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週刊READING LIFE vol.76

バイトすら怖かった私が社長になれた3つのヒント《週刊READING LIFE vol.76「私の働き方改革~「働く」のその先へ~」》


記事:ギール里映(READING LIFE編集部公認ライター)
 
 
「今日は家庭教師、土日は居酒屋、あと単発のバイトもやってる」
 
大学時代、多くの友人たちはバイトをしていた。中には自分で学費を稼がなければならないといって、いくつものバイトを掛け持ちしている友人も少なくなかった。80年代後半の大学は、勉強よりもバイトとサークルに熱心な子が多かったのである。というのも時代はバブル経済の絶頂期、学歴さえあればそこそこいい就職先が約束されていたから、学業よりも遊びや遊ぶためのお金を稼ぐことに、一生懸命だった学生が多かった。今から思えば完全に社会をなめていたなとは思うけれど、そういう空気が大学中に流れていたのだから仕方ない。
 
しかし私は、バイトをほぼやったことがない。
別に家が裕福だったわけでも、部活が忙しすぎてできなかったわけではない。単純に怖かったのだ。書きなれない履歴書を書いておくり、面接を受けて仕事を得て、職場で新しい仕事と人に慣れながら働き、そこでバイト代をもらうという行為が、怖くて怖くて仕方がなかった。
 
「別に、そんな思いまでして働かなくてもな……」
 
つまりは、拒絶されるのが怖かったのだ。私は自分にそういいくるめ、なんとなくバイトをしていない学生の居心地悪さをごまかそうとしていた。やったことのないことをやって、がっかりされたらどうしようと、ネガティブなことしか考えなかったのだ。
 
そんな風にして私は大学時代、バイトをすることなく過ごした。
どこか友人に対して引け目や羨ましさを感じつつ、そんなことしなくても大丈夫だよね、と、強がっていたような気がする。
 
当時私は、働くことの意味がまったくよくわからなかった。
 
大学生だった私にとって、仕事とはどこかにお勤めに行くもの、そしてなんなら、結婚のタイミングではそれをやめて、なにか他のことをするもの、ぐらいの気持ちでしか考えていなかった。まだまだ女性の総合職が少なく、寿退社が当たり前だった時代だ。
 
それが今は、寿退社なんて死語になってしまった。
女性にとって仕事は一時の腰掛け的存在ではなく、しっかりとしたキャリアになった。共働き世帯が専業主婦世帯の2倍を数えるいま、女性が働くのは当たり前になった。
 
しかしお勤めにいくというアイデアも、実はあまりピンと来ていなかった。
我が家は自営業で料理屋を営んでいたので、お給料をもらって働くということが、なんとなくしっくりこなかったこともある。
祖父が立ち上げ、父が跡をついだ料理屋で、家族は生計をたてていた。我が家にとって仕事は、家族の場所でもあった。
 
休みの日はお店のレジに座って、ぼーっと厨房を眺めながら、お魚が裁かれたり、料理の下ごしらえをしているのをじっと眺めて過ごした。時折お掃除なんかを手伝うこともあった。父や母は同じ職場にいるものだったし、家と職場の垣根がなかった。
 
そういう環境で育っていたせいか、バイトのようにどこかに行ってバイト代をもらうとか、お勤めにでて給料をもらうということが、子どもだった私にはぜんぜんピンとこなかった。
 
「家の仕事を継いだら、就職しなくていいよね」
 
と思い立ち、大学3年のときに私は、オンナながらも家を継ぐ決意をした。
しかしそのあと程なくしてバブル経済が崩壊し、そのあおりを受けて両親の料理屋は潰れた。
 
「店は、潰したからな」
 
と、父はあっさり言い放った。
それまで継ぐ気まんまんだった私は、将来の行く先を大きく変更せざるをえなくなった。
 
いよいよ私もどこかに就職するのか。
さて、一体、どんな仕事をしようか。
 
まったくわからなかった。
 
自分が何ができるのか、また自分は何がしたいのか、全く思い描けないのである。なんせそれまで料理屋を継ぐ気満々だったのであるから、それ以外の選択肢はまったく考えていなかったのだ。
 
私はいかに自分が親に甘えていたのかを知った。
しかし、自分が何がしたいのかの結論はでなかった。
まだ拒絶されることが怖かった私は、おいそれとは仕事につくことができないのである。
 
どこにいっても「役たたず」と言われたらどうしようと思うと、一歩も踏み出せなかったのだ。日本に何千何万とある仕事のなかで、自分に何ができるのかが全くわからなかった。それもそのはず、大学とは学歴を得に行くところだと思っていたから、勉強も中途半端だった。しかも私が専攻していたのは「イギリス史」である。この学びが有利になる就職先など、まったく思いつかなかった。
 
そんな散々たる社会人スタートを切った私だが、それから25年たったいま、自分で事業を立ち上げ、それなりに仕事をし、それなりの立場になった。一人ではあるが従業員を雇うほどになった。25年も経てばそのぐらい当たり前だと言われそうだが、当時を振り返ると今自分がここにいることが不思議でならない。
 
怖くてバイトすらできなかった私が、自分で仕事を立ち上げるようになるとは。
人は変わるものである。
なぜそんな風に変わることができたのかを、3つの視点からお伝えしたい。
 
1 ご縁を大切にする
スマホやインターネットでいくらでも仕事は検索できるし、なんなら世界の仕事までもが探せる時代であるが、やはり人を介して知り得た仕事というのは、何らかの意味があると思っている。
自分から仕事を探すときは、まず検索するだろう。希望の給与額や勤務地、職種を入力して検索し、少しでも条件のよいところを選ぼうとする。そりゃ、同じ時間働くとしたら、お給料はよいほうがいいし、条件もよいほうがいいに決まっている。
 
しかし、条件で選んだ仕事というのは、その条件が破綻したら終わりなのである。
 
お勤めにいくというのは、誰かの懐に入って仕事をするということだから、その懐が安定しているかどうかの保証はない。大手企業であれ一生安泰かといえばそうではなく、どんなビジネスでもアップダウンはつきものだから、会社としても存続のためにいろんな判断をすることがあるだろう。そしてその判断は自分にとってもよい判断とは限らない。企業が存続するために派遣切り、リストラは日常茶飯事だ。そこまでいかなかったとしても、入社条件がひっくり返ることはあるだろう。
 
そうなると、その仕事が本当に自分がしたいことかどうかが問題である。
なぜなら条件で選んでいるのだから、その条件がなくなったら選ばない仕事だということだ。
 
また条件で選ぶとキリがない。
自分にとってパーフェクトな条件で働ける職場など、ほとんど奇跡ではなかろうか。このご時世どこもかつかつでやっている。しっかりと潤沢な条件を提示できる職種など、本当にまれだと言わざるを得ない。
 
いつまでも完璧にならない条件を追い求めていても、自分の仕事はなかなか手に入らない。
 
しかしもし仕事が、誰か自分の信頼する人からの紹介だったらどうだろう。
その方の顔を立てるためにも、またその方が紹介してくれるのだからと、興味がよりわくのではないだろうか。
 
仕事は究極、人を幸せにするためにするものだから、紹介してくれた人の顔を立てるための仕事というは、実は案外理にかなっている。また紹介してくれる人はおうおうにして自分より年齢も経験も上である。そういう経験者の知見からつないでくださるご援護言うものは、若輩者の自分が選ぶものよりも「筋がいい」可能性が高い。
 
人からのご縁を大事にしたり、流れに身を任せることが、案外仕事選びでは大事なのである。
 
 
2 小さな目標をもつ
 
最初から大きな目標をもとうと思っても、そんなものは降ってはこない。
 
だからまずは、1〜3年の単位で目標にすることを思い描き、それを達成するために走るほうがいい。
 
私が最初の事務の仕事で得ようと思ったのは、社会人1年生として、基本的なビジネスマナーや仕事の流儀だった。電話のとり方も伝票の書き方もわからないのであるから、それらをゼロから学び、いっぱいしに社会人になることがゴールだった。
 
1年でゴールを達成したので、その職場からは離れたが、あそこで同い年のお局がもしいなかったら、もっと長く勤めていたかも知れない。私は局にきっぴどくいじめられていた。しかし目標があったので、そのいじめは全く気にならなかった。
 
「うっとおしいな」
 
とは思ったが、私は自分の目標を達成することのほうが大事だったので、全く気にならなかったのである。
 
次に行った仕事はWEBデザイナーだった。
手に職をつけたいと思い、始めたのがコンピュータを使ったデザインの仕事だった。
これも3年ほどやり、一通りのスキルを身に着けた。目標は達成できた。
 
もちろん、もっと大きな目標から逆算してキャリアをデザインしたほうがいい、という声もあるだろう。しかし中には私のように、そんな大きな目標を思い描け無い人もいる。
 
だったらムリに目標を大きくせずとも、小さな目標に向かってコツコツがんばっていれば、そのうちに必ず何者かになれるものだと思う。
 
 
3 単純に自分が面白いと思うことをする
 
当たり前に聞こえるが、興味はないけどお給料がいいから、とか、そこの人間関係が素晴らしいから、ということで仕事を選ぶことがある。
 
面白いことなんて見つからない、という人もいるだろう。
そういうときは1,2をやってみてほしい。なぜならとにかく踏み出さなければ何も始まらないからだ。テニスでもサービスをしないと玉は帰ってこない。テニスだと相手がサーブしてくれることもあるが、必ず自分がサーブするゲームが来るのが決まりである。受け身だけでは成り立たないのは、どの世界も同じだ。
 
自分がいくばくかの行動を起こすと、必ずそのフィードバックがやってくる。そうするとそのフィードバックから、更に何かを学んでみようとか、もっと喜んで貰えるように頑張ろうとか、なんらか次の行動につながるためのヒントが手に入る。そうなると「自分が好きなのはコレかな」ということが、徐々にわかるようになってくる。
 
そういう糸口が見えたらチャンスである。あとはそれをどれだけ追求してみるかである。
 
自分が興味あることであれば、どこまででも学べるし、努力できる。そこには、これがお金になるかとか、有給が潰れるとか、そういう価値観が働かない。被雇用者の価値観が外れたところに、真の仕事の楽しさがある。
 
またもう一つ仕事を楽しむためには、自分のためではなく、誰かのためという大義名分があるほうが楽しめる。人は自分のためには一生懸命になれないけれど、誰か他人のためならもっと頑張れる生き物なのである。テストも自分のためなら勉強しないが、大好きな彼女や彼氏のためならできないことでも「できる」と見栄をはって、できるようになるまでやったりするものである。
 
こうやって私達は、自分が楽しめること、自分の興味があることだったら、誰よりも努力できるし、やり続けることができる。その結果誰よりも成果を出せるようになるし、評価もついてくるものなのだと思う。
 
遊ぶように仕事をすることができたら、全ての仕事が遊びになる。
そんな働き方を実現している人は、案外大勢いるものだと起業してから知った。
そういう働き方をする人たちは別に特別なのではなく、そういう意識が自分に芽生えるかどうかだ。自分にできるかどうかは、あくまで自分の行動にかかっているのである。
 
「仕事」を、ただお金を稼ぐとか儲けるためのツールとしてしまうのは、ものすごくもったいないことだと私は思う。もちろん若いうちは苦労も必要だし、生きるためにはお金がいるから、それを稼ぐ手段としての仕事を馬車馬のようにする時間も長い人生では必要だろう。
しかし私達は睡眠時間の次に多くの時間を仕事に費やすのである。その多くの時間が、ただお金を得るためだけだったら、ちょっとさみしい気がしてしまうのである。
 
近代日本の祖渋沢栄一は、論語と算盤という著書を残している。
つまり仕事は、在り方とビジネスの両方が大事だと説いているのである。
在り方ばかりを求めて収益があがらないのは続かないし、またお金ばかりを求めて働くのも続かない。論語と算盤の両方がうまく回っているから、その仕事は存続し続けることができるのである。
 
25年間ほど社会人をやってきて、そういうことがやっと少しだけわかるようになった。
まだまだもがいてはいるものの、そういうことを学べてこれた時間は決して無駄ではなかったなと思う。
 
やりたいことをしっかりとやり、なおかつビジネスとしても成立させる。
 
働く、ということは、そういう自己実現につながるために、神が人間に手渡した最高のツールなのではないか。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
ギール里映(READING LIFE編集部公認ライター)

食べかた研究家。京都の老舗料亭3代目として生まれ、現在は東京でイギリス人の夫、息子と3人ぐらし。食べることが好き、が仕事になり、現職は食べるトレーニングキッズアカデミー協会の代表を勤める。2019年には書籍「1日5分!子どもの能力を引き出す!最強の食事」、「子どもの才能を引き出す!2ステップレシピ」を出版。

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2020-04-20 | Posted in 週刊READING LIFE vol.76

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