わたしたちはなれないことがわかっているからこそ、天才に憧れるのかもしれない。
記事:河野ひかる(ライティングゼミ・平日コース)
「天才は、コツコツものを作るとか、たくさん本を読むとか、そういうものとは別次元の世界にいる。」
とある講義のなかでの教授の発言に、わたしはどきりとした。
私には才能がない。そう思い知って何度も泣いたことがある。
努力ではどうにもならない次元の人々が、この世界にはいるのだと。
芸術系の大学に通っているせいかひどくその現実に傷ついた。
それに対して「じゃあ天才を超えるには?」という質問に
「天才とはどういう人のことを指すのか? 天才は必要なのか? 本当に越えなければいけないのか? を考えなければいけないよ」
と答えていた。質問に対して質問で返ってきたそれは、その先のことは他の人に問うてはいけないのだと、自分で答えを出さなければいけないものだと突きつけられる。
授業後、ずっとモヤモヤと感情の奥の方で考えが止まらなくなった。
どの分野にせよ才能がある人というのは「作ることをやめられない人間」だと思っている。
というか、やめたい、などという感情がそもそも範疇にない人々こそ才能の塊だなあと思う。
しかし、才能があるとかないとかそういう次元ですらない人だっているのだ。
作ったもので、人の心を変えられる人。
そして、悔しいことに私の通っている大学にはそういう人がたくさんいる。
たくさんいるのだ。
そして、先日、もう日付が変わろうとするタイミングで、わたしの通う大学の教授である天才が作った新たな商品のコンセプト文を読んでしまった。
悔しいがとてもスマートに問題解決を図ろうとするそれは、まさに私がやりたい分野の一つだった。
でも、私にその発想はなかった。
先日の授業で教授は、さらにその天才のことをこう言っていた。
「彼は他の人とは見ているところが違う」と。
私は、天才にはなれない。知っている。ものをつくることをやめられない側の人間でも、切り取る視点が違うわけでもない。
平凡なので本もたくさん読もうとするし、どうにかインプットできないかと作品をたくさん見ようとする。
でも、天才は、そんなことをしなくてもいつだって飄々としながら作品を作ってくる。
そしていつだって、そのかっこいい作品に圧倒されて終わるのだ。
本当にすごい作品は、誰かの気持ちを動かす力のあるもので、アートやデザインには、その力がある。
アートやデザインなんて本当はとてもマイナーな世界なのだろう。
わたしだって、今の学校に入学する前はアートにもデザインにもまるで興味がなかった。
どこか遠い世界のもので、自分には無縁だと思っていたのだ。
その遠かったはずの世界の天才たちは、知ってしまえばずっと先にいながら、わたしたちを圧倒して、離さない。それだけのなにか不思議な力がある。
不思議な力、なんて文章を書く練習をしている身で語彙力が無さ過ぎて恥ずかしいが、本当にものづくりの現場には言葉にならない、圧倒的なパワーがある。
しかしこんな大変な世界になんで憧れたのか、バカだなあとも思う。
でも、自分が作ったものが世の中に出る喜びと、自分の前を悠々とゆく天才たちへの強烈な憧れを知ってしまった以上、もうどこへも戻れないのだ。
そしてわたしたちはきっと、なれないことがわかっているからこそ、天才たちに憧れるのだろう。
本当は幻想かもしれない天才たちの背中を追いかけながら、今日もわたしは作り続ける。