洗濯も父の分は自分でやっていた。ゴミ出しと布団干しは父の担当。家の掃除も私はほとんどしないのでもっぱら父がやっていた。2階のベランダに布団を干す姿は近所でも有名だったらしい。天気予報を見るのが趣味のような人で、「今日はええ天気ど!」とたたき起こされて布団を持って行かれる、なんてこともあったっけ。
 
そんな父が、会社のOB会で楽しいお酒を飲んだ直後に階段で転び、頭を打ってそのまま亡くなったのが、おととしの5月末のことだった。元気だった父が、具合の悪い母より先に亡くなるなんて、それも急にあっけなく亡くなるなんて、青天の霹靂だった。
 
それからは葬儀だのなんだので親戚がうちに出入りするようになった。父が亡くなって母が寝たきりで私がうつ病で家のことがろくにできないということで、近くに住む従姉がいちばんよく面倒を見てくれた。兄も県内の遠くからなんだかんだで帰ってきてくれることが増えた。
 
そして夏を迎える頃、どうも私の胸がおかしいことに気がついた。前からしこりはあったけど、ネットでいろいろ調べ、動くから大丈夫だよ、と素人判断をして「経過観察」という名の放置をしていたのだが、どうも様子がおかしい。何か、皮膚の色が変わってきている。これはおかしい。ヤバいかもしれない。がん? まさか。いやだよそんなの。以前から「私は乳がんで死ぬ」「がんになったら受け入れてそのまま死ぬ」と公言していたのだが、もしかしてホントに乳がんかも、と思うとさすがにビビった。
 
そしてたまたま兄夫婦が来てくれた8月の日曜日、従姉がおかきの缶を持ってやってきた。談笑している時に、ふと、胸のことを従姉に話す気になった。従姉のお母さん、つまり私にとっては義理の伯母も、乳がんで数年前に亡くなったのだ。乳がんだとしこりは固く動かないという話をしてくれて、皮膚の様子を見て「これは病院に行った方がええかもしれんね、お盆過ぎてからでも行くかね」とかなんとかいってその日は帰った。
 
翌日の午前中、従姉から電話がかかった。「あんた今からシャワー浴びて着替えて支度し! 病院に連れていくけー」。なんでも従姉のパン教室の生徒さんに病院の関係者がいて相談したら、乳腺外科がちょうど診察日、しかも午後からもやっているということだった。検査するよりすぐ診察を受けた方がいい、ということになったらしい。実は私もパソコンでいろいろ調べている時に、病院に行くならここかな、診療日はいつかな、と調べていたので、その日に診察が受けられることは知っていた。何やらの再建手術をするのに保険がきくようになったとかいうので、ここがいいかな~なんて思っていた、その病院に連れて行ってもらえることになったのだ。いつ行くかな~とかビビっていたけど、従姉と、パン教室の生徒さん(実はもと婦長さん)に背中を押される形で、従姉の車で病院に連れて行ってもらった。母が3ヶ月ごとかかっている病院でもあり、その通院は父が連れて行っていたのだけど、父が亡くなって初めて私が連れて行くことになる2日前でもあった。母を連れて行く予習もできる。
 
病院で新患だというと「受付は午前中です」と言われた。乳腺外科です、というと「ああそれなら」といって紙が出てきて、いろいろ書いた。外科の問診もいろいろ書いた。しこりがあって皮膚の色が変わっていて、とか書いたんだったかな。乳がん検診、一度も受けたことがないんだよな。マンモグラフィー、痛いっていうからな。
 
待つことしばし
 
先生の顔は険しかった。コワい先生なんじゃないかなと思った。というか問診を見た時点で「ヤバいやつが来た」と思ったんじゃないかと思う。その日の検査は、マンモグラフィーとエコー検査と、その結果を見てからの針生検。そこまでやらせてください、と言われた。
 
検査はだいぶ待った。従姉はずっとついていてくれたんだけど、心配&退屈だっただろうなぁ。私は不安でぼーっとしてるし。
 
マンモグラフィーは痛くなかった。なんだ、痛いっていうから乳がん検診受けなかったのに。フツーにはさむだけなら、受けといてもよかったじゃん。と思ったけど、後から聞いた話ではやはり痛い人は痛いらしい。胸に脂肪がたくさんついている人はたぶん痛くないのだろう。病変のある方は痛かったような気がしないではないが、今となっては覚えていない。たぶんそんなに痛くなかったんじゃないかな。それとも緊張してたからわからなかっただけかな。
 
そしてエコー検査は、熱いジェルをぬりぬりして、検査の先生がじ~~~~~っとセンサーみたいなのをあててくれる。パソコン? の画面を見ながら、じ~~~~。長い。チョー長い。途中からもう一人、ベテランっぽい先生も来て「じっくり見ますからね」と言う。もうこの時点でかなりビビっている。脇の下を見ながら「これ、血管ですよね」とか二人で話している。ヤバいんじゃないか。その予感はもちろん当たっていることが後でわかったけれども、エコー検査の最中にもうヤバいオーラがばんばん出ていた。
 
「がん……ですか」「……結果は(乳腺外科の)先生からお話しますから」
 
そのやりとりだけでヤバさMAX。がんだ。絶対がんだ。血管ってのはがん細胞から出ているやつだ。わかる。私にはわかるぞ。ネットでいろいろ調べたんだから。
 
エコー検査はえらく長かった。従姉もそう言っていた。念入りに、念入りに、検査した、って感じ。
 
そしてもう夕方になってから診察室に戻ると、パソコンに画像が出ていた。あら~。真っ白。というべきか、真っ黒。というべきか。しこり、でかっ! 素人の私が見てもこれはヤバいということがわかる。というか、自分で触ってしこりのでかさに自覚はあったんだけど。反対側の胸はきれいなものだったのですごく安心した。
 
先生は相変わらずコワい顔で
 
99パーセント、いや、99.9パーセント、乳がんですっ!!!!!
 
ときっぱりおっしゃった。
 
そして針生検というのをすることになった。しこりの部分に針をさして組織を採取し、それを検査して乳がんかどうかを確定するんだそうだ。従姉が診察室から追い出され、私はとなりのブースに連れて行かれた。
 
ばちん。ばちん。
 
2~3回、針を刺して組織をとったんだったかな。少なくとも1回ではなかったように思う。いや~、すごい音だったよ。その音だけでビビるよ。でもしこりが大きかったから、先生も狙いを定めるのが楽だったんじゃないかな、とよけいなことも思った。
 
「手術しないという選択肢はないですか」
「ありますよ、むしろ、手術できるかどうかが問題なんです」
 
という会話をしたのが記憶に残る。先生の言葉の本当の意味がわかったのはだいぶあとだったけど。
 
そして針生検の結果を聞くまでには10日ほどかかった。普通は1週間なんだけど、お盆休みが入ったのだ。それまでは不安で不安でしょうがなく、またまたパソコンでいろいろ調べた。99.9パーセント乳がんです、ということは、0.1パーセントは良性という可能性もないではない。もしかして良性だったりしないかな? と期待したけど、皮膚の病変と、はっきり自覚できる大きなしこりの存在を鑑みるに「万一良性だったとしても何らかの治療を受けなければいけないのは確定的である」と納得した。
 
だが、母が寝たきりだから、私が一人で入院するわけにはいかない。介護認定も期限が切れてるから、どこに何を頼むなんてこともできない。どうするんだ。手術は回避できないのか。でも手術しないという選択肢もあるっていってたから、なるべく通院で治療できるようにしよう、ということで母との相談はまとまった。
 
お盆明けに従姉に病院に連れて行ってもらった日は、CTだかなんだかの検査もあったように思う。その結果が出て診察室に呼ばれた時、先生の顔は前回と打って変わってにこやかだった。
 
「この間99.9パーセントと申し上げていた通り、乳がんでした。手術、いつにしますか?」
 
ちょ、ちょっと待って、ママとは「通院で」と相談してたのに
 
なんでも病状がだいぶ進んでいるので、半年も待ったらあちこち転移して手術不可能な状態になりそうとのこと。
 
しこりの大きさと皮膚の病変からしてヤバいのはわかっていた、わかっていたけれども、手術しないで通院で治療できるのかと思っていたんだ。甘かった。
 
従姉はというと、手術「できる」ということで大喜びだ。さっさと切っちゃいなさい、という。それもそのはず、従姉のお母さんは治療をいやがって手術をしないで3年で亡くなっちゃったんだから。手術「できない」というのは命に関わることらしい。その頃はまだ生きていた小林麻央さんだって、手術できない状態になったから大変だったのだ。
 
その日は結論を出さずに帰り、でもやっぱり手術しないといけないよね、と決意した。母は介護保険が使えない(申請中だった)けど、どこかに預けることを病院の相談室で手配してもらえるらしい。
 
次の診察日には、兄も呼び出された。別の科だが医師をしているので、医療者同士の方が話が通じるから、と主治医に呼ばれたのだ。外来の日だったけど予定をずらして来てくれた。そして検査結果などを聞き、HER2(ハーツー)陽性ということなどをいろいろ説明してくれて、手術、しましょう! ということになった。抗がん剤をして、ハーセプチンというのをして、ホルモン剤を飲めば、完治する可能性も5割くらいはあるらしい。
 
それからは母を預けて私も入院するということで、高額療養費制度の限度額証を申請に行ったり、二人分の入院グッズをそろえたり、大わらわだった。自分のだけだったら不安でしょうがなかっただろうけど、母のためにいろいろしないといけなかったのでかえって気が紛れたかもしれない。
 
母を病院に預けたのが9月の8日だったか。
私の入院は13日、そして手術が14日だった。
母を預けた時は、「ママがいな~い」とさみしくて泣いた。
 
手術は無事終わり、「悪いところ全部とりましたからね! 全部とりましたからね!」と先生に言われ、私はのんきにエレベーターの中でVサインしていたのを覚えている。私は手術室で横になってマスクをされたらいきなり麻酔がきいて、すとん。と眠っちゃったので、次の瞬間「終わりましたよ~」と起こされたのしか覚えていない。その間先生は大奮闘していたし、付き添いの親戚一同、心配して待っていたのだけれど。
 
術後の入院生活は快適だった。ご飯は思ったよりおいしかったし、コップを持って汲みにいけば、おいしいお水が飲み放題。お水大好きな私には天国のようなところだった。手術をした時にドレーンというのを挿していて、そこからの廃液が減ったら退院できるということだったが、なかなか減らず、予定の退院日ぎりぎりになった。早い人はもっと早いらしいんだけど、私の場合は切った範囲がかなり大きく、その関係で廃液も多かったらしい。これぐらいまで減ったら退院、というところまでいかなかったけど、そんなに長くおいておけないからとドレーンをぶっこ抜かれたのを覚えている。そしてその翌日、入浴。胸、なかった。あら~。覚悟はしていたけど、ほんとに、なかった。ぐすん。
 
そして家に帰り、母の見舞いに何度も行き、1ヶ月くらいして生活になれてから母が退院してきた。それからは母とふたりの暮らしが始まった。抗がん剤の点滴に通いながら、母のめんどうをみる。といっても、下の世話はしない、風呂は自力で入る、ご飯は食堂まで食べに来る、というのでなんとか成り立っていたのだけれど。
 
その母が吐くようになり、ショートステイ~病院に入れて、がんが判明して亡くなったのは今年の初めのことだ。亡くなったその日も私はまだハーセプチンの点滴があって、病院に行った。私の入院のために母を預けた病院にまた入院して、私と母が通っている病院で検査を受け、その結果、緩和ケア病棟のある病院に転院してそこで亡くなった。その間も従姉のパン教室のお弟子さん(もと婦長さん)にいろいろお世話になっていた。
 
そんなこんなで2年が過ぎた。抗がん剤で全部抜けた髪の毛も生えそろい、母が亡くなり、いろんなことがありながら2年が過ぎた。半年ごとの検査も良好。再発・転移の兆候、なし。こないだのエコー検査も和やかに進み、見るからにヤバいオーラが漂っていた2年前の検査とは明らかに違った。大丈夫なんだな、とやっている最中にわかった。
 
なんでもHER2陽性の人は再発するなら2~3年以内のことが多いらしい。私はとりあえず2年をクリアしたので、先生も大丈夫じゃないかなとおっしゃっている。完治の確率は半々だったのだけど、もしかしたら治る方の半分に入ってるかもしれない!
 
父が亡くなって2年あまり
がんになって手術して
ママが死んで
 
ほんとにいろんなことがあった。
 
今は一人暮らしになっちゃった我が家、こないだ庭の木をばしばし切ってもらった。その時にも従姉や叔母に世話になった。そして昨日はその従姉と、横浜から帰ってきた従妹と3人で、両親も眠るお墓参りに行った。
 
いろんな人に支えられて、生きているんだなぁ
ありがたいなぁ
 
もちろんまだ再発の危険はある。乳がんは再発しやすいとも聞く。でも、2年、生きた。なんとか生き延びた。もしかしたら元気になれるかもしれない。
 
希望を持って、生き抜くぞ!
 
みんな、支えてくれて、ありがとう!
 
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