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「30メートル」の旅が、私を最強にした


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記事:K子(ライティング・ゼミ2月コース)
 
 
「それじゃ、行ってくるね」
意を決して、車の中で母に別れを告げた。
 
「なかなか連絡できないと思うけど、頑張って!」
静まり返った真夜中の駐車場に優しく響く母の声援が、私の重い身体をそっと押した。
 
 
これは、私の旅の記録である。
時は2021年。まだコロナウイルスという未知なる恐怖が世間を騒がせていた頃だ。
世界中の人が外出や旅行という娯楽を奪われていた時期に、私の旅は始まった。
 
それは距離にしてたった「30メートル」、時間にして5分にも満たない旅だった。
場所は大阪の総合病院。
私は30年間の人生で初めての出産に挑んだのだ。
 
 
慎重な性格の私は、出産に関してとことん入念に予習をした。
『出産レポ』とタイトルの付いた動画を見すぎて、私のYouTubeの画面は分娩台に横たわる妊婦さんのサムネイルで埋め尽くされるほどだった。
しかしどれほど前知識を仕入れようとも、出産という未知なる経験への恐怖は消えなかった。
 
いよいよ出産予定日まであと1ヶ月となったとき、医師から絶望的な知らせが告げられた。
それはコロナウイルスによる緊急事態宣言発出に伴う、出産時の立会い禁止だった。
 
なんてこった! 私は頭を抱えた。
出産の時は、夫が立ち会ってくれる予定だった。
出産経験値ゼロの男である夫は、立ち会えたとしても大した戦力にはならなかっただろう。
しかし、考えてみて欲しい。
桃太郎だって、鬼ヶ島に向かう時はきじや犬や猿を連れて行ったではないか。
いやいや、敵は鬼やん? 絶対そんなメンツで勝たれへんやん? 
そう思う人もいるだろう。
しかし今の私は、桃太郎の気持ちが分かる。
 
たったひとりで未知なるものに挑むのは、本当に怖いのだ。
 
 
そしていよいよ、その日がやってきた。
桜が咲き始めた3月末日。
里帰り出産のため、帰省していた実家で母お手製の晩御飯を食べ終わった頃に異変が起こった。
急に数分おきに規則的な痛みが下腹部に訪れたのだ。
入念な予習で出産に関する知識だけは膨大になった私は、すぐに気付いた。
これは、陣痛だ!
 
急いで母の運転で病院へ向かった。
母が病院の夜間受付前に車を停め、私はたったひとりで病院の扉を叩いた。
両手にかついだ大きなボストンバッグには、渡す宛もない大量のきびだんご(お菓子)が入っていた。
 
エレベーターで産科のフロアに上がると、助産師さんが陣痛室と呼ばれる場所に私を案内してくれた。
「室」と名前がついているものの、だだっ広い空間に4台のベッドがカーテンで仕切られて置かれただけの殺風景な場所だった。
 
日曜の夜ということもあり、人手は手薄なことが感じられた。
案内してくれた若い助産師さんは、ベッドにだらんとぶら下がったナースコールのボタンを私に手渡し、「痛みが強くなったら鳴らしてくださいね」と言ってすぐにその場から居なくなってしまった。
 
助産師さんの足音が遠くなり、空間から物音が消えた。
決戦前の静けさだ。
 
5分から4分、4分から3分。
痛みの間隔が狭くなってくるたびに、痛みのレベルがぐんと上がっていくのを感じた。
『痛みが強くなったら鳴らしてくださいね』と言われたものの、どの程度になれば押して良いのか分からないナースコールを握りしめたまま痛みに耐えていた。
そして、額に溜まった脂汗がベッドシーツにぽとりと落ちたそのときだった。
 
ぱん!
 
それはまるで、かけっこのよーいどん! で鳴るピストルのような音だった。
下半身で何かが弾けた感覚がして、みるみるうちに履いていたマタニティレギンスがじんわり温かく湿った。
これは、破水だ!
 
「は、破水ですう!」
ナースコールを押すなり、私は泣きながらそう叫んだ。
 
遠くから、ナースサンダルがパタパタと近づいてくる音がした。
カーテンが開いた。
するとそこには、百戦錬磨のお産をとりあげてきた(ように見える)ザ・ベテランの風貌漂う助産師さんが仁王立ちしていた。
 
やった!
ここに来て、きじや犬や猿どころじゃない最強の助っ人が現れたのだ!
安心して思わず一瞬痛みを忘れたそのとき、その最強の助っ人から衝撃の一言が降ってきた。 
 
「あーいい陣痛きてるね! あそこに分娩室があるから、これ(点滴台)使って歩いて来てくれる? 私あっちで準備してくるからね」
 
そして光の速さで私の右腕に点滴を入れ、忙しなくカーテンの向こう側に消えていった。
 
 
え?
 
 
 
目が点になる私。
 
「陣痛がおさまったタイミングでいいからね!」
 
遠くから助っ人の声が聞こえる。
嘘やろ? え、まじでか?
私ひとりで行くのか? この激痛の中?
 
カーテンの向こうから光輝く分娩室までのその距離、わずか30メートルほどの直線の廊下。
でもすでに2分に1回は腰が砕けそうな激痛の陣痛が来ている私にとっては、フルマラソンやトライアスロンより過酷な道に見えた。
 
おいおい、鬼ヶ島、遠いな……?
 
たったひとつの武器(点滴台)を握りしめて立ち上がり、陣痛と陣痛の間を狙って可能な限りの速さで歩く。
しかしすぐにまた陣痛が来て、その場で点滴台にすがりついて立ち止まる。
 
スタスタ、ピタ。スタスタ、ピタ。
この動き、なんか見たことあるな?
あ、あれだ! 家の中で出会いたくない虫ランキング堂々1位のGから始まるあれだ!
あいつら、いつもコソコソ歩いている途中で謎の停止時間があると思っていたけど、まさか陣痛中だったのか?
そうと分かれば、今後出会ったときはちょっとばかりヤツらにも同情してしまいそうだ。
 
そんなことを考えながら、私はなんとかたったひとりで30メートルの旅を終えた。
煌々と輝く分娩室にたどり着いたとき、その気分はまさに無数の敵を倒していよいよボス戦に向かうゲームの主人公。
 
鬼よ。どこからでも来い……!
 
そして無事、分娩台の上で人生史上ダントツの痛み(鬼)に打ち勝ち、愛しの我が子に出会うことができたのである。
 
 
これが、コロナ禍真っ只中に私が経験した短い旅の記録だ。
 
たったひとりで挑戦する未知なるものへの旅は、人を強くする。
 
そう、それがたとえたった「30メートル」の道のりであったとしても。
 
 
 
 
***
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2024-04-25 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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