『言葉の壁の向こう側』
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
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記事:中川公太(ライティング・ゼミ平日コース)
「Excuse me?」
突然、英語で声を掛けられた。
「What’s happened ?」
とりあえずの英語で返事をする。
「Do you know this address?」
そう言うと、彼女は一枚の紙を見せてきた。
買い物からの帰り道、僕が住むアパートのすぐ近く。
ある冬の夜、7時半過ぎのことだった。
黒髪に背は低く、アジア系の人だとは分かるくらいの訛りだった。
声からして、年は50~60代くらいだろうか。
紙を見ると、どうやらこの辺の住所らしい。
しかし、僕は引っ越してまだ日も浅いことも手伝って、どっちの方角なのかも分からない。
スマホを取り出して調べてみると、その場所はすぐに分かった。
「今いるところがここ、目的地の住所はここ、行くにはこっちの方角です」
拙い英語で伝えた。
けれど女性はイマイチ分からないようだ。
これがもし、大きな道路や名前の付いた建物ならそれでも大まかには分かってくれたかもしれない。
この時スマホが示した場所は、住宅街の狭く込み入った道の一角のアパートだった。
日本人の僕でさえ分かりにくい住宅街の入り組んだ地形だ。
これでは理解する方が難しい。
「僕が案内します」と伝えると、女性は少し安心したようだ。
「Thank you」と言いながら、身の上話を始めた。
「私たちはシンガポールから来て、インターネットの民泊サービスでこの住所の民家を借りて、今夜はここに滞在することになっている」
私たち??
少し離れたところまで一緒に着いて行く。
すると、背が高い男性と、一人の女の子が待っていた。
どうやら家族連れの旅行者らしい。父親らしき男性はスマホで誰かに電話をしようとしている。
事情は何であれ、場所は分かっている。
後はスマホを頼りに歩くだけだ。
「Ok,ok」
そう気軽に返事して、スタスタと一家と連れだって歩く。
少し行くと、スマホのアイコンが目的地から少し離れてしまったことを示している。
どうやら道を間違えてしまったようだ。
「ごめんなさい、こっちです。僕も最近引っ越してきたばかりで慣れていません」
苦笑いしながらそう言うと、
「No,problem」
と母親は言った。
そんな風にして、行き過ぎ、曲がる道を間違えそうになりながらも、地図のアイコンは徐々に目的地に近くなっていく。
歩きながら、母親は何かと話しかけてきた。
「昨日は大阪、明日には北海道に行くのよ。この子はspecialなの」
挙げた地名は長い距離に思えたが、きっと外国の人の距離感はそんなものかもしれない。
specialというのも、家族にとって子どもが特別な存在と言いたいのだろうか、よくある表現くらいにしか感じなかった。
しかし肝心の建物は分からない。
おかしい……確かにこのあたりのはずなんだけど……。
追い打ちをかけるように、スマホの充電まで切れてしまった。
近くに住んでいる人に聞いてみようと、思い切ってインターホンを鳴らす。
しばらくして、扉越しから「どちら様ですか?」と声がする。
事情を説明して、住所がこの辺りであることを確認する。
しかし建物名までは知らなかった。
時間は夜の八時に近くなっていた。
傍から見れば、僕らはみんなヨソ者だ。これ以上は聴けなかった。
ドア越しに「ありがとうございました、夜分に大変失礼しました」とだけ返事をした。
少しだけ寂しい思いを感じた。
しかし、目的地はすぐそこのはずだった。
慌てた僕は、
「場所が近くだけど、スマホの充電が切れてしまったから一度家に帰って充電してきます」
一家にそう伝えた。
すると、母親は少し緊張した面持ちになって、急に
「私たちはホテルを予約していません、料金が高いから」
と言い始めた。
「けれど……」
僕は何と言って良いか分からずにいると、母親は尚も続ける。
「私たち夫婦はこのままどこか座れるところがあれば夜をそこで明かしても良いのです」
「そんなことはさせられない」
確かにそう思った。
しかし、次の言葉を聞いて、一瞬息が止まった。
「でも、もしできるなら、この子だけでもお宅の家に泊めていただけませんか?」
子どもの方に目をやると、寒さと歩き疲れてその場でしゃがみこんでいる。
そばには父親が寄り添っている。
「なぜならこの子は特別だから、please」
母親の言葉を聞きながら子どもを見た時、やっと僕は意味を理解した。
子どもはハンディキャップを持っていた。
僕は今の今まで気付かずにいた。
道を探すのに一生懸命になっていたからか、暗い夜道で様子をよく見ていなかったからか。
理由は分からない。
たくさんの思考が一瞬のうちに巡った。
もっとやるべきことが、いくらでもあったのだ。
なぜ、自分がすぐに目的地に着けるなどと考えていたのだろう?
なぜ、この人たちに少しでも寒さをしのげるところで待ってもらって、一人で探さなかったのだろう?
なぜ、母親は娘を「特別」と言ったのか。
言葉の壁の向こう側で、たくさんの見落としていたことが浮き彫りになった。
僕の足元は大きくグラグラと揺れていた。
特別なことなど何もない。
どうすればこの一家が安心して心地良くいられるのか。
そんな普通のために必要なことを、僕は取りこぼしていた。
しかし、ここで立ち止まっているわけにはいかない。
深く呼吸をして今できることを探す。
父親がスマホを持っていたことを思い出し、地図を再検索して、住所の書いた紙を頼りに調べる。
地図は確かに目の前を示していた……もしや……。
「少し待っていてください。このすぐ近くだからグルリと走ってきます」
そう言って、今いる場所の反対に出てみると一本の狭い小道が目に入った。
その少し奥に家がある。
郵便ポストに書かれた住所を見ると、目的地だった。
急いで戻って見つけた旨を伝え、家族を連れて来る。
こうして、今夜家族が泊ることになっていた家の扉は開かれた。
父親が「本当にありがとう」と言って、僕にお礼の1000円のチップを渡そうとした。
僕は硬くなりながら、
「僕がしっかりしていればこんなに時間が掛からなかった。これは受け取れません」
すると父親は、
「これは我々の文化です。それにあなたは一生懸命案内をしてくれた」
そう言って、大きな手で握手をしてきた。
「そのせめてものお礼です。これで温かいコーヒーでも飲んで」
包んだ手でチップを渡してくれた。
最後に女の子が来て、「Thank you」と頭をチョコンと下げて言った。
別れの挨拶を交わし、扉が閉まるまでの間。
僕は深く頭を下げていた。
どうか扉の向こうの家族が安心して眠れますように、と。
***
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