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スタッフ山中のつぶやき

私が3年間を通して撮影してきた数々の写真は、一体何なのだろう。《スタッフ山中のつぶやき》


写真とは一体なんだろう。

 

 

そんなことをふと考えてみることがある。

 

後々になっても残るような思い出なのか。
その状況をより鮮明に伝えるための手段なのか。
それとも何かを表すためのアートなのか。

 

人、風景、動物、物。様々な被写体にカメラを向けてはその瞬間を写し出す。
そのシャッターには一体どんな意味があるだろう。

 

 

カメラを始めて3年になる。大学生の頃から、写真教室のイベントを企画運営していたということもあり、人よりはカメラに多く触れてきたと思う。
最初は基本的な操作もままならず、常にカメラおまかせモードで撮っていたけれど、今となっては自分で様々設定するマニュアルモードで撮影をすることが当たり前になった。

でも正直に言ってしまうと、3年も経った今でも、私は自分の写真のその意味を、未だにわからないでいる。記録、伝達ツール、アート。そのどれかに当てはまるのかどうかさえ検討もつかない。
いいなと思って、それこそ、風景や、スナップ。モデルさんから食べ物まで、様々なものにシャッターを切ってきたけれど、
いつの間にか何百枚もの写真が収められたSDカードが何十枚も手元に持っているけれど。

 

私が3年間を通して撮影してきた数々の写真は、一体何なのだろう。

 

カメラを始めたきっかけは
何か衝撃的な1枚に出会ったわけでも、素敵なカメラマンに感化されたわけでも、写真に残したい特別な瞬間があったわけでもない。

ましてや難しい設定のいらないコンパクトデジタルカメラでもなく、日常的に手にしているスマートフォンでもなく、私が世間でいうちょっといいカメラを選んだのは

 

友人がもっていたから

そんな取り留めもない理由からだった。

 

大学から親しくなった彼女は、とにかく宮崎あおいちゃんが大好きな女の子だった。髪型もファッションも、メイクも。何もかもがどことなくあおいちゃんに似せているようで、一目見ただけで「あぁ、きっとこの子はあおいちゃんのことが大好きなんだな」と何を語るわけでもないのにわかるくらいだった。
そんな彼女がおなじみの大きな黒いリュックと、見慣れない白い四角いカメラを首から下げて食堂に現れた日のことは今でも鮮明に覚えている。

 

カメラというと、バイトを始めたばかりの女子大生にとってはとても大きな買い物のようだけれど、当時あおいちゃんがCMをしていたオリンパスのカメラPENを手にすることは彼女にとっては毎日食堂で同じメンバーとご飯を食べるくらいに、実に当たり前のことのようだった。

 

「買っちゃった」
となんとも嬉しそうな様子で、次々に写真を撮ってく。いつもならアイフォンでも絶対に撮らないないような、食堂のランチや、教室の様子にカメラを向けては、ピピ。とピントを合わせた後に、パシャ。とシャッターを次々ときる。
ピピ。パシャ。ピピ。パシャ。ピピ。パシャ……

 

「いいなぁ」
そんな彼女の様子を見て、正直羨ましいなと思った。
でもそれは、そのカメラに対してというよりは、ミラーレスカメラを首から下げ、いわゆるカメラ女子になれている彼女自身が羨ましいなぁという感覚だった。

いいなとは思うけれど、私の場合、どうせいつの間にか持ち歩くのが億劫になって、実際に写真を撮るのは、スマートフォンになるんだろう。
いいカメラを買うにしても、設定が簡単そうなコンパクトデジタルカメラを買ったほうがいい。そもそもカメラを買うお金があるならば、前から欲しかった服を買ったほうが私にとって有意義だ。彼女の楽しそうな様子を見ながら内心そんな風に思っていた。

 

でも、そんな考えが一瞬でふっとんでしまうほど、
その撮影され写真を見た時、言葉にできない何かを感じたのだった。

 

あれ? ここまで違うの?

 

カメラは画素数が良ければより鮮明に映る、良い写真が撮れるのだろう。
と、写真に対してそんななんとなくの知識しかなかった私にとって、その液晶画面に写った画像は驚くほどに想像を裏切っていた。
画素数だとかそういったキレイさではなくて、その質感が私の知っている写真とは全く異なるものだったのだ。

違うとは知っていたけれど、ここまでとは。
ただ事実を写し出しているだけではない。何かがそこにはあった。
正直言って、特別に彼女の写真が上手かったというわけではない。
でも、その光とボケと、色とを見て
いつも食べている学食が、退屈に見えた教室が何か特別なものに急に変わったような、そんな感覚に襲われた。

こんな風に“いい”写真が撮れるのか。それならばと
私は一眼レフカメラを買うことにした。

 

 

 

カメラを手にすると、そこにあるすべてのものが被写体になるとはよく言ったもので、
街も、空も。いつも使っているペンも。ボケを生かして、光を入れて、写真に撮るとなんだかいつもよりも素敵に見える。そんな気がした。

この時の私の写真は、とにかく目に付いた気になるもの撮って撮って、撮りまくっていて、その変化や、見え方に驚くばかりだった。いつもだったら気が付けなかった季節の変化に嬉しくなったり、なにげない日常の良さに気づいたり。あぁ楽しい、楽しい。毎日のようにカメラを持ち出しては、ピピ。パシャ。ピピ。パシャ。とどんなものにもシャッターを切っていた。友達と写真旅行に行く機会も増え、カメラは私の相棒になった。

今思えばその時の写真は、間違いなく、私の、私による。私のための写真だった。
写真とは自分自身が楽しんで、その楽しい時の記録をよりよく残すための、思い出を美しく残すためのものだった。

 

 

でも、しばらくすると困ることが増えてくる。
なんで、夜だとシャッターが上手く切れないの?
なんで、ピントが上手くあってくれないの?
なんで、暗がりで撮ると画質が少し荒くなった気がするの?
オートモードは、その時々のベスト設定をカメラが決めてくれるけれど、どうしてその設定にしたのか、教えてはくれない。

もっと、暗くして、雰囲気を出したいのに。
もっと、明るくして、人の顔をはっきり写したいのに。
写真一枚一枚にそんな欲が出てくるようになった。なんとなくではもう限界。
やはり、写真をしっかりと習う機会が欲しい。

 

そんな時に偶然に出会ったのが天狼院書店で、そこで開催されるというフォト部という写真教室イベントだった。
聞けば、本屋にプロカメラマンがやってきて実際に写真の撮り方を教えてくれるというではないか。
当時の私にとっては願ったり叶ったり。

月に2回ほど行われるこのイベントは総勢15名ほどの参加者に先生が一人ついて、その時々のテーマに沿って撮影をしていくという内容で、遠出したり、モデルさんを呼んだりすることもあった。
何回も参加しているうちに、もちろんカメラの操作もだんだんとわかるようになってくる。
でもプロカメラマンに直接教わる技術に勝るくらい、様々な人と写真を撮るという機会は私に多くの気づきを与えてくれた。

一番驚いたのは目線の違い。
同じシチュエーション、同じ被写体を撮影してるはずなのに、全然撮影される写真が違った。もちろんカメラやレンズの違いはあるけれど、それ以上に、写真として一枚に収める際のそれぞれの目線が違うことを実感した。

 

え!そんなところ見てなかった!
え!そういう風に切り取るの!

 

モデルさん一人撮るにしたって、
その表情を写し出すのか。
風景の一部としてあえて主役にはしないのか。
部分を切り取って際立たせるのか。
仕草を生かして、ストーリーを感じさせるのか。

もちろんそこには、正解なんてなくて、10人いれば、10色の。いや、それ以上の写真が生まれるようだった。
写っているものはほとんど同じなのに、写真の捉え方一つで表現の方法も全く違う。カメラマンの感性を大いに表現しているものもあれば、モデルさんをより魅力的に見せる一枚もあった。
そこでの写真は、自分のいいと思ったものを自分なりに表すための写真だった。写真とは自分の感性を表現するためのものだった。

 

 

そんな中で、モデルさんがいない時は、
「はい! なっちゃん、そこに立ってみて!」という具合に被写体として“撮られる側”に回ることも。
何枚も撮影してもらった後に写真を見せてもらう。

いい。確かに、いい写真。でも被写体として、カメラマンとコミニュニケーションをとれる立場になって、初めて気がつくこともある。
自分がいいなと思うものと、カメラマンがいいと思ったものが‘必ずしも同じであるとは限らないのだ。

写真を見せてもらって、もちろん素直にリアクションするのだけど、

 

「いい! めっちゃいい!(心の声:あ、でも、あわよくばもっと上から撮ってもらえると嬉しかった……)」
「おお! 素敵!!(心の声:もし、もしも一つ言うとしたら右から撮った顔の方が自分的には好きなんだけどなぁ……)」

 

あぁ、そうか。そこに被写体の意思が入る時、写真はカメラマンのためだけのものではなくなるのか。撮る側と撮られる側の両方の意思を写真の中に混ぜ合わせて、その二つのバランスで1枚の写真ができあがる。

ポートレート(人物)撮影、商品撮影など何か主役となるモデルをそこに置くと、それはもうカメラマンのためだけの写真ではなくなる。それは、撮る側と撮られる側のいいと思うポイントをああでもないこうでもないと、撮影を通して対話しながら(そこに会話がない場合もあるけれど)見極めてく写真だった。写真とは、カメラマンと被写体とのコミュニケーションがあった上で成り立つものだった。

 

 

 

そんなフォト部も3年もやっていると累計参加人数も1300人を超えてきた。それに伴い、参加される方のどんどんとスキルも上がってくる。
中にはプロカメラマンとして活躍したいと思う方も出てきた。それほどまでに腕前が上がっている人も多くなった。
シチュエーションに合わせて撮影するのではなく、光や、背景など、自分で作りこめるようになりたい。スタジオで、機材を組んで、撮影ができるようになりたい。そんな要望から実演したのが毎回モデルさんを呼んで、スタジオで機材を使って撮影を行う、パーフェクトポートレート講座だった。

講師を務めるプロカメラマンの榊先生は普段、数々の著名人、有名人。雑誌や名だたるメーカーの広告の撮影など、プロカメラマンの中でも第一線で活躍されているプロ中のプロ。
「先生! 最近はどんな方を撮られたんですか?」
と聞けば、こっそりと大物芸能人の名前を教えてくれるような、そんなすごい方である。

 

榊先生の講義は自分で写真を撮る時間以上に、先生の撮影の様子は見ているだけでも本当に勉強になった。モデルさんとのコミュニケーションの仕方から、光の扱い方、シャッターを押すタイミングまで。会話をしながらパシャパシャっと数枚の写真をとる。しかしそれを見せられた時は、決まってスタジオ中が毎度歓声に包まれた。
モデルさんは、綺麗に写っている。ピントもバッチリ合っている。映し出されたものの魅力を最大限に引き出しているのではないかとそう思える写真たちだった。むしろそれしかなかったかも。
経験や知識はもちろんだけれど、「相手の求めていることを考える。」常にその意識が徹底されているようだった。
その相手とは、撮られる被写体ではなく、その写真を撮って欲しいとオファーしたクライアントでもなく、その写真を見る人のことである。

この春に天狼院で雑誌を作った際に、この大変さが嫌という程にわかった。
というのも自分の担当する記事はい自分自身が、編集者であり、カメラマンだったからだ。
紙面見る人のことを考えて、構成を考えて、イメージを固めた上で、自分自身にオファーを出して、写真を撮影していく。しかし、これがなんともまぁ難しい。

依頼を受けてとして写真を撮る場合、自分の意思よりも、被写体の意思よりも。まず優先されるのが撮って欲しい写真をオファーするクライアントの要望だ。クライアントは、もちろんその写真を見る人のことを一番考えている。
仮に、新作のバックの撮影があって。カメラマンもモデルさんも大満足の一枚が撮れたとしよう。でも肝心なバックが綺麗に映し出されていなかったり、違うところが気になったりすればその商品の魅力は伝わらない。伝わらなければ意味がない。

それは何かを伝えたいというクライアントの問いに応える写真だった。
写真とは、求める人のことを考えて、考えて、考え抜いていきつく一つの答えだった。

 

 

ふぅ。ここまで来てやっとやっと、3年である。

さぁ、今一度考えてみよう。

 

写真とは一体なんだろう。

 

自分の撮りたいものを撮ってきた。様々な人の写し出した写真も見てきた。撮られる人の気持ちも体験した。相手の問いに答えるように撮影することも学んだ。

そんな今の私の結論は

写真とは様々変化するもの。 というものである。

この3年でわかったことは、一枚の写真には、その写真を撮る人、その写真に写る人、その写真を見る人の3つの感性がこめられているということである。
その3つのバランスによって、写真は様々変化していくのでないだろうか。

①写真を撮る人の感性が強い場合

 

撮る人の目的、とにかく何かを表現したい。思い出を残したい。など、自分のために撮られた写真は撮る側の感性が強くなる。世間一般で評価されるわけではないけれど、仲間内ではとても思い出深い写真や独自性の高く、アートと評される写真は撮る側の意思が強く出ているように思う。思い(ex:出としての写真、アートとしての写真)

 

 

②その写真に写る人の感性が強い場合


撮られる側の目的。綺麗に写りたい。晴れ姿を記録にとっておきたい。など、写真に写る側のために撮られた写真は被写体の感性が強くなる。ポートレートや、運動会の記念撮影など、他の人が一目見ても、この人よく写っているねと評価されることが多い写真。
(ex:ポートレート写真、記念写真)

 

 

その写真を見る人の感性が強い場合


見る人が何を求めているのか、見る人がいいなと思うのはどんな写真かを考えて撮られた写真は、SNSでいう、いいね!がたくさんつく写真が多いのではないか。でも自分らしさを見つけるのが難しいところ。写真は一度手を離れてしまえば、その写真から何を読み取るのかは見る側の感性による。いくら、カメラマンが写真で自分の意思や物語を表現しても、見る側は、まったく違う意思を読み取ることもある。綺麗だなと思ってなんとなく撮影した風景に、「勇気が湧いてきました」と感想をいただくこともある。(ex:広告写真、みんなの いいね! がつく写真)

*あくまで個人の見解です。

 

「写真を撮る人」「写真に写る人」「写真を見る人」一枚の写真には必ずこの3つが存在する。
この3つのそれぞれの感性が折り重なって、バランスをとって、主張し合って完成するのが写真なのではないだろうか。

 

 

カメラを始めて3年になる。

今私が撮っている写真は、やっぱり
残しておきたい思い出で、
何かを表現したアートで、
今こうしているよ’!という伝達手段で、
写るモデルさんをより美しく写すもので、
その写真を見る人のことを思うものだ。

そんな写真をいっぱいに詰め込んだSDカードはこれからも何十枚と増え続けていくのだろう。
その一枚にはどんな感性がこめられるのか、私が一番ワクワクしている。
どんな瞬間が、どんな感性が私を待ち受けているのだろう。

あぁ、これだから、写真はやめられない。

 

***

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