週刊READING LIFE vol.80

大人になれなかったなりに大人になる 《週間READING LIFE Vol.80 2020年の「かっこいい大人」論》


記事:東ゆか(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
大人になる機会を逃してしまったと思っている。
音大を卒業した後もオペラ歌手になるために音楽活動を続けたかった私は、色んなアルバイトを転々とし、親から仕送りをしてもらいながら生活をしていた。そんなモラトリアム生活が30歳近くまで続いた。
 
大学を卒業したばかりの20代前半から中頃にかけては、他の音大の同級生たちの多くも似たり寄ったりな状況だったので、親には感謝しかないものの、そんな状況をさほど気にしてはいなかった。
しかし一般大学へ進学した高校の同級生たちは違っていた。厳しい新卒採用をくぐり抜け、大学卒業後にちゃんと就職し、順調に社会人としてのキャリアを積み重ねていく様子がSNSを通して分かった。正確にいうと、仕事が忙しくなった彼らが、一時期SNSにめっきり姿を現さなくなったことで、彼らの忙しさと、必死で仕事をしている状況を想像したのだった。
 
そんな彼らがSNSに再び姿を再び見せるのは20代半ばから後半。出演するコンサートの宣伝のために音楽仲間ばかりが埋めるタイムラインの中に、珍しく高校の同級生たちの投稿が目に入ってくる。「お!久しぶりじゃん」と思って、投稿をまじまじと見ると、ほとんどが結婚しましたという報告だ。SNSでは繋がっていなかった、顔と名前だけは知っている高校の同窓生がコメントを付けており、よく読むとコメントをつけた彼ら、彼女らもすでに結婚しているようだった。
 
一方私はその当時、これからはどんな曲を歌って、どういう歌手になっていきたいかに悩んでいた。働くことはあくまで生活費と、レッスン代を稼ぐため。誰かと人生を共にするどころか、自分の養育費と進路のことで頭がいっぱいだった。
 
結婚した人たちのライフステージの進みは早い。1年ぐらいすると、次々と子どもが産まれたという報告がSNS上に投稿されるようになった。自分と同じような音楽中心の生活を送っていたはずの大学の同級生や、音楽仲間たちにも結婚ラッシュが訪れ、彼らもまた1年ほどで父や母になっていった。
 
皆が人生のパートナーを見つけ、誰かの人生の半分を引き受けるような決意をし、子どもを持つ頃、私はやっと親に仕送りをしてもらうことから卒業できた。かつてのクラスメイトたちが誰かの人生の一端を担うころ、私はやっと自分の親の、その長すぎた役割を終えさせることができたのだ。
 
「大人」は「子ども」に相対する言葉だ。
誰かの庇護を受けて生きているのが子どもだとすると、誰かを守ったり、育てたりするのが大人なのだろう。同級生たちはそんな存在を得て、確実に大人になった。一方、守るべき誰かも、育てるべき誰かもおらず、いつまで経っても自分が一番大事な私は、今でも大人になりきれずにいると感じている。
 
家族の話だけではない。自分の生活のメインは音楽で、仕事は最小限にストレスが少ないものを選んでいた。そのため雇用形態はいつまで経っても非正規雇用だったので、30歳近い私の職歴はスッカラカンだった。音楽活動が順調ならばそれでも気にならなかっただろうが、まったく自分が理想とする歌手には近づけていなかった。大学の同期や後輩たちの名前をコンサートのチラシの中で見かけるようになったなか、私は大学卒業時とさして変わらず、毎日アルバイトを終えて自宅に帰り、練習をして、レッスンに行き、先生から励ましの言葉をもらう日々が続いていた。
オペラ歌手にはなれそうもなかった。自分の限界が見え始めていた。私は「大人の歌手」にはなれなかった。音大を出たときがひよこだったとすると、私は生育不良で大きくなれず、下手をすればそのまま死にそうな雛だった。音楽を辞めれば、そんな雛の私は死ぬのだろう。
 
もちろん、現代にはいろんな生き方をしている人がいる。結婚をしていない人や、子どものいない人を、昔のような考え方で「半人前」だと言うつもりはない。ただし、そんな人生を自ら選んだ人たちは必ず何かを成し遂げている。社会の中で、大人になったのだ。私にはそれがなかった。
 
私と似たような状況のFという友人がいる。Fは私が大学を卒業した年に北海道から上京してきた。Fは現代アートに関する仕事をしたいと言っていた。大学卒業までを北海道で過ごしたFにとっては、東京にはなんのツテもコネもなかった。アーティスト志望というわけではないから、作品を作って自分を売り込むという活動の仕方はできず、自分のやりたいことができる場所を探すのが大変そうだった。
 
私とFは行き詰まるとよく電話で話した。お互いの詳しい状況は話さないのだが、なんとなくお互いが思うようにいっていないことを察し合っていた。まわりが家庭を持ったり、キャリアを重ねて大人になりつつある状況で、大人になれない者同士として語り合える、数少ない友人だった。
 
そんな中で、ある日Fがこんなことを言った。
「もうさ、夢のある若い人たちに、無闇やたらと『頑張れ』なんて言えなくなっちゃったよ。頑張ってもどうしようもないことってあるんだよ。だから迂闊に『頑張れ』なんて言えないんだよね」
それには私もまったく同感だった。そしてそれは、私たちがある意味で大人になったことを感じさせる瞬間だった。
夢をみるというのは子どもに与えられた特権だ。大人になっても夢を抱く人はいると思う。しかし大人のみる夢は、現実に片足が必ずついており、ある程度道筋が立っている。全身全霊をかけて、なんのしがらみも不自由さも感じずに夢をみることができるのは、子どもの、若者の特権だ。
夢を抱くなとは思わない。しかしそれを叶える難しさを私とFは身を持って知っている。私たちがしたような、悔しくてやりきれない思いを、もしかしたら目の前の若者もするかもしれない。そう考えたときに、無責任に「頑張れ」とは言えないのは、苦汁を舐めたことで、無邪気な子どもから大人になったからだ。
 
他人を守ったり、育てたりする以外にも、大人になったからこそ抱く感情や、できることがあるのだと知った。それは相手を慮ることだ。
まだ、大きな意味で子どもだった頃は、成功していて、偉大なものへの憧れが強かった。そういう華やかなものこそが夢のゴール地点にふさわしく、自分もそうなるべきだと思っていた。
 
音楽仲間に、大きな公演への出演に恵まれず、素人の人たちの市民合唱団や、ギャラがもらえるかもらえないかよく分からない公演のお手伝いばかりをしている人がいた。とても気のいい人だったのだが、音楽家として成功しているとはいえない無名に近い人だ。
私は、その人のことを、内心「あんなふうにはなりたくない」と思っていた。その人がかつて仲良くしていた同期や後輩たちが、大きなステージで歌っている姿を見て、悔しくないのだろうか。その人はどうして音楽を続けているんだろうとさえ思っていた。それは「私はあんなふうにはなりたくない。私はあの人とは違うんだ」という傲慢な思いからだった。
 
しかし、私自身がいつまでも生育不良のままでいることで、だんだんその人と同じような立場になってきた。そのせいでその人のことをバカにできなくなった。むしろ、音楽を好きでいつづけ、音楽を続けている姿はとてもすごいことなのではないのだろうかと思えてきた。
自分の立場を守るための精神的な防御かもしれない。しかし「活躍していないから」という理由だけで、その人をバカにしていた自分を恥じた。
その人だって、音楽を続けるうえで、葛藤や苦しみがないわけではなかっただろう。自分を飛び越えて、はるか遠いところで歌う仲間を見て、何も思わないはずがない。それでもたまに顔を合わせると「どう? 元気にしてる?」と、いつでも気さくなその人の姿は、ある意味順調に物事が進んだ人にはない強さを感じる。
音楽を捨てるタイミングなんていくらでもあったはずだ。その人の地方にある実家は、お金持ちで、なかなか立派なお家らしい。そういう家に生まれたから音楽が続けられたということもあったかもしれないが、それだけではカバーしきれない葛藤や苦しみもあったはずだ。実家に帰って、家業を継いだり、ツテコネで音楽の教員になる道もあっただろう。その人はそうしなかった。それはきっと、純粋に音楽が好きだったからだ。同じ音楽仲間に、心の中で優劣をつけていたことをとても恥じた。
 
夜の飲み屋で友人たちと飲んでいたときに、その人とたまたま居合わせたことがある。久々の再会にその人が、「最近どう? 俺は相変わらずだよ」と言った言葉のトーンが、とても印象的で、今でも覚えている。当時はそこまで深く感じなかったが、今考えれると、いつものその人の口調とは少し違っていた。「相変わらすだよ」というところは少し吐き捨てた感じの言い方で、自嘲が込められていた気がする。その当時、その人にとってはもしかしたら、なかなかつらい時期だったのかもしれない。
 
大人になることにとても憧れていた。誰かを守り、育て、何かを成し遂げ、輝いていて、成功している。それが大人になった私の姿だと思っていた。
大きなステージに立ち、コンサートのチラシに名前が載り、いつも人前で歌っている。そんな歌手が憧れだった。歌手としてちゃんと「大人」になりたかった。
 
しかし今になればそんなことはもう、どうでもいい気がしてくる。完全に思いが断ち切れたと言えば嘘になる。しかし、若者に「頑張れ」と安易に声をかけられなくなったり、「ああはなりたくない」と他人をバカにしていた自分を恥じたりと、他人について思いを巡らせる想像力については、成長しつつあるのではないのだろうか。
 
そういえば、大人という言葉は「ズルさ」や「冷たさ」といった言葉にも関連付けられる。これは大人になれなかった私の僻みかもしれないが、処世術ばかりを身に付けることと引き換えに、心をどこかに置き忘れてきてしまった人たちを形容する言葉だ。少なくともそういう「大人」にはならにようにしよう。それだけでいい。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
東ゆか(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

音楽大学を声楽専攻で卒業。フランスが大好き。外出自粛があまり苦になっていないインドア派。

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2020-05-18 | Posted in 週刊READING LIFE vol.80

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