リーディング・ハイ

57歳の僕は、大人の男になりたかった……男の生き方のテキストブック《リーディング・ハイ》


farewell

 

記事:西部直樹(リーディング・ライティング講座)

 

 

「わたしはキスされたいのよ。ひどい人ね」

彼女は、わたしを睨みながら言うのだ。

彼女は、街を歩けば10人中10人が、いや100人中100人が振り返る、そんな美人だ。

 

こんな場面を高校生の頃、夢見ていた。

 

10代の後半、一人の私立探偵に憧れた。

フィリップ・マーロウという男だ。

レイモンド・チャンドラーが描いた、ハードボイルドのヒーローだ。

高校生のわたしは、彼のような大人の男になりたい、と切に願ったものだ。

 

 

フィリップ・マーロウの活躍する本を読んで、さまざまなことを学んだ。

 

例えば、大人の男は、どんな美人に遭遇しても、あるいは彼女から口説かれても、平然としているものなのだ、と。

「キスされたいの」と言われても、肩を少しすぼめるくらいだろう。

この台詞の後は、書かれていないので、想像するしかないのだけれど。

それが、大人の男というものだ。

 

 

大人の男は、鋭い洞察力とそれを的確に表現するものだ、と。

例えば

「わたしの前を通り過ぎた娘が、こちらをちらりと見た。人の背骨をストッキングの伝線に思わせてしまうような視線だった」

といえるように。

 

背骨をストッキングの伝線に思わせる視線というのは、きっと何かすごいのだろうとは分かるけれど、よくはわからない。でも雰囲気はよくわかる。

そんな表現力を身につけたいと思った。

こんな素敵な言い回しができるのが、それが、大人の男というものだ。

 

素晴らしい言い回しは、物事を言い表すだけでなく、会話の中でさり気なくいえるようになってこそ、大人の男だ。

 

危機的な場面でも、こんなに軽やかに会話を交わすのだ。

「ばあさんなら肝を冷やして入れ歯を落とすところだ」と私は言った。「彼は現実にどのような役に立つのだろう。あなたの膝に乗ってフランス語の歌でも歌ってくれるのかな?」

 

あるいは、

一人の老女を説明するのに、

「泥の詰まったバケツみたいなご面相でね。彼女がクーリッジ大統領の二期目以来、髪を一度でも洗ったことがあるとしたら、うちの車のスペアタイヤをひとつ丸ごと食べて見せよう。リムなんかもみんなつけたまんまね」

といってみたりするのだ。

 

そんな小粋で、しゃれた言い回しができるようになりたいと、切に願ったものだ。

 

そして何より、こんな大人の男になりたかった。

 

「こんなところ一刻も早く立ち去り、できるだけ遠くに離れるべきなのだ。ところが私はドアを開けて、静かに中に入った。それが私という人間だ」

 

そのドアを開けなければ、その後のトラブルとは無縁だったかもしれない。それなのに、開けて入ってしまう。

それが、大人の男、というものだ。

 

 

そんな憧れを持っていた。

それから40年たって、大人の男になれたのか、というと……。

 

いまも、美しい人を見ると、呆然としてしまうし、泰然自若としてはいられない。

100人中100人が振り返るような美女から、口説かれたこともない。

 

鋭い洞察力と表現ができるようになったかというと、それはまだまだ遠い。

まして、そんな素敵な言い回しで会話できるかというと、全くだ。

試しに言ってみたことはある。

的確な比喩と言い回しだったと思う。それは、思い出そうとすると、手が止まってしまうくらい素敵だった、はずだ。その言い回しを思い出せないのが、かえすがえすも残念だけれど。

その私のとても素敵な言い回しを聞いた相手は「フン」と小鼻を鳴らして、次の話題を話しはじめてしまった。

それくらいだ。やれやれ。

 

大人の男になる路は険しい。

 

だから、いまだに何かドアの向こうにあることが分かっていても、そっとドアを閉め、静かに立ち去り、柱の影から成り行きを見守るくらいしかできない。

 

 

フィリップ・マーロウのような男には成れなかったけれど、彼の物語に出てくる、切ない男たちの心情は、わかるようにはなった。

 

「……彼女が何をしようが、誰と遊び回ろうが、どんな過去を持っていようが、そんなことは関係ないんだ。彼は妻を深く愛していた。それに尽きる」

「ムース・マロイと同じように」

 

 

この台詞を読むと、胸がシンとなる。

愛の形は、人それぞれだ。

若い頃なら、わからなかったかもしれない。

でも、高校時代から半世紀近くたって、

このようなこともあるのだ、とわかるようになった。

 

切ない愛の形を、優しく見守ることができるのも、大人の男なのだ。

 

そうだ、もう一つ、ある。

 

とてつもない美女から口説かれたことはないのだが、

10人中8人くらいは振り返るほどの女性を口説いたことはある。

 

勇気を出して、

その結果は、

 

いま我が家にいるのである。

 

大人の男は、照れずこういうこともいえるのだ。ふふ。

 

 

 

 

参考にした本は

 

「さよなら、愛しい人」レイモンド・チャンドラー著 村上春樹訳

 

他、レイモンド・チャンドラーの著作とフィリップ・マーロウ。

 
 
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2016-10-03 | Posted in リーディング・ハイ, 記事

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